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お知らせ武将合戦2026年09月13日

堀秀政と手取川の戦いのページを公開しました

「名人」と称された織田信長の側近・堀秀政の武将ページと、七尾城を落とした上杉謙信が柴田勝家率いる織田軍を加賀の手取川で追撃したとされる手取川の戦いの合戦ページを公開しました。

堀秀政の武将ページと、手取川の戦いの合戦ページを公開しました。秀政は天正5年(1577年)、上杉謙信に攻められた能登七尾城を救援する織田軍の一員として北国へ出陣しており、手取川の戦いのページからも辿れます。

堀秀政

13歳だった永禄8年(1565年)に信長の小姓として仕え始め、本圀寺の普請奉行をはじめ各種の奉行職を務めて側近としての地位を確立した武将です。やがて戦場でも活躍するようになり、越前一向一揆討伐・紀伊雑賀討伐・有岡城の戦い・第二次天正伊賀の乱などを戦って、天正9年(1581年)には長浜城主2万5,000石を与えられました。

本能寺の変の時は羽柴秀吉の軍監として備中にいましたが、秀吉と共に急ぎ上方へ戻って山崎の戦いで先陣を務め、明智秀満を坂本城に追い込んでいます。清洲会議では三法師の傅役となり、賤ヶ岳の戦いを経て佐和山城主、小牧・長久手の戦いでは桧ヶ根で徳川軍を迎え撃って大須賀康高・榊原康政らを敗走させました。天正13年(1585年)に越前北ノ庄18万石を領しましたが、天正18年(1590年)の小田原征伐で左備の大将として山中城を落とした後、陣中で疫病を患い急死しました。享年38。『武家事紀』『名将言行録』では「名人左衛門佐」と呼ばれています。

ページでは、誕生から小田原陣中での死去までの21項目の年表、9つの合戦での役割、「名人」と呼ばれた理由や山崎の戦いでの働き、堀家のその後をまとめたFAQを収めました。人の使い方にまつわる逸話も紹介しています。

手取川の戦い

天正5年9月23日(1577年11月3日)、加賀国の手取川で、上杉謙信の軍が織田信長の軍を破ったとされる戦いです。能登の七尾城を攻める謙信に対し、城を守る長続連は織田信長に救援を求め、信長は柴田勝家を総大将とする4万の軍勢を派遣しました。しかし織田軍が加賀に進む間に、遊佐続光らの内応によって七尾城は落城します。落城を知らずに手取川を越えて進軍した織田軍は、謙信の後詰を知って退却に転じたところを夜中に追撃され、千余人が討ち取られ、増水した手取川で多数の溺死者を出したと謙信の書状は伝えています。

一方で『信長公記』にはこの合戦の記述がなく、『長家家譜』は織田勢が戦わずに帰陣したと記すなど、上杉軍の大勝という帰趨や戦いの規模には議論があります。ページでは、謙信の書状に基づく経過とあわせて、こうした史料上の議論も紹介しました。また、軍議で勝家と衝突した羽柴秀吉が独断で戦線を離脱した一件や、「上杉に逢うては織田も手取川」の落首についてもまとめています。

ページの内容は、前年の能登侵攻から謙信による能登・加賀支配の確立までを11項目の時系列で追ったタイムライン、織田軍17名・上杉軍7名の参加武将と兵力・損害、FAQ3問です。あわせて関連書籍を3冊追加しました。

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