駿河国守護・戦国大名
今川義元
いまがわ よしもと
別名: 芳菊丸、栴岳承芳
「海道一の弓取り」と称された東海の覇者。駿河・遠江・三河を支配し、最盛期には戦国最大級の版図を誇った
誕生
1519年01月01日(永正16年)
駿河国(現在の静岡県)
出典: 生年は永正16年(1519年)。月日は不詳
死没
1560年06月12日(永禄3年)
尾張国桶狭間(現在の愛知県名古屋市緑区)
桶狭間の戦いで討死
出典: 太田牛一『信長公記』
支配領域
駿河・遠江・三河
家族
両親
父
今川氏親
母
寿桂尼(中御門宣胤の娘)
正室・側室
正室
定恵院
武田信虎の娘
子
三男
一月長得
母: 定恵院
曹洞宗の僧侶
嫡男
今川氏真
母: 定恵院
大名今川氏最後の当主
長女
嶺松院
母: 定恵院
武田義信室
年表
駿河国の戦国大名・今川氏親の五男として誕生。幼名は芳菊丸。兄に氏輝・彦五郎がいたため、当初は家督相続の見込みはなかった
4歳で駿河国富士郡瀬古の善得寺に預けられ、出家して栴岳承芳と名乗る。師の太原雪斎のもとで学問・兵法を修めた
太原雪斎とともに京都の建仁寺で修行。公家文化や政治・外交の教養を身につけ、後の領国経営に活かされた
兄・氏輝と彦五郎が相次いで急死し、今川家の家督をめぐって異母兄の玄広恵探と対立。太原雪斎の支援を得て花倉の乱に勝利し、還俗して今川義元と名乗り、家督を継承した
甲斐の武田信虎の娘・定恵院を正室に迎え、武田家との同盟(甲駿同盟)を成立させた。これにより背後の安全を確保し、西方への勢力拡大に注力できるようになった
三河国に進出し、織田信秀の軍勢と小豆坂で衝突。この合戦の実在については史料的に異論もあるが、今川・織田の三河をめぐる争いが本格化した
太原雪斎を総大将として織田信秀の軍勢と再び小豆坂で激突。雪斎の伏兵戦術により織田軍を撃破し、三河国における今川氏の優位を確立した
父・氏親が定めた分国法「今川仮名目録」に21条を追加制定。検地の実施や家臣団の統制を強化し、先進的な領国経営を行った
朝廷から従四位下に叙任される。京都との太いパイプを持ち、公家文化にも通じた義元の政治力を示している
義元の師であり軍師・外交の要であった太原雪斎が死去。今川家の知恵袋を失ったことは、後の義元の判断に少なからず影響を与えたとされる
約2万から2万5千の大軍を率いて駿府を出陣。上洛を目指したとする説と、尾張の織田領への侵攻が目的であったとする説がある
※ 年齢は数え年で表記しています。数え年は生まれた年を1歳とし、元日を迎えるごとに加算する日本の伝統的な年齢の数え方です。
概要
今川義元は、戦国時代の駿河国の大名で、今川氏第11代当主。駿河・遠江・三河の三国を支配し、「海道一の弓取り」と称された東海の覇者である。幼少期に出家するも、花倉の乱に勝利して家督を継承。師である太原雪斎の補佐のもと、武田・北条との三国同盟を結び、優れた領国経営と巧みな外交で今川氏の最盛期を築いた。
永禄3年(1560年)、大軍を率いて尾張に侵攻するが、桶狭間で織田信長の奇襲を受けて討死した。享年42。義元の死は今川家の急速な衰退を招き、戦国の勢力図を一変させた。
生涯
出家と修行
今川義元は永正16年(1519年)、駿河国の戦国大名・今川氏親の五男として誕生した。幼名は芳菊丸。兄に氏輝・彦五郎がおり、家督相続の見込みがなかったため、4歳にして駿河国富士郡の善得寺に入り、出家して栴岳承芳と名乗った。
善得寺では臨済宗の僧・太原雪斎に師事した。雪斎は後に義元の軍師・外交顧問として今川家を支える大人物であり、幼い義元に学問・兵法・政治の基礎を叩き込んだ。天文元年(1532年)頃には雪斎とともに京都の建仁寺で修行し、公家社会との交流を通じて高い教養を身につけた。
花倉の乱と家督相続
天文5年(1536年)、兄の今川氏輝と彦五郎が相次いで急死する。今川家の家督をめぐり、還俗した栴岳承芳(義元)と異母兄の玄広恵探(花倉殿)が対立し、今川家中を二分する内紛「花倉の乱」が勃発した。
義元は太原雪斎の策謀と軍事的支援を受け、福島氏ら有力家臣の支持を取り付けて恵探方を圧倒。恵探は花倉城に追い詰められて自害し、義元が今川家の家督を継承した。還俗して「今川義元」と名乗り、以後、太原雪斎を片腕として領国経営にあたった。
三河への勢力拡大
家督を継いだ義元は、まず甲斐の武田信虎と同盟を結び、天文6年(1537年)に信虎の娘・定恵院を正室に迎えた(甲駿同盟)。背後の安全を確保した義元は、三河国への本格的な進出を開始する。
三河では松平家の内紛が続いており、松平広忠が義元に従属を申し出たことで、今川氏の三河支配の足がかりが築かれた。しかし尾張の織田信秀もまた三河への進出を狙っており、今川・織田の間で激しい争いが繰り広げられた。
天文17年(1548年)の第二次小豆坂の戦いでは、太原雪斎を総大将として織田軍を撃破。翌天文18年(1549年)には安祥城を攻略し、人質であった松平竹千代(後の徳川家康)を手に入れた。これにより三河国は完全に今川氏の支配下に入り、義元は駿河・遠江・三河の東海三国を支配する大大名となった。
領国経営と三国同盟
義元は武力だけでなく、領国経営にも優れた手腕を発揮した。父・氏親が制定した分国法「今川仮名目録」に21条を追加し、検地の実施や寄親・寄子制度による家臣団の統制を強化した。「今川仮名目録追加21条」は戦国時代の分国法の中でも先進的な内容を持つと評価されている。
天文23年(1554年)には、武田信玄・北条氏康との間で甲駿相三国同盟(善徳寺の会盟)を締結した。義元の娘が武田義信に、信玄の娘が北条氏政に、氏康の娘が今川氏真に嫁ぐという三重の婚姻同盟であり、太原雪斎の外交手腕が結実したものであった。三方の脅威を同盟で封じたことで、義元は西方への勢力拡大に全力を注げるようになった。
桶狭間の戦いと最期
弘治元年(1555年)に太原雪斎が死去し、義元は最も信頼する軍師を失った。永禄元年(1558年)頃には嫡男・氏真に家督を譲ったとされるが、実権は義元が握り続けた。
永禄3年(1560年)5月、義元は約2万から2万5千の大軍を率いて駿府を出陣した。その目的については上洛説と尾張侵攻説があるが、いずれにせよ通過点となる尾張の織田家を攻略する必要があった。
5月19日(新暦6月12日)、丸根砦・鷲津砦を攻略した後、桶狭間付近で休息をとっていた義元の本陣を、織田信長がわずか数千の兵で急襲した。豪雨に乗じた奇襲攻撃に今川軍は大混乱に陥り、義元は毛利新介に討ち取られた。享年42。
評価
今川義元は長らく「桶狭間で討たれた敗将」「公家かぶれの軟弱な大名」という否定的なイメージで語られてきた。しかし近年の研究では、義元は優れた政治家・軍略家として再評価が進んでいる。
駿河・遠江・三河の三国を支配した版図は当時の戦国大名の中でも最大級であり、分国法の整備や検地の実施など、その領国経営は織田信長に先んじた先進的なものであった。武田信玄・北条氏康という強大な隣国と同盟を結んだ外交手腕も高く評価されている。
義元の悲劇は、わずか1日の油断が生涯の功績を覆してしまったことにある。しかし義元が築いた今川家の制度や文化的基盤は、後に徳川家康の領国経営にも大きな影響を与えたとされている。
よくある疑問
今川義元はなぜ「海道一の弓取り」と呼ばれた?
「海道」とは東海道を指し、「弓取り」は武将の意味です。駿河・遠江・三河の東海三国を支配し、戦国時代最大級の版図を築いたことから、東海道で最も優れた武将として「海道一の弓取り」と称されました。
今川義元は本当に公家かぶれだった?
義元がお歯黒をつけ薄化粧をしていたという記述は『甲陽軍鑑』などの後世の軍記物に基づくものです。当時の上流武将にとって公家の作法を身につけることは教養の証であり、義元の統治能力の高さを示すものでした。近年の研究では、義元は優れた政治家・軍略家として再評価されています。
今川義元の上洛説は本当?
桶狭間の戦いの目的が上洛であったかは諸説あります。当時の義元の兵力では京都まで到達するのは困難であり、まずは尾張の織田領を制圧して勢力圏を拡大する目的だったとする説が有力です。
関連史料・書籍
- -今川義元のすべて(小和田哲男 編)研究書
- -信長公記(太田牛一)記録
- -甲陽軍鑑(高坂昌信(春日虎綱))軍記物
- -今川氏親と今川義元(大石泰史)研究書
最終更新日: 2026年03月08日





