上杉景勝と御館の乱のページを公開しました
戦国武将・上杉景勝の詳細ページと、御館の乱の合戦ページを公開しました。上杉謙信の養子として家督争いを制し、豊臣政権の五大老に列して会津120万石を領した名将の生涯を年表形式で解説し、謙信の死後に景勝と景虎が上杉家の家督を争った御館の乱の経過を時系列で紹介しています。
戦国史の杜に、新たに上杉景勝の武将ページと御館の乱の合戦ページを公開しました。
上杉景勝
上杉謙信の姉を母に持ち、謙信の養子となって上杉家を継いだ武将です。謙信の死後に起こった家督争い・御館の乱を制し、やがて豊臣秀吉に臣従して五大老の一人に列し、会津120万石を領する大大名となりました。関ヶ原の戦いでは西軍に与して敗れ、米沢30万石へ大減封されながらも上杉の家名を守り抜いています。寡黙で威厳ある主君として、傍若無人で知られた前田慶次さえ威に打たれたと伝わるその人物像でも知られます。
年表では、謙信の養子となった少年期から、御館の乱、豊臣大名としての栄達、関ヶ原と米沢への減封、大坂の陣まで、69年の生涯を時系列で紹介しています。
御館の乱
天正6年(1578年)、上杉謙信の急死を機に、ともに養子であった上杉景勝と上杉景虎が家督をめぐって争った、越後を二分するお家騒動です。景勝はいち早く春日山城の本丸と金蔵を押さえ、当初は景虎を支援していた武田勝頼と甲越同盟を結んで戦局を逆転。天正7年(1579年)に景虎を自害に追い込んで勝利しました。しかしこの内乱で上杉氏の勢力は大きく衰え、新発田重家の離反や、武田氏滅亡の遠因にもつながっていきます。
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