島津義弘
両親
父
島津貴久
母
入来院氏の娘(雪窓夫人)
正室・側室
正室
北郷忠孝の娘
北郷忠孝の娘
継室
亀徳
相良晴広の娘
継々室
実窓夫人
園田実明の娘
子
長男
鶴寿丸
母: 実窓夫人
加久藤城にて早世
次男
島津久保
母: 実窓夫人
朝鮮にて病死
三男
島津忠恒
母: 実窓夫人
初代薩摩藩主
四男
万千代丸
母: 実窓夫人
堺にて早世
五男
島津忠清
母: 実窓夫人
早世
長女
お屋地
母: 北郷忠孝の娘
次女
御下
母: 実窓夫人
島津貴久の次男として伊作城に生まれる。はじめ忠平と称した
父・貴久とともに大隅国西部の祁答院良重・入来院重嗣・蒲生範清らの連合軍と岩剣城にて戦う
大隅国の蒲生氏を攻めた際に初めて敵の首級を挙げる。5本の矢を受け重傷を負う
日向国の伊東義祐の攻撃に困惑する島津忠親の養子となり飫肥城に入る
本家が肝付氏の攻撃にさらされ帰還。義弘不在の飫肥城は陥落し養子縁組も白紙に
伊東義祐が飯野城攻略のため三ツ山城を建設中と聞き攻めるも、城は落とせず重傷を負い撤退
伊東義祐の3,000の大軍に対して300の寡兵で奇襲、これを打ち破る
日向の伊東義祐を追放し、島津氏の日向支配を確立
豊後から遠征してきた大友軍を撃破。島津軍の主力として参戦し武功を挙げる
八代に入り阿蘇氏を攻めて降伏させるなど、兄に代わり島津軍の総大将として指揮を執る
大友領に侵攻するも、志賀親次ら大友方の抵抗に合い思うように進まず
豊臣秀吉の九州平定軍と日向根白坂で戦うも兵力差により敗北
兄・義久の説得により子の久保を人質として差し出し降伏。大隅国を安堵される
上洛し羽柴の名字と豊臣の本姓を下賜され、従五位下侍従に叙任
朝鮮へ渡海。軍役動員の遅延で「日本一の大遅陣」と嘆く
和平交渉中の朝鮮滞陣中に嫡男の久保を病気で失う
再び朝鮮へ渡海。漆川梁海戦で敵将・元均を討ち取る
明・朝鮮の大軍を7,000の寡兵で打ち破り、徳川家康から「前代未聞の大勝利」と評される
朝鮮の役最後の海戦。立花宗茂らと小西行長軍救出のため出撃。明水軍副将・鄧子龍、朝鮮水軍主将・李舜臣を戦死させる
剃髪して惟新斎と号す。祖父・忠良の号「日新斎」にあやかったもの
西軍として参戦。西軍壊滅後、敵中突破の退却戦「島津の退き口」を敢行。甥・豊久らが犠牲となるも義弘は生還
徳川家康が島津本領安堵を決定。井伊直政の仲介により和平交渉が成立
大隅国加治木にて死去。享年85。13名の家臣が殉死した
※ 年齢は数え年で表記しています。数え年は生まれた年を1歳とし、元日を迎えるごとに加算する日本の伝統的な年齢の数え方です。
概要
島津義弘は、島津貴久の次男として天文4年(1535年)に薩摩国伊作城に生まれた戦国武将である。兄・義久を補佐して島津氏の九州制覇に貢献し、木崎原の戦いでは300の寡兵で3,000の伊東軍を撃破するなど、生涯を通じて勇猛果敢な戦いぶりを示した。
豊臣政権下では文禄・慶長の役に参戦し、泗川の戦いでは明・朝鮮の大軍を7,000の兵で破り、徳川家康から「前代未聞の大勝利」と評された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、敗戦後に敵中突破の退却戦「島津の退き口」を敢行して薩摩への帰還を果たした。
元和5年(1619年)に大隅国加治木で死去。享年85。その死に際して13名の家臣が殉死するほど慕われた武将であった。
生涯
出生と黎明期
天文4年7月23日(1535年8月21日)、第15代当主・島津貴久の次男として伊作城に生まれる。はじめ忠平と称し、のちに室町幕府第15代将軍・足利義昭から偏諱を賜って義珍と改め、さらに義弘と改めた。
天文23年(1554年)、父とともに大隅国西部の連合軍と岩剣城にて戦い初陣を飾る。弘治3年(1557年)には蒲生氏を攻めた際に初めて敵の首級を挙げたが、このとき5本の矢を受けて重傷を負った。
永禄3年(1560年)、日向国の伊東義祐の攻撃に苦しむ飫肥の島津忠親の養子となって飫肥城に入ったが、永禄5年(1562年)に本家が肝付氏の攻撃にさらされ帰還を余儀なくされ、飫肥城は陥落した。その後、飯野城を居城として真幸院を任されることとなる。
勢力拡大と九州統一戦
兄・義久が家督を継ぐとこれを補佐し、元亀3年(1572年)の木崎原の戦いでは、伊東義祐の3,000の大軍に対して300の寡兵で奇襲をかけてこれを撃破した。
天正5年(1577年)には伊東義祐を日向から追放し、天正6年(1578年)の耳川の戦いでは大友軍を破る武功を挙げた。天正13年(1585年)には肥後国の守護代として八代に入り阿蘇氏を降伏させるなど、兄に代わって島津軍の総大将として指揮を執ることも多かった。
豊臣政権への臣従
天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州平定軍と根白坂で戦うが兵力差により敗北。兄・義久の降伏後も徹底抗戦を主張したが、義久の説得により子の久保を人質として差し出して降伏した。翌年上洛し、羽柴の名字と豊臣の本姓を下賜され、従五位下侍従に叙任された。
なお、この際に義久から家督を譲られ第17代当主になったとされるが、正式な家督相続の事実は確認できず、形式的なものであったと推測されている。
朝鮮の役
文禄の役では四番隊に所属したが、国元の軍役動員が遅れ「日本一の大遅陣」と嘆いた。朝鮮滞陣中の文禄2年(1593年)には嫡男の久保を病で失っている。
慶長の役では泗川の戦いにおいて、明・朝鮮の大軍を7,000の寡兵で打ち破る大勝利を収めた。徳川家康はこの戦果を「前代未聞の大勝利」と評した。朝鮮の役最後の海戦となった露梁海戦では、立花宗茂らとともに小西行長軍救出のため出撃し、明水軍副将・鄧子龍や朝鮮水軍主将・李舜臣を戦死させた。
関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)、徳川家康の会津征伐に際して援軍要請を受け1,000の軍勢を率いて伏見城に馳せ参じたが、鳥居元忠に入城を拒否されたため西軍への参戦を決意したとされる。ただし、慶長5年7月15日付の上杉景勝宛書状では、すでに毛利輝元・石田三成らと連携して反家康の動きに参加していたことが確認されている。
関ヶ原本戦では西軍壊滅後、退路を断たれた島津隊は正面突破を決意。「捨て奸」と呼ばれる決死の足止め戦法を用いながら敵中突破を敢行した。甥の島津豊久や家老の長寿院盛淳らが犠牲となったが、義弘は生還を果たした。追撃した井伊直政は重傷を負い、後年これがもとで没したとされる。
晩年
薩摩に帰還後は、井伊直政の仲介で徳川との和平交渉を進め、慶長7年(1602年)に島津家の本領安堵を勝ち取った。その後は大隅の加治木に隠居し、若者たちの教育に力を注いだ。
元和5年7月21日(1619年8月30日)、加治木にて死去。享年85。殉死禁止令下であったにもかかわらず13名の家臣が殉死した。
評価
祖父・島津忠良から「雄武英略をもって他に傑出する」と評されるほどの猛将であった。一方で敵に対しても情け深く、朝鮮の役の後には敵味方将兵の供養塔を高野山に建設している。許三官仕込みの医術や千利休・古田織部に学んだ茶の湯にも秀で、文武両道の武将であった。家臣を大切にし、主従分け隔てなく兵卒と囲炉裏で暖をとるなどの気配りから多くの家臣に慕われた。
最終更新日: 2026年04月12日





