— 戦いの内容 —
概要
大坂冬の陣は、慶長19年(1614年)11月から12月にかけて、江戸幕府と豊臣家との間で行われた合戦。翌年の大坂夏の陣とあわせて「大坂の陣」と総称される。方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川家康は諸大名20万を動員して大坂城を包囲し、豊臣家も10万の兵を集めて籠城戦を戦った。真田信繁が築いた出城「真田丸」で徳川方を撃退したことが特筆される一方、両軍とも決定的な打撃を与えられぬまま和議に至り、大坂城の外堀・二の丸・三の丸が埋め立てられて翌年の夏の陣における豊臣方の敗北を決定づけた。
背景
関ヶ原の戦い以降、徳川家康は五大老の筆頭から幕府将軍へと立場を移し、慶長10年(1605年)には将軍職を秀忠に譲って徳川政権の世襲を天下に示した。しかし摂津・河内・和泉65万石の大名として大坂城に残った豊臣秀頼は、いまだ独立した権威を保っており、両家の関係は緊張を孕んでいた。
慶長14年(1609年)、秀頼は父・秀吉が建立した方広寺大仏殿の再建に着手する。慶長19年(1614年)4月に梵鐘が完成し、7月には梵鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」に対して家康が「家康の諱を分断し、豊臣を君として楽しむ意図がある」と問題視した(方広寺鐘銘事件)。9月には片桐且元の追放を受けて開戦が決定的となり、10月1日、家康は諸大名に大坂への出兵を命じた。
戦いの経過
豊臣方の準備
豊臣家は旧恩の大名や浪人衆に檄を飛ばし、秀吉の遺した莫大な金銀を用いて全国から浪人を召し抱えた。真田信繁・後藤基次(又兵衛)・毛利勝永・長宗我部盛親・明石全登の「五人衆」をはじめ、塙直之・木村重成・大野治房ら約10万の兵が集結した。しかし諸大名で大坂城に馳せ参じる者はなく、豊臣方は孤立した籠城戦を強いられることとなる。
作戦方針をめぐっては、宿老・大野治長を中心とする籠城派と、真田信繁を筆頭に瀬田川まで討って出るべしと主張する浪人衆の間で激しい議論が起こった。結局、堅固な大坂城に立て籠もる籠城策が採用され、周辺に砦を築いて連絡線を確保する方針が取られた。
幕府方の出陣と緒戦
10月11日、家康は駿府を発ち、23日に二条城に入った。秀忠も同日、6万の軍勢を率いて江戸を出発している。幕府方の動員兵力は約20万人。ただし豊臣恩顧の福島正則・黒田長政・加藤嘉明らは江戸城に留め置かれた。11月18日、家康と秀忠は茶臼山で軍議を行い、大坂城包囲網が完成した。
11月19日、大坂城南西の木津川口の砦をめぐる戦いから戦闘が始まる。以後26日には鴫野・今福で、29日には博労淵、野田・福島で相次いで戦闘が行われた。豊臣方は緒戦で大坂城外の砦を次々と失い、30日には残る砦を放棄して大坂城に撤収した。
真田丸の戦い
12月に入り、豊臣方が籠城した大坂城を徳川方は約20万の軍で完全に包囲した。徳川方は各所で仕寄(塹壕)と築山を築き、大坂城に接近していく。この過程で起こったのが真田丸の戦いである。
大坂城南側・玉造口外に真田信繁が築いた出城「真田丸」を、12月4日に前田利常・松平忠直・井伊直孝の徳川方が攻撃した。信繁は寄せ手を巧みに引きつけて撃退し、徳川方に大きな損害を与える。信繁は真田丸を「大坂城の最弱部」と徳川方に思わせることで、実際の弱点(西側の惣堀の狭い部分)から敵の注意を逸らす戦術を用いていた。この戦いで信繁は初めて武名を天下に知らしめることとなる。
大砲と和議
12月に入ると徳川方は南方から本丸への大砲射撃を本格化させた。国友製3貫目の大砲、イギリスから購入したカルバリン砲・セーカー砲、オランダ製の大砲12門などが投入され、備前島と天王寺口の両方向から昼夜を問わず砲撃が続けられた。田付景澄の放ったカルバリン砲が大坂城天守に直撃し、講和機運が一気に高まったとされる。
12月16日、本丸に撃ち込まれた砲弾が淀殿の侍女8名を即死させた。淀殿は「大坂城は10年でも持ちこたえられる」と豪語していたが、この惨状を目の当たりにして和議に応じることを決意する。
12月18日から京極忠高の陣で本多正純・阿茶局と、豊臣方の常高院(淀殿の妹)との間で和議交渉が行われ、19日に条件がほぼ合意、20日に誓書が交換されて和議が成立した。同日、家康・秀忠は諸将に砲撃停止を命じた。
結果と影響
和議条件のうち、堀の埋め立ては本来「外堀のみ」とされる儀礼的なものが古来の慣行だったが、徳川側は突貫工事で外堀を全て埋め、続けて翌1月から二の丸まで埋め立てた。この工事に伴う旧堀の破壊は大坂城の防御力を根本から失わせ、本丸のみを残す裸城とすることとなった。従来「徳川方が『惣』の字を曲解して内堀まで埋めた」との俗説があるが、当時の一次史料には見えず、「二の丸・三の丸の埋め立ては両者の当初からの合意」であったとする見方が近年の研究では有力である。
この講和は、家康にとっては開戦目的(豊臣家の武装解除)を戦わずして達成する事実上の勝利であり、豊臣方にとっては翌年の夏の陣を絶望的な状況で迎えることを決定づける敗北であった。真田信繁の真田丸での奮戦は戦術的には輝かしいものだったが、戦略的な大勢を覆すには至らなかったのである。




