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お知らせ武将合戦2026年10月04日

鳥居元忠と伏見城の戦いのページを公開しました

人質時代から徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いの前に伏見城を守って討ち死にした鳥居元忠の武将ページと、関ヶ原の前哨戦となった伏見城の戦いの合戦ページを公開しました。

鳥居元忠の武将ページと、伏見城の戦いの合戦ページを公開しました。元忠は徳川家康が今川氏の人質だったころからそばに仕えた家臣で、慶長5年(1600年)、家康が会津へ向かった留守に伏見城を守り、西軍の大軍を相手に13日間戦って討ち死にしました。

鳥居元忠

三河国渡郷の生まれで、父・鳥居忠吉とともに松平氏に仕えた三河以来の譜代です。13歳で竹千代(のちの家康)に仕え始め、姉川・三方ヶ原・長篠などの戦いに加わりました。天正壬午の乱では黒駒合戦で北条軍の別働隊を退け、甲斐国都留郡を任されています。家康の関東移封の後は、下総国矢作城4万石の城主となりました。

伏見城での最期は、大久保忠教に「三河武士の鑑」と称えられています。家康は血に染まった城の畳を江戸城に置いて元忠の忠義を伝え、元忠の功は子孫が改易されかけたときにも家を救いました。

ページでは、誕生から討ち死にまでの21項目の年表、正室・側室と8人の子女をまとめた家系図、家康と交わした別れの酒、「血天井」、元忠の鎧のゆくえを取り上げたFAQを収めました。

伏見城の戦い

慶長5年7月18日から8月1日(1600年8月26日〜9月8日)にかけて、関ヶ原の戦いに先立って起きた戦いです。宇喜多秀家を総大将とする西軍4万が、元忠ら2,300人ほどの守る伏見城を攻めました。城は8月1日に落ち、元忠をはじめ800人が討ち死にしています。

伏見城攻めに10日以上かかったことで、西軍の美濃・伊勢への進出が遅れたとする説があります。島津義弘や小早川秀秋が、はじめは家康方として城に入ろうとして断られたという話も伝わりますが、出典は江戸時代の記録で、確かなことはわかっていません。

ページでは、家康が伏見を発ってから落城までの7項目の経過、両軍の顔ぶれ、伏見城跡の位置を示した地図を収めました。

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