出羽国・陸奥国の戦国大名・仙台藩初代藩主
伊達政宗
だて まさむね
別名: 梵天丸、藤次郎、独眼竜
「独眼竜」の異名で知られる奥州の覇者。摺上原の戦いで南奥州を制覇し、仙台藩62万石の礎を築いた文武両道の名将
誕生
1567年09月05日(永禄10年)
出羽国館山城(現在の山形県米沢市)
出典: 永禄10年8月3日。生誕地は通説では館山城だが、米沢城とする説もある
諸説
死没
1636年06月27日
江戸(現在の東京都)
食道噴門癌による癌性腹膜炎
出典: 寛永13年5月24日
支配領域
出羽・陸奥(仙台藩62万石)
家族
※1 秀宗・宗清の生母については飯坂の局(猫御前)とする説と、新造の方とする説がある。
※2 津多・亘理宗根は落胤で、系譜上の父は茂庭綱元とされる。香の前は元・豊臣秀吉の愛妾で、後に茂庭綱元に下げ渡された。
両親
父
伊達輝宗
母
義姫(最上義光の妹)
正室・側室
正室
愛姫
陽徳院
田村清顕の娘
側室
飯坂の局
飯坂宗康の次女
側室
新造の方
出自不詳
側室
祥光院
出自不詳
側室
於山方
天渓院
柴田宗義の娘
側室
阿茶の局
荘厳院
柴田信恒の娘
側室
於勝の方
法性院
多田吉広の娘
側室
妙伴
本寿院
村上正重の娘
愛妾
香の前
元秀吉の愛妾
子
長男
伊達秀宗
母: 飯坂の局
宇和島藩初代藩主
次男
伊達忠宗
母: 愛姫
仙台藩2代藩主
三男
伊達宗清
母: 飯坂の局
吉岡伊達家当主
四男
伊達宗泰
母: 祥光院
岩出山伊達家祖
五男
伊達宗綱
母: 愛姫
岩ヶ崎伊達家祖
六男
伊達宗信
母: 於山方
岩ヶ崎伊達家2代
七男
伊達宗高
母: 於山方
村田伊達家当主
八男
竹松丸
母: 愛姫
早世
九男
伊達宗実
母: 阿茶の局
亘理伊達家2代
十男
伊達宗勝
母: 於勝の方
一関藩主
長女
五郎八姫
母: 愛姫
松平忠輝室
次女
牟宇姫
母: 愛姫
石川宗敬室
三女
岑姫
母: 於勝の方
伊達宗実室
四女
千菊姫
母: 妙伴
京極高国室
津多
母: 香の前
落胤、原田宗資室
亘理宗根
母: 香の前
落胤
年表
出羽国の戦国大名・伊達輝宗の嫡男として誕生。幼名は梵天丸。母は最上義光の妹・義姫
幼少の頃に疱瘡(天然痘)を患い、右目を失明して隻眼となる。後に「独眼竜」の異名で呼ばれるようになった
元服して伊達藤次郎政宗と名乗る。「政宗」の名は伊達家中興の祖・第9代当主の大膳大夫政宗にちなんで父・輝宗が名付けた
三春城主・田村清顕の娘・愛姫(めごひめ)を正室に迎える。政宗13歳、愛姫11歳であった
隣接する相馬氏との合戦で伊具郡に出陣し、初陣を飾る。この頃から父・輝宗の代理として外交も担当した
父・輝宗の隠居にともない18歳で家督を相続し、伊達家第17代当主となる。米沢城を本拠とした
二本松城主・畠山義継が輝宗を拉致。政宗は義継を追撃し、鉄砲を放って輝宗もろとも殺害した。政宗による父殺しの陰謀とする説もある
父の弔い合戦として二本松城を包囲。佐竹氏率いる約3万の連合軍と人取橋で激突し苦戦するが、殿軍・鬼庭左月斎の防戦で窮地を脱した
二本松城を包囲し、畠山氏を降伏させる。当主・国王丸は蘆名氏のもとに亡命し、二本松畠山氏は事実上滅亡した
大崎氏の内紛に介入するが黒川晴氏の離反と大崎方の抵抗に遭い敗北。伯父・最上義光の参戦もあり窮地に陥るが、母・義姫の仲介で停戦した
磐梯山麓の摺上原で蘆名義広と激突。風向きの変化を味方につけて蘆名軍を撃破し、会津を制圧。南奥州の覇権を確立した
蘆名氏滅亡後、本拠を米沢城から会津の黒川城(後の若松城)に移す。出羽・陸奥にまたがる広大な領国を築き上げた
豊臣秀吉の小田原征伐に遅参しながらも参陣して服属。会津領を没収されるが、伊達家本領72万石は安堵された
葛西大崎一揆の煽動が露見し、米沢72万石から岩出山58万石へ減転封。大崎氏の本拠・岩出沢城を改修して岩出山城と改名した
豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍。伊達家の軍装の見事さが京都の住民を歓声させ、「伊達者」の語源となったと伝わる
東軍に属し、白石城を奪還。上杉軍と交戦したが、旧領回復は刈田郡2万石のみに留まった。最終的に領地は62万石となった
支倉常長をスペイン・ローマに派遣。日本人がヨーロッパへ政治外交使節を派遣した史上初の出来事となった
大坂夏の陣に参陣。道明寺の戦いで後藤基次らと戦ったが、真田信繁の反撃を受けて後退した。戦功により正四位下参議に叙任
江戸にて死去。享年70(満68歳)。辞世の句は「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」。遺体は仙台に運ばれ、経ヶ峯に葬られた
※ 年齢は数え年で表記しています。数え年は生まれた年を1歳とし、元日を迎えるごとに加算する日本の伝統的な年齢の数え方です。
概要
伊達政宗は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した奥州の武将で、伊達氏第17代当主・仙台藩初代藩主。幼少期に疱瘡で右目を失い「独眼竜」の異名で知られる。
天正12年(1584年)に18歳で家督を相続すると、わずか5年で南奥州の覇権を確立。天正17年(1589年)の摺上原の戦いでは蘆名氏を滅ぼして会津を制圧し、奥州屈指の大領国を築いた。しかし豊臣秀吉の惣無事令に背いたため会津を没収され、その後も一揆煽動の嫌疑で減封を受けながらも、巧みな処世術で伊達家を存続させた。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、慶長6年(1601年)に仙台に居城を移して仙台藩62万石の基礎を築いた。慶長遣欧使節の派遣に代表される国際的視野、料理・能・茶の湯に通じた文化人としての側面など、多彩な顔を持つ戦国の傑物である。
生涯
出生と隻眼
永禄10年(1567年)、伊達輝宗の嫡男として出羽国で誕生。幼名は梵天丸。母は最上義光の妹・義姫。幼少期に疱瘡を患い右目を失明する。天正5年(1577年)に元服し、伊達家中興の祖・第9代当主にちなんで「政宗」と名乗った。天正7年(1579年)、三春城主・田村清顕の娘・愛姫を正室に迎えた。
家督相続と父の死
天正12年(1584年)、父・輝宗の隠居により18歳で家督を相続。翌天正13年(1585年)、大内定綱を攻めて小手森城で撫で斬りを行い、近隣諸国を震撼させた。しかし同年10月、和議の礼に訪れた二本松城主・畠山義継に父・輝宗が拉致される事件が発生。政宗は義継を追撃し、鉄砲を放って輝宗もろとも殺害した(粟ノ巣の変)。
父の弔い合戦として二本松城を包囲するが、佐竹氏率いる約3万の南奥州連合軍と人取橋で激突。殿軍・鬼庭左月斎の決死の防戦により辛くも退却に成功した。
摺上原の戦いと南奥州制覇
天正16年(1588年)の大崎合戦で敗北するなど苦境に立たされるが、母・義姫の仲介による最上氏との停戦や、大内定綱の調略成功により体勢を立て直した。
天正17年(1589年)6月、蘆名義広と磐梯山麓の摺上原で決戦に及ぶ。猪苗代盛国の寝返りにより黒川城への直進路を確保した政宗は、風向きの変化を味方につけて蘆名軍を壊滅させた。義広は黒川城を捨てて佐竹家に逃れ、戦国大名としての蘆名氏は滅亡。政宗は出羽・陸奥にまたがる広大な領国を築き上げた。
豊臣政権への服属
しかし、この拡大は豊臣秀吉の惣無事令に違反する行為であった。天正18年(1590年)の小田原征伐に遅参しながらも参陣して秀吉に服属。会津領を没収されたが、伊達家本領72万石は安堵された。翌年の葛西大崎一揆では煽動が露見し、米沢から岩出山58万石に減転封された。
文禄2年(1593年)の朝鮮出兵では、伊達家の絢爛豪華な軍装が京都の人々を驚嘆させ、「伊達者」の語源になったとも伝わる。
関ヶ原と仙台開府
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、家康から旧領回復を許す「百万石のお墨付き」を受け取るも、結果的に奪還できたのは刈田郡2万石のみであった。南部領での一揆煽動も発覚したが不問に付され、領地は62万石で落ち着いた。
慶長6年(1601年)、仙台に居城を移して城と城下町の建設を開始。仙台藩の基盤を築くとともに、北上川水系の開拓や運河の整備など領国の開発に尽力した。
慶長遣欧使節と晩年
慶長18年(1613年)、スペインとの通商を企図して支倉常長をヨーロッパに派遣(慶長遣欧使節)。日本人がヨーロッパへ政治外交使節を派遣した史上初の快挙であった。
大坂の陣にも参陣し、道明寺の戦いでは真田信繁の反撃を受けるなど激戦を経験した。晩年は3代将軍・徳川家光から「伊達の親父殿」と慕われ、領国開発と文化の振興に力を注いだ。寛永13年(1636年)5月24日、江戸にて死去。享年70。
評価
伊達政宗は「あと20年早く生まれていれば天下を取れた」と評される戦国武将である。実際には秀吉の惣無事令発令後も戦争を続行し、一揆の煽動や敵対勢力への工作など権謀術数を駆使して領国拡大を図った野心家であった。
一方で料理・能・茶の湯・和歌に通じた文化人でもあり、仙台味噌の開発や瑞巌寺の再興など、政宗が残した文化遺産は現代の仙台にも息づいている。慶長遣欧使節の派遣に見られる国際的視野は、戦国大名の中でも際立った先見性を示すものであった。
よくある疑問
伊達政宗はなぜ「独眼竜」と呼ばれる?
幼少期に疱瘡(天然痘)で右目を失明したことに由来します。「独眼竜」の呼称は、江戸後期の儒学者・頼山陽が漢詩で、中国唐末の軍閥・李克用(もともと「独眼龍」と呼ばれた隻眼の武将)に政宗をなぞらえたことが起源です。
伊達政宗の眼帯は史実?
実際には当時の史料に政宗が目を覆っていた記述はありません。眼帯のイメージは1942年の映画『獨眼龍政宗』で始まった演出です。政宗本人は「親より頂いた片目」と考え、肖像画や木像では両目が描かれるよう希望していました。
伊達政宗は天下を狙っていた?
軍記物には幕府軍との決戦を想定した図上演習の記録があるとされ、慶長遣欧使節をスペインとの軍事同盟のためとする説もあります。頼山陽は「天下統一がもう少し遅れていれば東北全域を支配していたはずだ」と詠んでおり、政宗の野心は後世の人々の想像力をかき立て続けています。
関連史料・書籍
- -伊達政宗(小林清治)研究書
- -伊達政宗の研究(小林清治)研究書
- -伊達治家記録一次史料
最終更新日: 2026年03月15日




