— 人物紹介 —
概要
島津義弘は、天文4年(1535年)、島津貴久の次男として薩摩国の伊作城で生まれた戦国武将である。兄の義久を支えて島津氏が九州の制覇へ突き進むのに力を尽くし、木崎原の戦いでは300の兵で3,000の伊東勢を破った。生涯を通じて、少ない兵で大軍に挑む戦いぶりで知られる。
豊臣秀吉に従ってからは文禄・慶長の役で朝鮮へ渡り、泗川の戦いでは7,000の兵で明・朝鮮の大軍を退けた。この勝ちぶりは、徳川家康も並ぶもののない大勝利と評したほどである。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に加わり、味方が崩れた後、あえて敵の真ん中を突き抜けて戦場を離れる「島津の退き口」を成し遂げ、薩摩へ帰り着いた。
元和5年(1619年)、大隅国の加治木で世を去った。享年85。後を追って命を絶った家臣が13人に上ったことからも、どれほど慕われていたかがうかがえる。
生涯
出生と黎明期
島津家第15代当主・貴久の次男として、天文4年7月23日(1535年8月21日)に伊作城で生まれた。最初の名は忠平で、その後、室町幕府の第15代将軍・足利義昭から名の1字をもらって義珍と名乗り、さらに義弘へと改めている。
天文23年(1554年)、父に従って岩剣城で大隅国西部の諸氏の連合軍と戦ったのが初陣である。弘治3年(1557年)の蒲生氏との戦いでは初めて敵の首を取ったものの、自身も5本の矢を浴びて深手を負った。
永禄3年(1560年)、日向の伊東義祐に攻め立てられていた飫肥の島津忠親の養子となり、飫肥城に入った。しかし永禄5年(1562年)、今度は本家が肝付氏の激しい攻撃を受けるようになったため、薩摩へ戻らざるをえなくなる。義弘が去った飫肥城は落とされた。その後は真幸院の支配を任され、飯野城を本拠とすることになる。
勢力拡大と九州統一戦
兄の義久が家督を継ぐと、義弘はその片腕として働いた。元亀3年(1572年)の木崎原の戦いでは、3,000の兵で攻め寄せた伊東義祐に対し、300の兵で不意を突いて打ち破っている。
伊東義祐を日向から追い出したのが天正5年(1577年)で、翌天正6年(1578年)の耳川の戦いでも大友軍を破って手柄を立てた。天正13年(1585年)、肥後国の守護代となった義弘は八代に入り、阿蘇氏を攻めて降している。このように、兄に代わって島津軍全体を率いる場面も少なくなかった。
豊臣政権への臣従
天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州平定軍と日向の根白坂でぶつかったが、兵の数で大きく劣り敗れた。兄の義久が降った後も義弘は戦い続けるべきだと主張したが、義久に強く説き伏せられ、息子の久保を人質に出して降伏した。翌年には上洛し、秀吉から羽柴の名字と豊臣の姓を与えられ、従五位下侍従に任じられている。
この降伏の際、義久から家督を譲られて第17代当主になったとされることがある。ただ、正式に家督が引き継がれたことを示す事実は見つかっておらず、名目だけの譲渡だったと考えられている。
朝鮮の役
文禄の役では四番隊に組み込まれたが、国元からの兵の動員がはかどらず、義弘は名護屋に予定どおり着いたにもかかわらず、船の到着が遅れてしまった。このときの無念を、義弘は書状に「日本一の大遅陣」と書き残している。朝鮮に陣を構えていた文禄2年(1593年)には、嫡男の久保を病で亡くした。
慶長の役の泗川の戦いでは、明・朝鮮の大軍をわずか7,000の兵で打ち破った。家康はこの勝利を、これまで聞いたこともないほどの大勝と評している。朝鮮の役の締めくくりとなった露梁海戦では、立花宗茂らとともに、取り残された小西行長の軍を救い出すために出撃した。この戦いで、明の水軍の副将・鄧子龍と朝鮮水軍を率いる李舜臣が命を落としている。
関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)、徳川家康が会津の上杉景勝を討とうと兵を挙げると、義弘は家康から加勢を求められ、1,000の兵で伏見城へ向かった。ところが城を守る鳥居元忠に中へ入ることを断られたため、西軍につくことに決めたといわれる。ただし、同じ年の7月15日に義弘が上杉景勝へ送った書状を見ると、義弘はこの時点で毛利輝元・石田三成らと歩調を合わせ、家康に対抗する側にすでに加わっていたことが分かる。
本戦で西軍が総崩れになると、島津隊は退く道をふさがれた。そこで義弘たちは、後ろへ逃げるのでなく前の敵を突き破って戦場を抜けると決める。少しずつ兵を残して追っ手を食い止めさせる「捨て奸」の戦い方で時を稼ぎながら、敵の中を駆け抜けた。甥の島津豊久や家老の長寿院盛淳らが身代わりとなって討たれたが、義弘自身は生きて戦場を離れた。追いすがった井伊直政は深手を負い、後年この傷がもとで亡くなったとされる。
晩年
薩摩に帰った義弘は、井伊直政を仲立ちとして徳川家との和睦を探り、慶長7年(1602年)に島津家の領地をそのまま認めさせることに成功した。その後は大隅の加治木に退き、若い世代を育てることに打ち込んだ。
元和5年7月21日(1619年8月30日)、加治木で亡くなった。享年85。主君の後を追って死ぬことが禁じられていたにもかかわらず、13人の家臣が殉死している。
評価
祖父の島津忠良は、武勇と知略で抜きん出た孫として義弘を高く買っていた。戦場での猛々しさの一方で、敵に対する思いやりも持ち合わせ、朝鮮の役が終わると高野山に敵と味方の双方の戦死者を弔う供養塔を建てている。許三官から学んだ医術や、千利休・古田織部に教わった茶の湯にも通じ、武芸だけの人物ではなかった。家臣を大事にし、身分を問わず兵たちと同じ囲炉裏を囲んで暖を取るような心配りも見せたため、多くの家臣から慕われた。





