今日はなんの日 戦国のできごとカレンダーを見る
トップ/合戦/長良川の戦い
弘治2年4月20日

長良川の戦い

ながらがわ の たたかい1556年05月28日
— 場所 —
美濃国長良川(現在の岐阜県岐阜市)
— 結果 —
斎藤義龍軍の勝利(斎藤道三の敗死)
— 歴史的意義 —
美濃の国盗りを果たした斎藤道三が、長男・義龍との父子の争いに敗れて討死した合戦
斎藤氏四代 人天を守護し、仏想を伝えず
書籍

斎藤氏四代 人天を守護し、仏想を伝えず

木下聡

ミネルヴァ書房(ミネルヴァ日本評伝選)

— 戦場の位置 —

地図を読み込み中...

まむし三代記
書籍

まむし三代記

木下昌輝

朝日新聞出版

— 両軍 —
— 斎藤道三軍 —
指揮官
斎藤道三総大将
兵力
約2,700人
損害
道三が討死。長井忠左衛門に組み付かれ、小牧源太に首を取られる
参加武将
斎藤利治道三の末子、残存軍を率いる
柴田角内一騎討ちで長屋甚右衛門を討つ
明智光秀明智氏は道三方につき、後に明智城を追われたとする説がある
織田信長娘婿として援軍に向かうが間に合わず、大良で殿軍を務める
— 斎藤義龍軍 —
指揮官
斎藤義龍総大将
兵力
約17,500人
損害
先手大将・竹腰道鎮、長屋甚右衛門らが討死
参加武将
竹腰道鎮先手5,000を率いて突撃、敗走し討死
長井道利義龍の叔父、二弟の謀殺に加担
日根野弘就孫四郎・喜平次を殺害
長屋甚右衛門一騎討ちを挑み柴田角内に討たれる
長井忠左衛門道三に組み付き生け捕りを図る
小牧源太道三の首を取る
稲葉一鉄西美濃三人衆、義龍を支持
安藤守就西美濃三人衆、義龍を支持
氏家直元西美濃三人衆、義龍を支持
ふたり道三(上)
書籍

ふたり道三(上)

宮本昌孝

祥伝社文庫

— 戦いの経過 —
弘治元年11月22日

二弟の謀殺

義龍が叔父・長井道利を使い、弟の孫四郎・喜平次を呼び寄せて日根野弘就に殺害させる。報を受けた道三は城下を焼いて大桑城へ退く

弘治2年春

対立の激化

雪解けとともに情勢が緊迫し、道三と義龍の対立はついに合戦へと至る

4月18日

両軍の布陣

道三は鶴山に布陣。娘婿の織田信長も木曽川・飛騨川を舟で越え、大良(岐阜県羽島市)に陣を構える

4月20日 辰の刻

開戦

義龍軍が長良川南岸へ動いたのに応じ、道三軍は鶴山を下りて北岸へ進出。両軍が激突する

4月20日 緒戦

竹腰勢の突撃

義龍方の先手・竹腰道鎮の5,000が円陣を組んで川を渡り道三本陣に迫るが、道三の指揮で敗走。道鎮は討ち取られる

4月20日 中盤

一騎討ちと総攻撃

義龍方の長屋甚右衛門と道三方の柴田角内が一騎討ちし、柴田が長屋を討つ。これを機に両軍が全軍突撃に移る

4月20日 終盤

道三の討死

兵力に勝る義龍軍が道三本陣へ殺到。長井忠左衛門が組み付き、小牧源太が道三を討つ。忠左衛門は証として鼻を削いだという

戦後

大良河原の戦い

勢いづいた義龍軍は信長の陣へ兵を向ける。信長は自ら殿軍を務め、最新の鉄砲で追撃を振り切って撤退した

ふたり道三(中)
書籍

ふたり道三(中)

宮本昌孝

祥伝社文庫

— 戦いの内容 —

概要

長良川の戦いは、弘治2年(1556年)4月20日、美濃国の長良川河畔で、斎藤道三とその長男・斎藤義龍の軍勢が激突した合戦である。下剋上によって美濃一国を手中にした道三が、家督を譲ったはずの実子・義龍と争い、敗れて討死した、父子相克の戦いとして知られる。

家督を継いだ義龍を道三が低く評価し、弟たちを寵愛して家督を移そうとしたことから、両者の対立は決定的となった。弘治元年(1555年)11月、義龍は二人の弟を謀殺して挙兵し、道三は大桑城へと退いた。

翌年4月、両軍は長良川を挟んで対峙した。家中の大半が義龍方につき、兵力差は歴然としていた。道三は緒戦こそ優勢に戦ったものの、最後は数に押し切られて討死した。道三の娘婿である尾張の織田信長も援軍に向かったが、戦いには間に合わなかった。

背景

天文19年(1550年)頃、斎藤道三は美濃守護・土岐頼芸を追放し、美濃一国の支配を確立した。しかし下剋上で奪った国であったがゆえに、家中の統制は必ずしも盤石ではなかった。

天文23年(1554年)、道三は長男・義龍に家督を譲って隠居したが、外交権などの実権はなお握り続けたとみられる。やがて道三は義龍を「耄者(おいぼれ)」と侮るようになり、利口者とみた弟の孫四郎・喜平次を溺愛して、三男の喜平次に名門一色氏の姓と官途を与えた。長兄を差し置く厚遇に、弟たちも増長して義龍を侮ったため、父子の不和は深刻なものとなった。

弘治元年(1555年)10月、義龍は病に臥せったふりをして奥に籠もり、対抗策をめぐらせた。11月22日、道三が城下の私邸に下った隙をついて、義龍は叔父・長井道利を使者に立て、二人の弟を病床へと呼び寄せた。そして酒を振る舞って酔わせたところを、寵臣の日根野弘就に殺害させた。義龍は自らその顛末を道三に伝え、道三は驚いて城下に火を放ち、長良川を越えて大桑城へと逃れた。

戦いの経過

両軍の布陣

翌弘治2年(1556年)、雪解けとともに情勢は緊迫し、春にはついに合戦となった。4月18日、道三はまず鶴山に布陣した。道三の娘婿である尾張の織田信長も、木曽川・飛騨川を舟で越えて大良(岐阜県羽島市)に陣所を構えた。

4月20日辰の刻、義龍軍が長良川の南岸へ動いたのに応じ、道三軍は鶴山を下りて北岸へ移動し、両軍はここで激突した。道三が一代で国主となるまでの経緯もあって、重臣の西美濃三人衆をはじめ家中の大半は義龍を支持していた。義龍軍17,500余に対し、道三が動員できたのはわずか2,700余で、兵力では義龍軍が圧倒的に優勢であった。

緒戦と一騎討ち

合戦は、義龍方の先手・竹腰道鎮が率いる5,000の突撃で始まった。竹腰勢は円陣を組んで長良川を押し渡り、道三の本陣へと迫って旗本に斬りかかった。乱戦となったが、道三の巧みな指揮によって竹腰勢は敗走し、大将の道鎮は討ち取られた。

これを見た義龍は、自ら旗本を率いて川を越え、陣を固めた。このとき義龍勢の長屋甚右衛門が一騎討ちを挑み、道三方の柴田角内がこれに応じた。柴田が長屋の首を挙げて勝負が決すると、両軍はいずれも全軍に突撃を命じ、戦いは総力戦へと移った。

道三の討死

緒戦こそ優勢だった道三も、兵力の差はいかんともしがたく、やがて道三勢は崩れ、義龍の軍勢が道三の前へと押し寄せた。道三方から離反していた長井忠左衛門道勝が、道三を生け捕りにして義龍の前へ引き据えようと突進し、道三に組み付いた。もみ合っていたところへ小牧源太が道三の脛を薙ぎ、首を斬り落とした。手柄を横取りされた忠左衛門は激怒したが、後の証拠として道三の鼻を削いで懐に収め、その場を退いたという。こうして合戦は終わりを迎えた。

結果と影響

道三を討った義龍は、長良川での勝利に乗じて、首実検のあと大良口の信長の陣所にも兵を差し向けた。両軍は大良の河原で激突し、信長方は山口取手介や土方彦三郎を失い、森可成も膝を斬られて退いた。彼らの犠牲が時間を稼ぐなか、道三討死の報を受けた信長は、自ら殿軍を引き受けると言って全軍を川の向こうへ退かせ、最新の鉄砲で義龍軍の追撃を振り切り、その日のうちに撤退した。

道三の死は隣国・尾張にも波及した。義龍に呼応した岩倉織田家が動き、また織田弾正忠家の家中でも、信長から離反して弟・信行(信勝)を擁立しようとする不穏な動きが生じ、やがて織田家の家督争いへと発展していく。

父・道三を討った義龍は、家督を継いで美濃を治め、対立する信長を寄せつけない手腕を見せたが、その5年後の永禄4年(1561年)に33歳で急死した。家督は義龍の子・龍興が継いだものの、まもなく織田信長の美濃侵攻によって没落し、道三流斎藤氏は美濃から追われることとなる。なお、道三に与した明智氏は義龍に居城・明智城を攻められ、辛うじて脱出した明智光秀の流浪が始まったとする説も伝わっている。

ふたり道三(下)
書籍

ふたり道三(下)

宮本昌孝

祥伝社文庫

— 問答 —
長良川の戦いはなぜ起きたのですか?
美濃を手にした斎藤道三が、長男・義龍を疎んじて弟の孫四郎・喜平次を寵愛し、家督を継がせようとしたためです。危機感を抱いた義龍は二人の弟を謀殺して挙兵し、父子の家督争いが弘治2年(1556年)の長良川での決戦に発展しました。
なぜ兵力に勝る義龍が道三に勝てたのですか?
道三が下剋上で成り上がった経緯もあって、西美濃三人衆(稲葉一鉄・安藤守就・氏家直元)をはじめ家中の大半が義龍を支持しました。義龍軍17,500に対し道三が動員できたのはわずか2,700で、緒戦こそ道三が優勢でしたが、最後は兵力差に押し切られました。
道三の娘婿・織田信長は助けに来なかったのですか?
信長は援軍として大良口まで出陣しましたが、合戦には間に合いませんでした。勝ちに乗じた義龍軍に攻められると、信長は自ら殿軍を務め、最新の鉄砲を用いて追撃を振り切り撤退しました。道三は長良川での対陣中、信長に美濃国を譲るという遺言状を残したと伝わります。
— 参考史料 —
長良川の戦いWikipedia取得資料
斎藤道三Wikipedia取得資料
斎藤義龍Wikipedia取得資料
木下聡『斎藤氏四代―人天を守護し、仏想を伝えず―』木下聡研究書
信長公記一次史料

最終更新日: 2026年06月07日