— 戦いの内容 —
概要
神流川の戦いは、本能寺の変から2週間ほど後の天正10年6月16日から19日(1582年7月5日〜8日)にかけて、武蔵国賀美郡のあたりで起きた戦いです。戦ったのは、織田家の関東支配を任されていた滝川一益と、北条氏直・氏邦が率いる北条軍でした。関東で戦国時代最大の野戦ともいわれ、旧武田領をめぐる天正壬午の乱の中の戦いの一つにも数えられます。
信長が死んだと知った北条氏は、一益には友好を保つと伝えながら兵を集め、5万の大軍で上野へ攻め込みました。一益は1万8千の兵で迎え撃ち、18日の戦いでは北条氏邦の軍を破りましたが、翌19日の決戦で北条氏直に敗れます。
一益は上野の国衆に人質を返し、碓氷峠と木曽谷を通って伊勢へ引き揚げました。清洲会議に出られなかった一益は織田家中での立場を失い、勝った北条氏は信濃へ進んで、上杉氏・徳川氏との三つ巴の争いに入っていきます。
背景
北条氏は天正8年(1580年)ごろから織田氏と手を結び、当主・北条氏直と信長の娘との縁組も話が進んでいました。天正10年(1582年)2月になると、織田信忠を大将とする軍が武田領へ攻め込むと、武田氏は北条軍や信長自身の軍が着く前にあっさり崩れてしまいます。北条氏も駿河東部で武田方を追い払うなどの働きはしましたが、上野方面ではこれといった成果を挙げられないまま、3月11日に武田氏の滅亡を迎えました。
戦後の3月23日、信長は滝川一益に上野一国と信濃の小県・佐久2郡を与え、織田方についた関東の領主たちを一益の配下に付けました。一益は箕輪城、ついで厩橋城に入り、北の沼田城に甥の滝川益重、西の松井田城に津田秀政、信濃の小諸城に道家正栄を置きます。残る武田領も河尻秀隆・森長可・毛利長秀らに分けられ、北条氏の取り分はありませんでした。
一益が元からの領地を保証すると伝えたことで、周りの領主たちは人質を連れて次々に一益のもとへ出向きました。5月に一益が厩橋城で催した能には北条氏も加わっており、表向きは両家の関係は良好でした。しかし一益は、下野の祇園城を元の城主・小山秀綱に返させるなど、北条氏に不利な裁きも下しています。関東の支配者の座を望んできた北条氏にとって、上野が織田家の直轄地のようになり、佐竹氏を頼っていた太田資正・梶原政景父子まで一益のもとへ出向く状況は、焦りと不信を募らせるものでした。
6月2日、信長が本能寺で討たれます。知らせは6月7日(9日とする記述もある)に一益のもとへ届きました。10日、一益は上野の諸将を集めて信長父子の死を明かし、北条氏と一戦を交えてから上方へ戻る、自分の首を手土産に北条へ寝返りたい者は遠慮なくかかってこい、と告げたといいます(『上毛古戦記』)。この混乱の中、沼須城の藤田信吉が上杉景勝と通じて沼田城を攻めましたが、6月13日に一益が2万の兵で駆けつけて追い払いました(沼田城の戦い)。同じころ、信濃の森長可と毛利長秀は領地を捨てて引き揚げ、甲斐の河尻秀隆は武田の旧臣たちに殺されています。
北条氏政は6月11日、深谷の狩野一庵から本能寺の件を聞いたと一益に知らせ、これからも友好を保つと伝えました。ただ、狩野一庵は北条氏照の家老で、氏照の軍がすでに深谷まで来ていることも、この手紙からは読み取れます。北条氏は翌12日に領国へ動員をかけ、信長と信忠の死が確かになると、氏直と氏邦に5万の兵を預けて上野へ攻め込ませました。
戦いの経過
上野を治め始めてまだ3ヶ月の一益は、留守の城に守りを置いて出陣しました。厩橋城は滝川忠征、小諸城は道家正栄に任せ、松井田城には津田秀政・稲田九蔵と兵1,500騎を残しています。率いた兵は1万8千でした。軍勢には尾張以来の家臣のほか、倉賀野秀景・内藤昌月・小幡信貞・和田信業・由良国繁・長尾顕長・北条高広・真田昌幸ら、武田氏の旧臣を中心とする上野・信濃の将が加わっていました。
6月16日、北条氏直の軍が倉賀野方面へ進んできます。18日、滝川勢はまず、北条氏邦の家臣・斎藤光透と弟の基盛が守っていた2つの城、武蔵児玉郡の金窪城と川井城を落としました。続いて金窪原で、上野衆とともに氏邦の鉢形衆5千とぶつかり、石山大学・保坂大炊介を討ち取ります。上野衆の佐伯伊賀守も討たれましたが、北条勢は崩れ、追撃を受けて200人あまりが命を落としました。この戦いには氏直も加わっていたとされ、鉢形衆300人に加えて氏直のそば近くの者も多く討たれたとする記録も残っています(松平義行氏所蔵文書)。
翌19日、北条氏直は2万の兵を、一益は自らの手勢3千を率いて戦いました。はじめは氏直の兵が押し返されましたが、最後は滝川勢が敗れ、上野衆でも木部貞朝や、倉賀野秀景の息子の五郎太・六弥太らが討たれました。
その夜、一益は倉賀野城を経て厩橋城へ引き揚げ、城下の長昌寺で戦死者を弔いました。20日には、北条高広の次男など上野衆から預かっていた人質を返しています。このとき一益が自ら鼓を打って謡曲「羅生門」の一節「武士の交り頼みある仲の酒宴かな」を謡うと、倉賀野秀景が「源氏供養」の「名残今はと鳴く鳥の」で応え、別れを惜しんだと伝わります。一益は太刀・長刀・金銀・秘蔵の掛物などを上野の将たちに贈り、夜更けに箕輪城を出ました。
21日、松井田城で津田秀政らの兵を加えて2千あまりとなった一行は、碓氷峠を越え、その日のうちに道家正栄の守る小諸城へ着きました。木曽谷を通るため、一益は佐久・小県の国衆から預かっていた人質(依田康国や真田昌幸の母など)を木曾義昌に引き渡すことにし、27日に小諸城を発ちます。小諸城は依田信蕃に明け渡すよう、道家正栄に言い置いたといいます。28日に下諏訪で義昌から通行を認める返事を受け取り、木曽谷を抜けて美濃へ入った一益は、尾張の清洲で三法師(織田秀信)に拝謁しました。
結果と影響
勝った北条氏直は一益を追って碓氷峠を越え、6月26日には佐久郡の領主たちを従えました。7月9日には真田昌幸も北条方につき、氏直は小諸城まで進んで木曾義昌や諏訪頼忠に領地を保証する書状を与えるなど、信濃の大半を押さえるかにみえました。しかし北信濃には上杉景勝が兵を進め、同じ7月9日には徳川家康が甲斐を押さえて南信濃をうかがいます。こうして旧武田領は北条・上杉・徳川の三者による奪い合い(天正壬午の乱)となりました。一益が木曾義昌に渡した佐久・小県の人質は9月17日に家康の手に移り、北条氏はこの2郡の領主たちに背かれることになります。
一方、敗れた一益は6月27日の清洲会議に出られず(もともと呼ばれていなかったとする説もある)、織田家中での立場を大きく落としました。翌天正11年(1583年)には柴田勝家・織田信孝の側について秀吉と戦い、長島城で抵抗を続けたものの7月に降伏して領地を失います。小牧・長久手の戦い(天正12年・1584年)では秀吉方として蟹江城を攻め、その功で大名に返り咲きました。晩年の一益は秀吉の東国外交にも関わり、佐竹義重らへの書状で北条攻めの意向を伝えており、これはのちに北条氏を追い詰める一因になったと考えられています。
置き去りにされた上野の将たちのうち、由良国繁と長尾顕長は、北条高広と同じくすぐに一益と縁を切って北条方につき、ほかの将もみな北条氏に従いました。小泉城の富岡秀高は、この戦いでどちらにも加わらなかったため、北条氏直から疑いの目を向けられています。箕輪城には北条氏邦が入りました。内藤昌月のもとに身を寄せていた保科正俊・正直父子は、北条軍とともに信濃へ入って高遠城を取り戻しています。
その後、北条高広・真田昌幸は上杉景勝と、由良国繁・長尾顕長は佐竹義重らと結んで北条氏から離れましたが、真田昌幸のほかはみな敗れて再び北条氏に下りました。天正18年(1590年)の小田原征伐で北条氏が滅ぶと、真田昌幸・佐野房綱(天徳寺宝衍)・由良国繁を除く上野の諸氏は没落しています。
なお、真田昌幸の娘・於菊は、最初の夫・宇多頼次の家が関ヶ原の戦いで没落した後、一益の孫の滝川一積に嫁ぎました。



