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お知らせ武将合戦2026年07月12日

真田信繁(幸村)と大坂の陣のページを公開しました

「日本一の兵」と称された真田信繁の武将ページと、豊臣家滅亡までを描く大坂冬の陣・大坂夏の陣の合戦ページを公開しました。

真田信繁(幸村)の武将ページと、大坂冬の陣・大坂夏の陣の合戦ページを公開しました。「日本一の兵」と称され、大坂夏の陣で徳川家康の本陣に突撃した戦国屈指の英雄の生涯と、応仁の乱以来続いた戦国期の終焉となった大坂の陣を、それぞれ独立したページで詳しく解説します。

真田信繁

真田信繁は、真田昌幸の次男として生まれ、豊臣秀吉の馬廻衆として19,000石を有する独立した大名でもあった武将です。関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れ、10年以上を紀伊国九度山で過ごした後、大坂の陣で豊臣方として戦いました。冬の陣では真田丸を築いて徳川方を撃退し、夏の陣・天王寺岡山合戦では家康の本陣に決死の突撃を敢行、越前松平家の西尾宗次に討ち取られました。享年49。実名は「信繁」ですが、江戸中期の軍記物『難波戦記』以降「真田幸村」の名で庶民の英雄として広く語り継がれています。

大坂冬の陣

慶長19年(1614年)11月から12月にかけて、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川家康と豊臣家との間で行われた合戦です。徳川方20万・豊臣方10万が大坂城を挟んで対峙し、真田丸の戦いで信繁が武名を天下に知らしめました。しかし本丸への大砲直撃で淀殿が和議を決意、12月20日に講和が成立。条件として外堀・二の丸・三の丸の堀が埋め立てられ、大坂城は本丸のみを残す裸城となって翌年の夏の陣における豊臣方の敗北を決定づけました。

大坂夏の陣

慶長20年(1615年)4月から5月にかけて、堀を失った大坂城で野戦決戦を強いられた豊臣方と徳川方が激突しました。樫井・道明寺・八尾若江での連戦の末、5月7日の天王寺岡山合戦で真田信繁が家康の本陣に二度突撃し、家康を自害寸前まで追い詰めたと伝わります。しかし兵力に勝る徳川方が態勢を立て直し、翌8日に秀頼・淀殿以下32名が自害して豊臣家は滅亡。この合戦をもって戦国時代の大規模戦闘が終焉を迎え、以後260年余の徳川泰平の世(元和偃武)が始まりました。

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