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天正15年4月17日

根白坂の戦い

ねじろざか の たたかい1587年05月24日
— 場所 —
日向国根白坂(現在の宮崎県児湯郡木城町・高城の南側)
— 結果 —
豊臣軍の勝利。
島津軍は大将格の武将をほとんど失って敗れた
— 歴史的意義 —
島津氏がまとまった兵力で豊臣軍に挑んだ最後の戦いとなり、豊臣秀吉の九州平定を決定的にした
増補新版 島津四兄弟の九州統一戦
書籍

増補新版 島津四兄弟の九州統一戦

新名一仁

志学社(志学社選書)

— 戦場の位置 —

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羽柴秀長と藤堂高虎
書籍

羽柴秀長と藤堂高虎

黒田基樹

NHK出版(NHK出版新書 753)

— 両軍 —

— 豊臣軍 —
指揮官
豊臣秀長日向から攻め込んだ軍の総大将
兵力
約80,000人(うち根白坂の砦の守備は約10,000人)
損害
資料に具体的な損害の記載はない
参加武将
宮部継潤根白坂の砦を守る。空堀と板塀を頼りに夜襲をしのぐ
藤堂高虎秀長の家臣。兵500を連れて宮部の加勢に駆けつける
戸川達安宇喜多秀家の家臣。手勢を連れて宮部の加勢に駆けつける
黒田官兵衛小早川勢とともに島津軍を両側から攻める
小早川隆景黒田勢とともに島津軍を両側から攻める
宇喜多秀家中国勢の一人として小倉で秀長軍に合流
毛利輝元中国勢の一人として小倉で秀長軍に合流
尾藤知宣軍監。秀長本隊の加勢も追撃も思いとどまらせる
— 島津軍 —
指揮官
島津義久島津家当主。高城を囲む秀長軍との決戦に踏み切る
兵力
約35,000人
損害
島津忠隣・猿渡信光をはじめ、大将格のほとんどが討たれる
参加武将
島津義弘義久の弟。夜襲に加わったが敗れる
島津家久義久の弟。敗戦後は佐土原城へ引き揚げる
島津忠隣大将格の一人。この戦いで討死
猿渡信光大将格の一人。この戦いで討死
関白秀吉の九州一統
書籍

関白秀吉の九州一統

中野等

吉川弘文館

— 戦いの経過 —

天正15年1月

九州征伐の動員令

徳川家康を従わせた豊臣秀吉が九州攻めの動員をかけ、畿内・中国・四国の大名たちの軍が九州へ向かう

3月下旬

秀長軍の日向侵攻

豊臣秀長の軍は豊前小倉で、先に着いていた毛利輝元・宇喜多秀家・宮部継潤らの中国勢と一つになり、豊後から日向へ攻め入った。3月29日には日向北部の要所・松尾城を落とす

4月6日

高城の包囲と根白坂の砦構築

秀長軍が次に向かったのは日向南部の要所・高城だった。守りが固いため力攻めは避け、幾重にも囲んで兵糧が尽きるのを待つ。あわせて、島津の援軍が高城へ向かうなら避けて通れない根白坂に砦を築き、そこで待ち受ける構えを取った

4月17日夜半

島津軍の夜襲

秀吉の本隊が九州の西側を薩摩へ向けて南下していると知った島津義久は、行き詰まりを打開するため、高城を囲む秀長軍との決戦に踏み切った。17日の夜半、島津軍が根白坂へ攻めかかる

夜襲直後

宮部継潤の防戦

宮部継潤ら1万の守備兵は、空堀と板塀を盾にして砦を守り通した。島津軍は砦を破れず、戦いはこう着した

夜襲直後

尾藤知宣、救援中止を進言

秀長の本隊が加勢に来たものの、軍監の尾藤知宣は戦況を見て、助けに入るのは無理で島津軍とぶつかるべきではないと秀長に説いた。秀長はこれを聞き入れ、本隊の加勢を取りやめた

夜襲の後

藤堂高虎・戸川達安の救援

それでも秀長の家臣・藤堂高虎が兵500を、宇喜多秀家の家臣・戸川達安が手勢を連れて宮部のもとへ駆けつけ、島津軍をかき乱した

決着

小早川・黒田勢の挟撃

続いて小早川隆景と黒田官兵衛(孝高)の軍が両側から攻めかかった。挟み撃ちにされた島津方は、島津忠隣・猿渡信光をはじめ大将格のほとんどが討死し、大敗した

戦闘終結後

追撃の中止

秀長らは逃げる島津軍を追おうとしたが、尾藤知宣が深入りは危ないと言い張り、追撃は見送られた。のちに秀吉は尾藤の弱腰をきびしく咎め、与えたばかりの領地を取り上げて追放する

4月21日〜5月8日

島津義久の降伏

義久と義弘はわずかな兵を連れて都於郡城へ、家久は佐土原城へ引き揚げた。4月21日、義久は伊集院忠棟と平田増宗を人質に出して秀長に和睦を願い出る。兵を立て直す余裕もなく戦う気力を失った義久は、頭を丸めて龍伯と名乗り、5月8日に泰平寺で秀吉に降った

藤堂高虎伝 七人の主君に仕え乱世を生きた武将
書籍

藤堂高虎伝 七人の主君に仕え乱世を生きた武将

安田稔

文芸社

— 戦いの内容 —

概要

天正15年4月17日(西暦1587年5月24日)、日向国の根白坂で、豊臣秀吉の軍と島津義久の軍がぶつかった。これが根白坂の戦いである。

九州征伐のうち日向方面を受け持った豊臣秀長は、日向南部の高城を囲んで兵糧を断ち、島津の援軍が通るはずの根白坂には砦を築いて待ち構えた。追い詰められた島津義久はこの砦に夜襲をかけたが、守将の宮部継潤は空堀と板塀で持ちこたえる。戦いがこう着したところへ藤堂高虎・戸川達安の手勢が加勢し、さらに小早川隆景・黒田官兵衛(孝高)の軍が両側から攻めかかったことで、島津軍は大将格のほとんどを失って敗れた。

主力を失った島津氏には、もはや抵抗を続ける力がなかった。義久は5月8日に秀吉へ降伏する。豊後の戸次川で仙石秀久が喫した敗北を取り返し、秀吉の九州平定を確かなものにした一戦であった。

背景

九州の制覇をめざす島津義久は、天正14年(1586年)から豊後へ攻め込み、12月の戸次川の戦いで豊臣・大友の連合軍を破った。大友義統はいったん豊前へ逃れ、豊後の西部と中部はほとんど島津氏の手に落ちた。

これに対し、すでに徳川家康を従わせていた豊臣秀吉は、翌天正15年(1587年)の1月、九州攻めの動員をかけ、畿内・中国・四国の大名たちの軍を九州へ差し向けた。3月、秀吉の弟・秀長の軍が豊前小倉に着き、先に来ていた毛利輝元・宇喜多秀家・宮部継潤らの中国勢と一つになると、豊臣軍は総勢10万に膨れ上がる。これを見て、島津軍に攻められても城を守り抜いた岡城の志賀親次や栂牟礼城の佐伯惟定らが勢いを取り戻し、豊前・豊後の土豪や、肥前の龍造寺政家・鍋島直茂も豊臣方についた。

兵力であまりに劣る島津義久は、戦線を縮めることにした。府内を占めていた島津家久を退かせ、代わりに島津義弘に府内を守らせる。秀吉は高野山の木食応其と一色昭秀を送って和議を持ちかけたが、義弘はこれを断り、戦い続ける道を選んだ。ところが、佐伯惟定の率いる大友軍が反撃に出て、本国との連絡路にあたる朝日嶽城を落としてしまう。形勢が悪いと見た義弘は3月15日の夜半に府内城を抜け出し、豊後松尾城の家久と合流して豊後から引き揚げた。退く途中でも志賀親次・佐伯惟定に追い討ちをかけられ、島津軍は大きな損害を出しながら日向まで下がった。

3月下旬、秀長が率いる日向方面の軍が豊後から日向へ入り、29日に日向北部の要所・松尾城を落とした。秀長軍が次に向かったのは日向南部の要所・高城である。守りの固い城だったため、秀長は力攻めを避けて城を幾重にも取り囲み、兵糧が尽きるのを待った。そのうえで、島津の援軍が高城へ向かうなら避けて通れない根白坂に砦を築き、ここを固めて島津軍を待ち受けた。

同じころ、秀吉の本隊は3月1日に大坂を発ち、29日に豊前小倉へ着いた。4月1日に秋月種実の支城・岩石城を落とすと、種実は3日に降伏する。秀吉はそのまま4月10日に筑後へ、16日に肥後の隈本(熊本)へ、17日には宇土へと兵を進めた。その間、秀吉の勢いを恐れた各地の土豪は次々に降っていった。

戦いの経過

秀吉の本隊が九州の西側を薩摩へ向けて南下していると知り、島津義久はあわてた。秀長軍に備えるため、義久は薩摩・大隅などの兵の大半を日向の都於郡城に集めており、その分だけ西側の守りは薄くなっていた。豊臣方が迫ると、それまで島津氏に従っていた各地の勢力は、ほとんどが豊臣方へ寝返っていく。行き詰まりを打開しなければならなくなった義久は、高城を囲む秀長軍との決戦に踏み切った。

4月17日の夜半、島津軍が根白坂に攻めかかった。根白坂は高城の南にある坂で、高城を救いに行くならここを通るほかない。秀長らはそれを見越して前もって砦を築き、守りを固めていた。

両軍の兵力ははっきりせず諸説あるが、豊臣軍はおよそ8万、島津軍はおよそ3万5000といわれる。砦には守将の宮部継潤を中心に1万の兵が詰め、空堀と板塀を盾に踏みとどまった。島津軍は砦を破ることができず、戦いはこう着する。

秀長の本隊が加勢に駆けつけたが、軍監の尾藤知宣は戦況を見て、助けに入るのは無理であり、島津軍と正面からぶつかるべきではないと秀長に説いた。秀長はこの意見を受け入れ、本隊による加勢を取りやめる。それでも、秀長の家臣・藤堂高虎が兵500を、宇喜多秀家の家臣・戸川達安が手勢を連れて宮部のもとへ向かい、島津軍をかき乱した。そこへ小早川隆景と黒田官兵衛(孝高)の軍が両側から攻めかかる。挟み撃ちにされた島津軍は、島津忠隣・猿渡信光をはじめ大将格のほとんどが討死する大敗を喫した。

秀長らは逃げる島津軍を追おうとしたが、尾藤が深追いは危ないと言い張ったため、追撃は行われなかった。一方、高城で島津家久の軍を退け、大軍を食い止めた宮部継潤について、秀吉はのちに「法印(継潤)事は今にはじめぬ巧者ものなり」(『川角太閤記』)と称えている。

結果と影響

尾藤知宣は、加勢も追撃も止めた弱腰を秀吉にきびしく責められ、与えられたばかりの領地を取り上げられて追放された。その後は諸国をさまよい、最後は処刑されている。

大敗した義久と義弘はわずかな兵を連れて都於郡城へ、家久は佐土原城へと引き揚げた。豊臣秀次は都於郡城を攻め落とし、三ツ山と野尻の境にある岩牟礼城まで兵を進める。義弘は飯野城に立てこもった。

根白坂から10日とたたないうちに、九州の西側では豊臣の本隊が島津氏の本国・薩摩へ攻め入っていた。一族で重臣でもある島津忠辰・島津忠長らも降っていく。主力が敗れた島津氏には兵を立て直すいとまもなく、戦う気力を失った義久は頭を丸めて龍伯と名乗り、5月8日に秀吉へ降伏した。そのあと龍伯は、なおも最後まで戦おうとする義弘・島津歳久や、新納忠元らの家臣を説き伏せる。足利義昭と木食応其が間に入り、島津氏がすっかり秀吉に従ったのは5月下旬のことであった。

5月13日、秀吉は秀長に全11か条の「条々」を与えた(『大友家文書録』)。大隅・日向で取っていた人質を放すこと、毛利輝元・小早川隆景・吉川元長を薩摩へ移すこと、宇喜多秀家・宮部継潤・蜂須賀家政・尾藤知宣・黒田官兵衛に日向・大隅・豊後の城の普請と取り壊しを命じることなどが書かれている。

のちに秀吉は、薩摩を義久に、大隅を義弘に、日向のうち一郡を義弘の子・島津久保に与えた。義久はその後、家督を弟の義弘に譲って兄弟二人で家を率いる形を取る。島津家は豊臣政権から江戸幕府の時代を通じて、明治に至るまでこの2国1郡を治め続けた。

根白坂の勝利は、豊後の守りを固めよという秀吉の命令に背き、独断で戸次川の戦いに打って出て敗れた仙石秀久の失敗を取り返すものでもあった。秀吉の九州平定はこれで揺るがないものとなり、追い詰められていた大友義鎮(宗麟)も救われた。

築城の名手 藤堂高虎
書籍

築城の名手 藤堂高虎

福井健二

戎光祥出版(図説日本の城郭シリーズ4)

— 問答 —
問
根白坂の戦いはなぜ九州平定を決定づけたといわれるのですか?
答
根白坂で島津方は大将格の武将をほとんど失いました。主力どうしの決戦に大敗したことで、軍を立て直す時間もなくなります。ほぼ同じころ、九州の西側では秀吉の本隊が薩摩へ攻め込み始めており、島津忠辰や島津忠長ら一族の有力者も次々に降っていきました。義久は戦う気力をなくして頭を丸め、天正15年5月8日に秀吉へ降伏します。島津氏がまとまった軍勢で抵抗したのは根白坂が最後となり、九州平定の行方はここで決まりました。この勝利は、豊後で秀吉の命令に背いて戸次川の戦いに打って出て敗れた仙石秀久の失敗を取り返し、追い詰められていた大友義鎮(宗麟)を救うことにもなっています。
問
両軍の兵力はどれくらいだったのですか?
答
兵力ははっきりせず諸説ありますが、豊臣軍がおよそ8万、島津軍がおよそ3万5000とされています。根白坂の砦に詰めていたのは宮部継潤を中心とする1万の兵で、空堀と板塀を使って島津軍の夜襲を防ぎきりました。高城を救いに出た島津義久・義弘・家久の軍を2万とする記述もあります。
問
軍監の尾藤知宣はなぜ処罰されたのですか?
答
宮部継潤の砦が島津軍の夜襲を受けたとき、尾藤知宣は、加勢は無理だから島津軍とは戦わないようにと豊臣秀長に説き、本隊を動かさせませんでした。戦いが終わって秀長が島津軍を追おうとしたときも、深入りは危ないと言って追撃を止めています。秀吉はこの弱腰をきびしく咎め、尾藤に与えたばかりの領地を取り上げて追放しました。尾藤はその後諸国をさまよい、最後は処刑されています。反対に、砦を守りきった宮部継潤のことを、秀吉は「法印(継潤)事は今にはじめぬ巧者ものなり」(『川角太閤記』)とほめたたえました。
— 関連文献・史料 —
豊臣秀吉の合戦(日本の合戦6)桑田忠親研究書
戦国合戦大事典研究書
関白秀吉の九州一統中野等研究書
川角太閤記一次史料
大友家文書録一次史料

最終更新日: 2026年08月30日