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慶長19年11月19日〜12月20日(1614〜1615年)

大坂冬の陣

おおさかふゆのじん1614年12月19日
— 場所 —
大坂城(現在の大阪府大阪市中央区)
— 結果 —
和議成立(大坂城の外堀・二の丸・三の丸の堀を埋め立てる条件で講和)
— 歴史的意義 —
大坂の陣の前半戦。徳川と豊臣の武力衝突が始まった籠城戦で、真田信繁が真田丸の戦いで武名を天下に知らしめた。和議による堀の埋め立てで、翌年の夏の陣における大坂城の防御力は大きく損なわれた
論争 大坂の陣
書籍

論争 大坂の陣

笠谷和比古

新潮社

— 戦場の位置 —

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今村翔吾と読む 真田風雲記 (中公文庫 い 143-1)
書籍

今村翔吾と読む 真田風雲記 (中公文庫 い 143-1)

今村 翔吾

中央公論新社

— 両軍 —

— 豊臣方(籠城方) —
指揮官
豊臣秀頼総大将。大坂城主・右大臣
兵力
約100,000人
損害
木津川口・鴫野・今福・博労淵・野田福島の緒戦で砦を失うが、真田丸戦で徳川方に大打撃を与えた
参加武将
真田信繁大坂城南側に真田丸を築いて徳川方を撃退。武名を天下に知らしめる
後藤基次(又兵衛)五人衆の一人。真田案(瀬田川迎撃)を支持
毛利勝永五人衆の一人。真田案を支持
長宗我部盛親五人衆の一人。旧領土佐奪回を狙って入城
明石全登五人衆の一人。キリシタン武将
大野治長豊臣家宿老。籠城派の中心。和議交渉を担当
大野治房治長の弟。主戦派
木村重成豊臣譜代の若武者。今福で戦功
塙直之(団右衛門)本町橋の夜襲で戦功
淀殿秀頼生母。豊臣家の実質的な指導者
織田有楽斎大野治長とともに和議交渉を担当
— 幕府方(攻囲方) —
指揮官
徳川家康総大将。茶臼山に本陣を置く
徳川秀忠2代将軍。岡山に本陣を置く
兵力
約200,000人
損害
真田丸の戦いで前田・松平・井伊隊が大損害。他の局地戦は概ね優勢に進めた
参加武将
前田利常真田丸攻撃の主力。損害を出す
松平忠直越前福井藩主。家康の孫
伊達政宗東軍主力の一角
上杉景勝鴫野の戦いで戦功
直江兼続景勝の家宰として鴫野の戦いに参陣
佐竹義宣今福の戦いで戦功
藤堂高虎家康側近。仕寄構築を指揮
井伊直孝真田丸攻撃に加わる
蜂須賀至鎮本町橋で塙直之の夜襲を受ける
本多正純家康側近。和議交渉を担当
大坂の陣全史 1598-1616
書籍

大坂の陣全史 1598-1616

渡邊大門

草思社

— 戦いの経過 —

慶長19年7月26日

方広寺鐘銘事件

秀頼が再建した方広寺大仏殿の梵鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」が家康の諱を分断し豊臣を君とする意図を持つと家康が問題視。開眼供養と大仏殿供養の延期が命じられ、両家の関係が急速に悪化した

10月1日

開戦決定

片桐且元が大坂を退去し、家康は豊臣家による且元殺害計画の報を受けて激怒。同日、諸大名に出兵を命じた。豊臣家は旧恩ある大名や浪人に檄を飛ばし、真田信繁・後藤基次・毛利勝永ら五人衆をはじめ約10万の兵を集めた

11月19日

木津川口の戦い(開戦)

大坂城南西の木津川口の砦をめぐる戦いから大坂の陣が始まる。豊臣方の砦は蜂須賀至鎮の攻撃で陥落した

11月26日

鴫野・今福の戦い

大坂城北東の鴫野で上杉景勝・直江兼続、今福で佐竹義宣が豊臣方と激戦を演じ、両所を制圧。豊臣方の外部拠点が次々と失われていった

11月29日

博労淵・野田福島の戦い

大坂城西方の博労淵、南西の野田・福島の砦をめぐって戦闘が起こる。豊臣方は30日までに残りの砦を放棄して大坂城に撤収し、以後は籠城戦となった

12月4日

真田丸の戦い

大坂城南側の三の丸外に真田信繁が築いた出城「真田丸」を、前田利常・松平忠直・井伊直孝ら徳川方が攻撃。信繁は寄せ手を撃退し、徳川方に大きな損害を与えた。この戦いで信繁は初めて武名を天下に知らしめた

12月16日

総砲撃・淀殿御殿への着弾

幕府軍は北の備前島から国友製3貫目砲、南の天王寺口から本丸への砲撃を本格化。オランダ・イギリスから購入した大砲も投入された。本丸に撃ち込まれた砲弾が淀殿の侍女8名を即死させ、これが淀殿を和議へと決意させた

12月18日

和議交渉

京極忠高の陣で本多正純・阿茶局と、豊臣方の常高院(淀殿の妹)との間で和議交渉が開始される。翌19日には条件がほぼ合意された

12月20日

和議成立、砲撃停止

和議が正式に成立し、家康・秀忠は諸将に砲撃停止を命じた。条件は大坂城の外堀・二の丸・三の丸の堀を埋め立てること、大野治長と織田有楽斎から人質を出すこと。徳川家側は秀頼の身の安全と本領安堵、城中諸士の不問を約束した

12月末〜翌1月

堀の埋め立て(城割)

講和条件に従い、外堀は幕府側、二の丸・三の丸は豊臣側の担当で埋め立てが進められた。徳川側は突貫工事で外堀を全て埋め、続いて二の丸まで埋め立てた。この結果、大坂城は本丸のみを残す裸城となり、翌年の夏の陣で防御力を失うこととなる

幸村を討て (単行本)
書籍

幸村を討て (単行本)

今村 翔吾

中央公論新社

— 戦いの内容 —

概要

大坂冬の陣は、慶長19年(1614年)11月から12月にかけて、江戸幕府と豊臣家との間で行われた合戦。翌年の大坂夏の陣とあわせて「大坂の陣」と総称される。方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川家康は諸大名20万を動員して大坂城を包囲し、豊臣家も10万の兵を集めて籠城戦を戦った。真田信繁が築いた出城「真田丸」で徳川方を撃退したことが特筆される一方、両軍とも決定的な打撃を与えられぬまま和議に至り、大坂城の外堀・二の丸・三の丸が埋め立てられて翌年の夏の陣における豊臣方の敗北を決定づけた。

背景

関ヶ原の戦い以降、徳川家康は五大老の筆頭から幕府将軍へと立場を移し、慶長10年(1605年)には将軍職を秀忠に譲って徳川政権の世襲を天下に示した。しかし摂津・河内・和泉65万石の大名として大坂城に残った豊臣秀頼は、いまだ独立した権威を保っており、両家の関係は緊張を孕んでいた。

慶長14年(1609年)、秀頼は父・秀吉が建立した方広寺大仏殿の再建に着手する。慶長19年(1614年)4月に梵鐘が完成し、7月には梵鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」に対して家康が「家康の諱を分断し、豊臣を君として楽しむ意図がある」と問題視した(方広寺鐘銘事件)。9月には片桐且元の追放を受けて開戦が決定的となり、10月1日、家康は諸大名に大坂への出兵を命じた。

戦いの経過

豊臣方の準備

豊臣家は旧恩の大名や浪人衆に檄を飛ばし、秀吉の遺した莫大な金銀を用いて全国から浪人を召し抱えた。真田信繁・後藤基次(又兵衛)・毛利勝永・長宗我部盛親・明石全登の「五人衆」をはじめ、塙直之・木村重成・大野治房ら約10万の兵が集結した。しかし諸大名で大坂城に馳せ参じる者はなく、豊臣方は孤立した籠城戦を強いられることとなる。

作戦方針をめぐっては、宿老・大野治長を中心とする籠城派と、真田信繁を筆頭に瀬田川まで討って出るべしと主張する浪人衆の間で激しい議論が起こった。結局、堅固な大坂城に立て籠もる籠城策が採用され、周辺に砦を築いて連絡線を確保する方針が取られた。

幕府方の出陣と緒戦

10月11日、家康は駿府を発ち、23日に二条城に入った。秀忠も同日、6万の軍勢を率いて江戸を出発している。幕府方の動員兵力は約20万人。ただし豊臣恩顧の福島正則・黒田長政・加藤嘉明らは江戸城に留め置かれた。11月18日、家康と秀忠は茶臼山で軍議を行い、大坂城包囲網が完成した。

11月19日、大坂城南西の木津川口の砦をめぐる戦いから戦闘が始まる。以後26日には鴫野・今福で、29日には博労淵、野田・福島で相次いで戦闘が行われた。豊臣方は緒戦で大坂城外の砦を次々と失い、30日には残る砦を放棄して大坂城に撤収した。

真田丸の戦い

12月に入り、豊臣方が籠城した大坂城を徳川方は約20万の軍で完全に包囲した。徳川方は各所で仕寄(塹壕)と築山を築き、大坂城に接近していく。この過程で起こったのが真田丸の戦いである。

大坂城南側・玉造口外に真田信繁が築いた出城「真田丸」を、12月4日に前田利常・松平忠直・井伊直孝の徳川方が攻撃した。信繁は寄せ手を巧みに引きつけて撃退し、徳川方に大きな損害を与える。信繁は真田丸を「大坂城の最弱部」と徳川方に思わせることで、実際の弱点(西側の惣堀の狭い部分)から敵の注意を逸らす戦術を用いていた。この戦いで信繁は初めて武名を天下に知らしめることとなる。

大砲と和議

12月に入ると徳川方は南方から本丸への大砲射撃を本格化させた。国友製3貫目の大砲、イギリスから購入したカルバリン砲・セーカー砲、オランダ製の大砲12門などが投入され、備前島と天王寺口の両方向から昼夜を問わず砲撃が続けられた。田付景澄の放ったカルバリン砲が大坂城天守に直撃し、講和機運が一気に高まったとされる。

12月16日、本丸に撃ち込まれた砲弾が淀殿の侍女8名を即死させた。淀殿は「大坂城は10年でも持ちこたえられる」と豪語していたが、この惨状を目の当たりにして和議に応じることを決意する。

12月18日から京極忠高の陣で本多正純・阿茶局と、豊臣方の常高院(淀殿の妹)との間で和議交渉が行われ、19日に条件がほぼ合意、20日に誓書が交換されて和議が成立した。同日、家康・秀忠は諸将に砲撃停止を命じた。

結果と影響

和議条件のうち、堀の埋め立ては本来「外堀のみ」とされる儀礼的なものが古来の慣行だったが、徳川側は突貫工事で外堀を全て埋め、続けて翌1月から二の丸まで埋め立てた。この工事に伴う旧堀の破壊は大坂城の防御力を根本から失わせ、本丸のみを残す裸城とすることとなった。従来「徳川方が『惣』の字を曲解して内堀まで埋めた」との俗説があるが、当時の一次史料には見えず、「二の丸・三の丸の埋め立ては両者の当初からの合意」であったとする見方が近年の研究では有力である。

この講和は、家康にとっては開戦目的(豊臣家の武装解除)を戦わずして達成する事実上の勝利であり、豊臣方にとっては翌年の夏の陣を絶望的な状況で迎えることを決定づける敗北であった。真田信繁の真田丸での奮戦は戦術的には輝かしいものだったが、戦略的な大勢を覆すには至らなかったのである。

羽柴家崩壊 茶々と片桐且元の懊悩
書籍

羽柴家崩壊 茶々と片桐且元の懊悩

黒田基樹

平凡社

— 問答 —
大坂冬の陣の勝敗は?
明確な勝敗はつかず、和議による講和で終わりました。しかし和議条件により大坂城の外堀・二の丸・三の丸の堀がすべて埋め立てられ、翌年の夏の陣で豊臣方は籠城戦を戦えないほど防御力を失いました。戦闘としては真田丸の戦いで豊臣方が大勝しましたが、戦略的には堀を失った豊臣方の実質的な敗北でした。
真田丸とはどんな出城だった?
大坂城南側・玉造口外に真田信繁が築いた土作りの出城です。地形の高低差が少なく「大坂城の最弱部」と徳川方に見せかけて敵の注意を引きつけ、実際の弱点(西側)を守る役割を担いました。従来「半円形」とされてきましたが、近年の千田嘉博氏の研究により実際は不定形だったことが判明しています。12月4日、前田利常・松平忠直・井伊直孝の徳川方が真田丸を攻めましたが、信繁の巧みな指揮で撃退され、徳川方は大きな損害を出しました。
なぜ豊臣方は籠城策を選んだのか?
真田信繁・後藤基次・毛利勝永ら浪人衆は、瀬田川まで討って出て徳川軍を迎え撃つ「瀬田川迎撃案」を主張しました。しかし豊臣家宿老の大野治長らは、二重の堀と巨大な惣構で固められた大坂城に立て籠もり、徳川軍を疲弊させて有利な講和を引き出す籠城策を採用しました。豊臣家譜代と浪人衆の軍事的意見対立が、大坂の陣を通じて豊臣方の作戦を鈍らせる一因となりました。
— 関連文献・史料 —
関ヶ原合戦と大坂の陣笠谷和比古研究書
大坂落城 戦国終焉の舞台渡邊大門研究書
羽柴家崩壊 茶々と片桐且元の懊悩黒田基樹研究書
真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実平山優研究書

最終更新日: 2026年07月12日