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天正13年6月16日〜8月6日

四国攻め

しこくぜめ1585年07月13日
— 場所 —
一宮城(阿波)
— 結果 —
羽柴軍の勝利、長宗我部氏は土佐一国のみ安堵
— 歴史的意義 —
豊臣秀吉の全国統一戦の主要局面。四国が豊臣体制に組み込まれ、長宗我部氏による四国統一路線は終焉した
羽柴秀長 秀吉の天下を支えた弟 (角川選書 679)
書籍

羽柴秀長 秀吉の天下を支えた弟 (角川選書 679)

柴 裕之

KADOKAWA

— 戦場の位置 —

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図説 豊臣秀長――秀吉政権を支えた天下の柱石
書籍

図説 豊臣秀長――秀吉政権を支えた天下の柱石

河内将芳

戎光祥出版

— 両軍 —

— 羽柴軍 —
指揮官
羽柴秀長秀吉の代理として総大将、阿波方面軍を指揮
羽柴秀次副将、脇城・岩倉城攻めを担当
兵力
総勢約10万余(秀長軍3万・秀次軍3万・宇喜多軍2万3千・毛利軍3万〜4万)
損害
少数。木津城・一宮城の攻城戦以外に大規模な決戦は起きなかった
参加武将
蜂須賀正勝検使役として讃岐・阿波を転戦、木津城の水手を絶ち開城させる
藤堂高虎秀長軍として一宮城攻めに参陣
増田長盛秀長軍として一宮城攻めに参陣
筒井定次秀長軍として一宮城攻めに参陣
宇喜多秀家讃岐方面軍を率い、屋島から上陸して喜岡城・香西城・牟礼城を攻略
黒田孝高宇喜多軍の軍監、植田城放置と大坂越えを主張
仙石秀久讃岐方面軍に参陣
小早川隆景毛利軍(伊予方面軍)の総大将、今治浦から上陸し東予・中予を制圧
吉川元長毛利軍第二軍として伊予に上陸
— 長宗我部軍 —
指揮官
長宗我部元親総大将、阿波西端の白地城に本陣
兵力
土佐勢6千を含む2万〜4万
損害
阿波・讃岐・伊予の3ヶ国を割譲、金子氏は本拠地陥落で滅亡
参加武将
香宗我部親泰阿波牛岐城に籠城、木津落城後に撤退
東条関兵衛阿波木津城主、八昼夜の攻防後に開城
谷忠澄一宮城主、講和交渉で降伏を進言
江村親俊一宮城守将
比江山親興岩倉城主
長宗我部親吉脇城主
金子元宅東予の同盟勢力、高尾城で毛利軍と戦い落城
河野通直伊予湯築城主、隆景に開城
豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究)
書籍

豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究)

柴 裕之

戎光祥出版

— 戦いの経過 —

天正13年5月4日

先鋒の淡路出陣

秀吉が黒田孝高に四国攻めの先鋒として淡路に出るよう命じ、一柳直末には明石で待機を命令

天正13年6月16日

羽柴軍の四国渡海

秀吉が岸和田城に在陣しつつ、秀長以下の諸将を四国へ侵攻させる。秀長軍は堺から船出して洲本に至り、秀次軍は明石から淡路へ渡り、両軍は福良で合流して800余艘の船団で阿波土佐泊へ上陸

天正13年6月27日

毛利軍伊予上陸

小早川隆景率いる毛利軍第一軍が今治浦に上陸。続いて7月5日に吉川元長らの第二軍が上陸

天正13年7月上旬

木津城開城

蜂須賀正勝が木津城の水の手を断つ。城将・東条関兵衛は叔父の東条紀伊守の説得に応じて開城

天正13年7月14-17日

伊予の戦い

中国勢が高尾城を包囲。7月17日に落城、金子元宅・片岡光綱ら討死。続いて高峠城・金子城が陥落し東予制圧が完了(伊予に於ける天正の陣)

天正13年7月中旬

一宮城攻め

5万の秀長勢(筒井定次・藤堂高虎・蜂須賀正勝・増田長盛ら)が一宮城を包囲。城への坑道を掘り水の手を断つ奇策により9千の城兵が善戦したが7月中旬に開城。並行して秀次が脇・岩倉城を陥落させる

天正13年7月25日

元親、講和条件を受諾

白地城の元親に対し谷忠澄らが降伏を進言。当初は徹底抗戦を主張した元親も、秀長が提示した停戦条件を呑む

天正13年8月6日

講和成立

蜂須賀正勝の仲介で講和成立。条件は長宗我部氏に土佐一国安堵、当主が毎回3千の兵で軍役を務めること、人質提出、徳川家康との同盟禁止

天正13年8月中旬

湯築城開城・伊予平定

中国勢はさらに西進し湯築城の河野通直も開城。西園寺公広・大野直昌も降伏し伊予全域の制圧が完了。8月23日に秀長は戦後処理を終えて大坂に帰還

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— 戦いの内容 —

概要

四国攻めは、天正13年(1585年)6月から8月にかけて、羽柴秀吉と長宗我部元親との間で行われた戦争である。四国征伐、四国の役、四国平定などとも呼ばれる。秀吉は病により自ら出陣せず、弟の羽柴秀長を10万を超える大軍の総大将に任命した。羽柴軍は阿波(秀長・秀次軍)・讃岐(宇喜多軍)・伊予(毛利軍)の三方向から四国に侵攻し、約2ヶ月で元親を降伏させた。

背景

織田政権と長宗我部氏の関係

天正3年(1575年)、土佐を統一した元親は家臣の中島可之介を使者として信長のもとに派遣し、長男・弥三郎(信親)の烏帽子親を信長に依頼した。信長はこれを引き受け、元親に「四国は切り取り次第所領にしてよい」という朱印状を出したとされる。この時期は明智光秀が取次役として元親・信長の交渉窓口となっていた。

しかし、長宗我部氏から圧力を受けた阿波の三好氏、伊予の河野氏、西園寺公広らが信長に救援を求めたため、天正9年(1581年)頃から信長の四国政策は転換し、元親に土佐及び阿波南半分の領有のみを許し、他の占領地の返還を命じた。元親はこれを拒否し、両者の関係は決裂した。

本能寺の変と羽柴秀吉の四国政策

天正10年(1582年)5月、信長は三男・信孝を総大将とする四国方面軍を編成したが、6月2日の本能寺の変により作戦は立ち消えた。長宗我部氏は存亡の危機を脱し、阿波・讃岐へ侵攻を再開。天正10年8月の中富川の戦いで十河存保を破り阿波を平定した。

信長の死後、羽柴秀吉は四国に関して一貫して長宗我部氏との対決路線を保持した。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、元親は柴田勝家・織田信孝と結んで秀吉を牽制。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでも徳川家康・織田信雄と結び、根来・雑賀衆と協力して秀吉の背後を脅かす姿勢を見せた。

長宗我部氏の孤立

天正13年(1585年)3月から4月にかけて秀吉は紀州征伐を行い、長宗我部氏の同盟勢力である根来・雑賀衆を潰した。また、賤ヶ岳の戦い後には毛利氏が秀吉に接近して同盟関係に転じたため、長宗我部氏は完全に孤立した。秀吉と元親は交渉による和解も試みたが、領土配分を巡る対立が解けず決裂。秀吉は6月に四国出兵を決定した。

戦いの経過

三方面からの侵攻

天正13年6月16日、秀吉は岸和田城に在陣しつつ、羽柴秀長以下の諸将を四国へ侵攻させた。羽柴軍は次の三方向から四国に上陸した。

  • 阿波方面:秀長(大和・和泉・紀伊の3万)と秀次(摂津・近江・丹波の3万)の両軍が土佐泊へ上陸
  • 讃岐方面:宇喜多秀家(備前・美作の2万3千)が屋島に上陸。検使として蜂須賀正勝・黒田孝高、仙石秀久らが加わる
  • 伊予方面:毛利輝元配下の中国8ヶ国の軍勢3万〜4万が今治浦などに上陸。総大将は小早川隆景

対する長宗我部方は、元親が阿波西端の白地城に本陣を置き、土佐勢6千を含む2万〜4万の兵で防備を固めていた。

阿波・讃岐の戦い

秀長軍は上陸後、まず木津城を攻撃した。8昼夜の攻撃と蜂須賀正勝による水の手切断で、城将・東条関兵衛は叔父の説得に応じて開城した。牛岐城の香宗我部親泰、渭山城の吉田康俊も木津落城を聞いて城を放棄。長宗我部方の拠点は一宮・岩倉・脇の3城のみとなった。

秀長は自ら一宮城攻撃の指揮を執り、秀次に脇・岩倉城攻めを任せた。9千の一宮城兵は善戦したが、5万の秀長勢が兵糧を絶ち、坑道を掘って水の手を断つ奇策により7月中旬に開城。前後して脇・岩倉城も陥落した。讃岐では宇喜多秀家が喜岡城・香西城・牟礼城を攻略した後、植田城の堅固さを見て黒田孝高の提案で大坂越えより阿波に転じて秀長軍と合流した。

伊予の戦い

毛利軍は6月27日以降に伊予に上陸。まず東予の金子元宅(長宗我部氏の同盟勢力)の高尾城を7月17日に落城させ、金子元宅・片岡光綱が討死。続いて高峠城・金子城も陥落し、東予制圧が完了した(伊予に於ける天正の陣)。中国勢はさらに東進して土佐勢の妻鳥氏の仏殿城を攻略中の7月25日に元親が降伏を受諾したため、講和交渉に移行した。

元親の降伏

7月25日、白地城に戻った谷忠澄は上方勢と長宗我部軍の装備・兵糧の差を述べて降伏を勧めた。元親は当初「岩倉・一の宮を攻落されようとも、海部表で一合戦する」と徹底抗戦を主張し、忠澄を罵倒すらしたが、重臣らの説得を受けて8月6日に講和が成立した。仲介役を務めたのは蜂須賀正勝であった。

講和条件は、長宗我部氏に土佐一国安堵、長宗我部家当主が毎回3千の兵で軍役を務めること、人質の提出、徳川家康との同盟禁止であった。8月23日、秀長は戦後処理を終えて大坂に帰還した。

結果と影響

四国国分

戦後、豊臣政権による「国分(くにわけ)」が行われた。長宗我部氏は土佐一国を安堵され、元親の三男・津野親忠が人質となった。阿波は蜂須賀家政(正勝の子)、讃岐は仙石秀久、伊予は小早川隆景ら毛利氏配下の大名に与えられた。四国は豊臣体制に組み込まれ、太閤検地と軍役動員によって近世大名の体制へと変貌していった。

秀長の地位確立

四国攻めは、豊臣秀長にとっては豊臣政権のナンバー2としての地位を確立する契機となった。10万を超える大軍の総大将を務め、秀吉からの援軍申し出も断って自ら勝利を収めたことで、以後の九州征伐でも日向方面の総大将を任される。同年閏8月には大和国が加増されて秀長の所領は約100万石(実高約73万4千石)となり、居城の大和郡山城にちなみ「大和大納言」と称された。

長宗我部氏の後の動向

天正15年(1587年)の九州征伐では、豊後の大友宗麟救援のため長宗我部元親が先発隊として派遣されたが、戸次川の戦いで嫡男・信親が戦死。これが後の長宗我部氏の家督相続問題の遠因となる。関ヶ原の戦い後、四国の戦国大名家はいずれも大名としては存続できず、豊臣期の外様大名や徳川譜代大名に取って代わられた。

信長の野望・新生 公式ガイドブック
書籍

信長の野望・新生 公式ガイドブック

ファミ通書籍編集部

KADOKAWA

— 問答 —
四国攻めはなぜ起きたのですか?
織田信長は当初、長宗我部元親に「四国は切り取り次第」と認めていましたが、天正9年(1581年)頃から阿波の三好氏や伊予の河野氏らが救援を求めたため、信長は元親に土佐と阿波南半分のみを許して他の占領地の返還を命じました。元親はこれを拒み、以後織田・秀吉政権と長宗我部氏は対立します。天正13年(1585年)3月の紀州征伐で同盟勢力の根来・雑賀衆が潰されたことで長宗我部氏は軍事的に孤立し、秀吉の四国渡海が実行されました。
なぜ秀長が総大将になったのですか?
秀吉自身も当初は6月3日に自ら出陣する予定で、なお越中の佐々成政が健在であることを理由に自ら出馬を諦めたと『四国御発向事』は記します。実際には秀吉が病を得たとする資料もあり、代わって弟の羽柴秀長を総大将、副将を甥の秀次と定めました。秀長は7月中旬に秀吉から出陣意思を伝えられた際も「近況は順調である」と諫止して自ら一宮城攻撃の指揮を執っており、この戦役を通じて秀長は豊臣政権の実質的なナンバー2としての地位を確立しました。
長宗我部元親の降伏後、四国はどうなりましたか?
講和後の「四国国分」で、長宗我部氏には土佐一国のみが安堵され、元親の三男・津野親忠が人質となりました。阿波は蜂須賀家政、讃岐は仙石秀久(後に生駒親正)、伊予は小早川隆景ら毛利氏配下の大名が配置されました。天正15年(1587年)の九州征伐で長宗我部信親(元親嫡男)が戸次川の戦いで戦死したことは、後の長宗我部氏の家督相続問題を招きます。伊予では小早川隆景が2年弱で筑前へ転封となり、以後は福島正則・戸田勝隆・加藤嘉明・藤堂高虎らが順次配置されました。
— 関連文献・史料 —
戦争の日本史12 西国の戦国合戦山本浩樹研究書
戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争小和田哲男研究書
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シリーズ・織豊大名の研究 第一巻 長宗我部元親平井上総編研究書
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最終更新日: 2026年07月19日