北条氏政と小田原征伐のページを公開しました
関東に約240万石の最大版図を築いた後北条氏第4代当主・北条氏政の武将ページと、豊臣秀吉の天下統一を完成させた小田原征伐の合戦ページを公開しました。
北条氏政の武将ページと、小田原征伐の合戦ページを公開しました。
北条氏政
北条氏康の次男として生まれ、兄・氏親の夭折によって世子となった後北条氏の第4代当主です。永禄2年(1559年)に家督を継ぎ、しばらくは父と「御両殿」と称される二頭体制を敷きました。上杉謙信・武田信玄という強敵と渡り合いながら関宿城・祇園城を攻略して上杉派の勢力を関東からほぼ一掃し、相模・伊豆・武蔵・上野・下総・上総に加え、常陸・下野・駿河の一部まで広がる、約240万石の後北条氏の最大版図を築き上げています。
一方で、豊臣秀吉との関係調整には失敗しました。聚楽第行幸への列席を拒み、沼田裁定の後も上洛を引き延ばすうちに名胡桃城事件が起こり、天正18年(1590年)の小田原征伐を招きます。降伏後は開戦の責任者として切腹し、戦国大名としての後北条氏は滅びました。汁かけ飯や麦の逸話から「暗愚な当主」とされてきましたが、これらの逸話は後世の創作が多いとみられており、徹底抗戦の理由についても近年は評価が見直されています。
ページでは、誕生から切腹までの30項目の年表、正室・継室と実子11名・猶子養女6名を収めた家系図、関宿合戦から小田原征伐まで6つの合戦での役割をまとめました。あわせて、黄梅院との離縁が史料の誤読による誤説とされている件、氏直の生母をめぐる論争、辞世の2首も紹介しています。
小田原征伐
天正18年(1590年)、豊臣秀吉が約21万の大軍を動員して後北条氏を降した戦役です。沼田領をめぐる秀吉の裁定を北条方が名胡桃城奪取という武力で覆したことが惣無事令違反とみなされ、開戦に至りました。
3月29日、小田原の西の護りであった山中城がわずか数時間で落城したことが北条方に深い衝撃を与えます。北条氏は5万余の兵を小田原城に集めて籠城しましたが、主力を引き抜かれた支城は次々と陥落しました。北方隊は松井田城・鉢形城・八王子城を、浅野長政の別働隊は玉縄城・江戸城から房総・岩槻までを攻略し、6月26日に石垣山一夜城が完成すると城中の議論は紛糾します。7月5日、氏直は自らの切腹と引き換えに城兵の助命を願い出て降伏。氏政・氏照は11日に切腹し、13日には徳川家康の関東転封が公表されました。
ページでは、名胡桃城事件から関東転封の公表までを15項目の時系列で追い、豊臣軍29名・北条軍25名の参加武将と兵力、そして「小田原評定」という言葉の由来や、野戦を主張して退けられた北条氏邦が単独で鉢形城に籠城した経緯をまとめています。