— 戦いの内容 —
概要
四国攻めは、天正13年(1585年)6月から8月にかけて、羽柴秀吉と長宗我部元親との間で行われた戦争である。四国征伐、四国の役、四国平定などとも呼ばれる。秀吉は病により自ら出陣せず、弟の羽柴秀長を10万を超える大軍の総大将に任命した。羽柴軍は阿波(秀長・秀次軍)・讃岐(宇喜多軍)・伊予(毛利軍)の三方向から四国に侵攻し、約2ヶ月で元親を降伏させた。
背景
織田政権と長宗我部氏の関係
天正3年(1575年)、土佐を統一した元親は家臣の中島可之介を使者として信長のもとに派遣し、長男・弥三郎(信親)の烏帽子親を信長に依頼した。信長はこれを引き受け、元親に「四国は切り取り次第所領にしてよい」という朱印状を出したとされる。この時期は明智光秀が取次役として元親・信長の交渉窓口となっていた。
しかし、長宗我部氏から圧力を受けた阿波の三好氏、伊予の河野氏、西園寺公広らが信長に救援を求めたため、天正9年(1581年)頃から信長の四国政策は転換し、元親に土佐及び阿波南半分の領有のみを許し、他の占領地の返還を命じた。元親はこれを拒否し、両者の関係は決裂した。
本能寺の変と羽柴秀吉の四国政策
天正10年(1582年)5月、信長は三男・信孝を総大将とする四国方面軍を編成したが、6月2日の本能寺の変により作戦は立ち消えた。長宗我部氏は存亡の危機を脱し、阿波・讃岐へ侵攻を再開。天正10年8月の中富川の戦いで十河存保を破り阿波を平定した。
信長の死後、羽柴秀吉は四国に関して一貫して長宗我部氏との対決路線を保持した。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、元親は柴田勝家・織田信孝と結んで秀吉を牽制。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでも徳川家康・織田信雄と結び、根来・雑賀衆と協力して秀吉の背後を脅かす姿勢を見せた。
長宗我部氏の孤立
天正13年(1585年)3月から4月にかけて秀吉は紀州征伐を行い、長宗我部氏の同盟勢力である根来・雑賀衆を潰した。また、賤ヶ岳の戦い後には毛利氏が秀吉に接近して同盟関係に転じたため、長宗我部氏は完全に孤立した。秀吉と元親は交渉による和解も試みたが、領土配分を巡る対立が解けず決裂。秀吉は6月に四国出兵を決定した。
戦いの経過
三方面からの侵攻
天正13年6月16日、秀吉は岸和田城に在陣しつつ、羽柴秀長以下の諸将を四国へ侵攻させた。羽柴軍は次の三方向から四国に上陸した。
- 阿波方面:秀長(大和・和泉・紀伊の3万)と秀次(摂津・近江・丹波の3万)の両軍が土佐泊へ上陸
- 讃岐方面:宇喜多秀家(備前・美作の2万3千)が屋島に上陸。検使として蜂須賀正勝・黒田孝高、仙石秀久らが加わる
- 伊予方面:毛利輝元配下の中国8ヶ国の軍勢3万〜4万が今治浦などに上陸。総大将は小早川隆景
対する長宗我部方は、元親が阿波西端の白地城に本陣を置き、土佐勢6千を含む2万〜4万の兵で防備を固めていた。
阿波・讃岐の戦い
秀長軍は上陸後、まず木津城を攻撃した。8昼夜の攻撃と蜂須賀正勝による水の手切断で、城将・東条関兵衛は叔父の説得に応じて開城した。牛岐城の香宗我部親泰、渭山城の吉田康俊も木津落城を聞いて城を放棄。長宗我部方の拠点は一宮・岩倉・脇の3城のみとなった。
秀長は自ら一宮城攻撃の指揮を執り、秀次に脇・岩倉城攻めを任せた。9千の一宮城兵は善戦したが、5万の秀長勢が兵糧を絶ち、坑道を掘って水の手を断つ奇策により7月中旬に開城。前後して脇・岩倉城も陥落した。讃岐では宇喜多秀家が喜岡城・香西城・牟礼城を攻略した後、植田城の堅固さを見て黒田孝高の提案で大坂越えより阿波に転じて秀長軍と合流した。
伊予の戦い
毛利軍は6月27日以降に伊予に上陸。まず東予の金子元宅(長宗我部氏の同盟勢力)の高尾城を7月17日に落城させ、金子元宅・片岡光綱が討死。続いて高峠城・金子城も陥落し、東予制圧が完了した(伊予に於ける天正の陣)。中国勢はさらに東進して土佐勢の妻鳥氏の仏殿城を攻略中の7月25日に元親が降伏を受諾したため、講和交渉に移行した。
元親の降伏
7月25日、白地城に戻った谷忠澄は上方勢と長宗我部軍の装備・兵糧の差を述べて降伏を勧めた。元親は当初「岩倉・一の宮を攻落されようとも、海部表で一合戦する」と徹底抗戦を主張し、忠澄を罵倒すらしたが、重臣らの説得を受けて8月6日に講和が成立した。仲介役を務めたのは蜂須賀正勝であった。
講和条件は、長宗我部氏に土佐一国安堵、長宗我部家当主が毎回3千の兵で軍役を務めること、人質の提出、徳川家康との同盟禁止であった。8月23日、秀長は戦後処理を終えて大坂に帰還した。
結果と影響
四国国分
戦後、豊臣政権による「国分(くにわけ)」が行われた。長宗我部氏は土佐一国を安堵され、元親の三男・津野親忠が人質となった。阿波は蜂須賀家政(正勝の子)、讃岐は仙石秀久、伊予は小早川隆景ら毛利氏配下の大名に与えられた。四国は豊臣体制に組み込まれ、太閤検地と軍役動員によって近世大名の体制へと変貌していった。
秀長の地位確立
四国攻めは、豊臣秀長にとっては豊臣政権のナンバー2としての地位を確立する契機となった。10万を超える大軍の総大将を務め、秀吉からの援軍申し出も断って自ら勝利を収めたことで、以後の九州征伐でも日向方面の総大将を任される。同年閏8月には大和国が加増されて秀長の所領は約100万石(実高約73万4千石)となり、居城の大和郡山城にちなみ「大和大納言」と称された。
長宗我部氏の後の動向
天正15年(1587年)の九州征伐では、豊後の大友宗麟救援のため長宗我部元親が先発隊として派遣されたが、戸次川の戦いで嫡男・信親が戦死。これが後の長宗我部氏の家督相続問題の遠因となる。関ヶ原の戦い後、四国の戦国大名家はいずれも大名としては存続できず、豊臣期の外様大名や徳川譜代大名に取って代わられた。




