賤ヶ岳の戦い
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柴田軍が近江国柳ヶ瀬に布陣
柴田勝家が佐久間盛政・前田利家らとおよそ3万の軍勢を率いて柳ヶ瀬に到着し、布陣を完了
秀吉軍が木ノ本に布陣
滝川一益討伐中の秀吉が伊勢に1万強を残し、5万の兵力で木ノ本に布陣。両軍は陣地・砦の構築を進め戦線は膠着した
織田信孝が再挙兵
一度秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の滝川一益と結び再挙兵。岐阜城下へ進出し、秀吉は近江・伊勢・美濃の3方面作戦を強いられる
大岩山砦の奇襲・中川清秀討死
秀吉の主力が美濃に向かった隙を突き、佐久間盛政が大岩山砦を奇襲。守将・中川清秀は討死。続いて岩崎山の高山右近も退却した
丹羽長秀の海津上陸・美濃大返し
琵琶湖を渡っていた丹羽長秀が進路を変えて海津に上陸し、賤ヶ岳砦を確保。同日、大岩山陥落を知った秀吉は大垣から木ノ本まで52kmを5時間で駆け戻る「美濃大返し」を敢行
賤ヶ岳本戦・七本槍の活躍
秀吉軍が佐久間盛政隊を強襲。盛政隊は奮戦したため、秀吉は柴田勝政に攻撃対象を変更。加藤清正・福島正則ら「賤ヶ岳の七本槍」が功名を挙げた
前田利家の戦線離脱・柴田軍崩壊
茂山に布陣していた前田利家の軍勢が突如として戦線離脱。これに続いて不破勝光・金森長近も退却し、柴田軍全体の士気が崩壊。勝家は北ノ庄城へ退却した
北ノ庄城落城・勝家自害
利家を先鋒とする秀吉軍が北ノ庄城を包囲。翌日、勝家は夫人のお市の方らとともに自害。佐久間盛政は捕縛され京の六条河原で斬首、織田信孝も自害して織田家旧体制は完全に瓦解した
概要
賤ヶ岳の戦いは、天正11年(1583年)4月、近江国伊香郡(現・滋賀県長浜市木之本町)の賤ヶ岳付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家との戦いである。
織田信長亡き後の織田家旧臣中の主導権をめぐる争いであり、両軍合わせて8万を超える兵力が激突する大規模戦となった。前哨戦から1ヶ月以上に及ぶ膠着状態の末、佐久間盛政の大岩山砦奇襲をきっかけに本戦が開始され、秀吉の「美濃大返し」と前田利家の戦線離脱によって戦況は一気に決した。
勝利した秀吉は織田信長が築いた権力と体制を継承し、天下人への第一歩を踏み出すこととなった。
背景
清洲会議での対立
天正10年(1582年)6月、本能寺の変で織田信長と嫡男・信忠が横死。山崎の戦いで明智光秀を討った羽柴秀吉が信長旧臣中で大きな力を持つに至った。
6月27日に清洲城で開かれた織田氏の後継者を決定する会議では、信長の三男・信孝を推す柴田勝家と、信忠の子・三法師を推す秀吉とが激しく対立。同席した丹羽長秀・池田恒興らが三法師擁立に賛成したため勝家も譲らざるをえず、後継者問題は形の上では決着した。
両陣営の調略合戦
その後、双方は周囲の勢力を取り込もうと激しい調略を展開した。北陸の柴田側の後方にある上杉景勝や、信孝の地盤・美濃の有力部将・稲葉一鉄が秀吉側になびくなど、状況は秀吉に有利に進んだ。一方、勝家側も土佐の長宗我部元親や紀伊の雑賀衆を取り込み、雑賀衆は秀吉出陣中に岸和田城などに攻撃を仕掛けて後方を脅かした。
天正10年12月、秀吉は和睦を反故にして近江に出兵。長浜城・岐阜城を相次いで攻略し、織田信孝を降伏させた。
滝川一益の挙兵と勝家の出陣
天正11年(1583年)正月、伊勢の滝川一益が勝家への旗幟を明確にして挙兵。秀吉は2月から伊勢方面で滝川勢と戦った。一方、雪に閉ざされていた勝家もついに2月末、近江に向けて出陣した。
勝家は中国地方の毛利氏に対し、足利義昭の擁立と共に出兵を求めたが、毛利家中の吉川元春・小早川隆景は中立を維持することを決め、要請には応じなかった。
戦いの経過
対峙
3月12日(5月3日)、柴田勝家は佐久間盛政・前田利家らと共におよそ3万の軍勢で近江国柳ヶ瀬に布陣。秀吉は3月19日(5月10日)に5万の兵力で木ノ本に布陣した。双方とも直ちに攻撃には出ず、しばらくは陣地・砦の構築を進めた。丹羽長秀も勝家の西進に備えて海津と敦賀に兵を出したため、戦線は膠着した。
大岩山砦の奇襲
4月16日(6月6日)、一度秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の滝川一益と結び再挙兵し、岐阜城下に進出。秀吉は近江・伊勢・美濃の3方面作戦を強いられ、4月17日に美濃へ進軍するも揖斐川の氾濫で大垣城に入った。
秀吉軍の主力が近江を離れた隙を見た勝家は、佐久間盛政の意見具申を容れて4月19日(6月9日)、大岩山砦への奇襲攻撃を許可。盛政の攻撃により大岩山砦を守っていた中川清秀は討死し、続いて岩崎山に陣取っていた高山右近も退却した。
しかし勝家が盛政に撤退の命令を下したにもかかわらず、盛政は再三の命令に従わず前線に着陣し続けた。
美濃大返し
4月20日(6月10日)、賤ヶ岳砦の桑山重晴も劣勢と判断して撤退を開始したが、その時、琵琶湖を船で渡っていた丹羽長秀が部下の反対を押し切って海津への上陸を敢行。長秀の2,000の軍勢は撤退中の桑山重晴の軍勢と合流し、賤ヶ岳周辺の盛政軍を撃破して賤ヶ岳砦の確保に成功した。
同日、大岩山陥落を知った秀吉は直ちに軍を返し、午後2時に大垣を出発して木ノ本までの約52kmを5時間で駆け抜けた(美濃大返し)。
本戦と前田利家の戦線離脱
翌4月21日(6月11日)未明、秀吉軍は佐久間盛政隊を強襲。盛政隊は奮戦したため、秀吉は攻撃対象を盛政の実弟・柴田勝政に変更し、両軍は激戦となった。この戦いで功名を挙げた加藤清正・福島正則・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治・糟屋武則・片桐且元の7人は、後に「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる。
激戦の最中、茂山に布陣していた前田利家の軍勢が突如として戦線離脱。これにより後方の守りが崩れて佐久間隊の士気は急落した。さらに不破勝光・金森長近の軍勢も退却したため、佐久間盛政の軍を撃破した秀吉軍は柴田勝家本隊に殺到し、勝家は越前・北ノ庄城へ向けて退却した。
結果と影響
勝家は北ノ庄城に逃れたが、4月23日(6月13日)に前田利家を先鋒とする秀吉軍に包囲され、翌日に夫人のお市の方らとともに自害した(北ノ庄城の戦い)。佐久間盛政は逃亡したものの黒田孝高の手勢に捕らえられ、京の六条河原で斬首された。
美濃の織田信孝も兄・織田信雄に岐阜城を包囲されて降伏し、尾張国内海で自害。伊勢の滝川一益も篭城の末に開城し、剃髪・出家して越前大野に蟄居した。
合戦後、織田家の旧臣の多くが秀吉に接近・臣従するようになり、徳川家康・上杉景勝・毛利輝元・大友義統など各地の有力大名が相次いで使者を送って戦勝を祝した。秀吉は石山本願寺跡に大坂城の築城を開始し、5月には朝廷から従四位下・参議に任命された。
賤ヶ岳の戦いは、織田家中の主導権争いの決着であると同時に、戦国時代の幕府の政争が将軍家督争いという形をとったのと相似する性格を持っていた。この戦いに勝利したことで、秀吉は織田信長が築いた権力と体制を実質的に継承し、天下人への道を歩み始めることとなった。
最終更新日: 2026年05月03日


