越後国守護代・関東管領・戦国大名
上杉謙信
うえすぎ けんしん
別名: 長尾景虎、上杉政虎、上杉輝虎、虎千代、不識庵謙信
「越後の龍」と呼ばれ、義を重んじて武田信玄・北条氏康・織田信長と戦い続けた戦国最強の武将の一人
誕生
1530年02月18日(享禄3年)
越後国春日山城(現在の新潟県上越市)
出典: 『上杉家御年譜』
死没
1578年04月19日(天正6年)
越後国春日山城
脳溢血(脳血管障害)
出典: 『謙信公御年譜』
諸説
支配領域
越後、越中、能登、加賀(一部)、上野(一部)
家族
両親
父
長尾為景
母
虎御前(青岩院)
子
長尾政景の次男
(養子・養女)
上杉景勝
実父: 長尾政景
実甥、御館の乱に勝利
北条氏康の七男
(養子・養女)
上杉景虎
実父: 北条氏康
畠山義続の次男
(養子・養女)
畠山義春
実父: 畠山義続
能登畠山氏
村上義清の子
(養子・養女)
山浦景国
実父: 村上義清
山浦氏を継ぐ
年表
越後守護代・長尾為景の四男として春日山城に生まれる。幼名は虎千代。庚寅年生まれのために名づけられた
元服して長尾景虎と名乗る。この頃、古志郡の栃尾城に入る
兄・晴景を侮った越後の豪族が栃尾城に攻め寄せたが、初陣の景虎がこれを撃退した
守護・上杉定実の調停により兄・晴景から家督を譲られ、19歳で越後守護代となる
守護・上杉定実の死去後、越後守護を代行。長尾政景の反乱を鎮圧し、22歳で越後統一を達成
後奈良天皇と将軍・足利義輝に拝謁。天皇から御剣と天盃を下賜され、敵討伐の勅命を受ける
村上義清の救援要請を受け、初めて武田晴信(信玄)と対峙。大きな戦闘には至らず
武田軍と犀川を挟んで5ヶ月にわたり対峙。今川義元の仲介により和睦
家臣団の内部抗争に嫌気がさし、突然出家を宣言して高野山を目指す。家臣の説得で帰国し、臣従の誓紙を得る
武田軍の北信侵攻に対し出陣。善光寺を奪還するも大規模戦闘には至らず
正親町天皇や将軍・足利義輝に拝謁。義輝から管領並の待遇(上杉の七免許)を与えられる
鎌倉鶴岡八幡宮にて山内上杉家の家督と関東管領職を相続。上杉政虎と改名
武田信玄と最大の激戦。車懸かりの陣で武田本陣に迫り、信玄の弟・信繁や軍師・山本勘助を討ち取るも、決着はつかず
将軍・足利義輝から一字を賜り、上杉輝虎と改名
武田信玄と川中島で最後の対峙。60日間にらみ合った末に決着つかず。以後、両者が川中島で相まみえることはなかった
一向一揆と椎名康胤が武田信玄に通じたため、越中国の制圧に乗り出す。以後、越中が主戦場となる
越相同盟に基づき、北条氏康の七男・北条三郎を養子に迎え、自身の初名「景虎」を与える
長年戦い続けた石山本願寺の顕如と講和を成立。信長包囲網が構築され、織田信長と敵対
一向一揆支配下の富山城・増山城・守山城などを攻略。椎名康胤を討ち取り、ついに越中を平定
能登国の要衝・七尾城を調略により陥落。内応した遊佐続光らが長続連を殺害し、城を開城させた
織田信長が派遣した柴田勝家率いる3万余の大軍を手取川で追撃・撃破。信長軍に大打撃を与えた
春日山城に帰還後、翌年3月15日の遠征開始に向けて動員令を発する。上洛か関東侵攻かは不明
遠征準備中に春日山城内の厠で倒れ、昏睡状態のまま4日後に死去。享年49。辞世「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」
※ 年齢は数え年で表記しています。数え年は生まれた年を1歳とし、元日を迎えるごとに加算する日本の伝統的な年齢の数え方です。
概要
上杉謙信は、戦国時代の越後国を治めた武将・大名。「越後の龍」「軍神」と称され、生涯において70回以上の合戦を行い、そのほとんどで勝利したとされる。私利私欲にとらわれず「義」を掲げて戦ったことで知られ、「敵に塩を送る」の逸話は現代まで語り継がれている。
初名は長尾景虎。越後守護代・長尾為景の四男として生まれ、兄・晴景から家督を継いで越後を統一。関東管領・上杉憲政の養子となって上杉姓を継ぎ、室町幕府の重職である関東管領を引き継いだ。武田信玄との川中島の戦い、北条氏康との関東争奪戦、そして晩年には織田信長の軍勢を手取川で撃破するなど、生涯を戦いに捧げた。
一方で近年の研究では、利害を冷徹に判断しながら領土拡大に努めた現実的な戦国大名としての側面も指摘されている。
生涯
出生と家督相続
享禄3年(1530年)1月21日、越後守護代・長尾為景の四男として春日山城に生まれる。母は古志長尾家出身の虎御前(青岩院)。幼名は虎千代で、庚寅年生まれにちなんで名づけられた。幼い頃から城下の林泉寺で住職・天室光育の教えを受けた。
天文12年(1543年)に元服して景虎と名乗る。翌年、兄・晴景を侮った豪族が栃尾城に攻め寄せたが、初陣の景虎はこれを見事に撃退した。その後、家臣団の支持を背景に兄・晴景から家督を譲られ、19歳で越後守護代に就任。長尾政景の反乱を鎮圧して22歳で越後統一を達成した。
川中島の戦い
天文22年(1553年)、武田晴信(後の信玄)の信濃侵攻により領国を追われた村上義清らの救援要請を受け、景虎は信濃に出陣。以後12年にわたり、川中島で武田軍と5度の対峙を繰り広げた。
中でも永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いは、両軍あわせて数千の死傷者を出す壮絶な激戦となった。景虎は「車懸かりの陣」で武田本陣に迫り、武田信繁や山本勘助を討ち取ったとされるが、武田軍の別働隊の到着により決着はつかなかった。この戦いは日本戦史上屈指の激戦として語り継がれている。
関東管領就任と関東争奪戦
永禄4年(1561年)閏3月、鎌倉鶴岡八幡宮にて山内上杉家の家督と関東管領職を継承し、上杉政虎と改名。関東管領として北条氏康との関東争奪戦を展開し、小田原城を包囲するなど関東各地を転戦した。
しかし関東の諸将は謙信が出兵すれば従い、帰国すれば北条方に寝返ることを繰り返し、関東の支配は安定しなかった。永禄9年(1566年)の臼井城攻めの失敗を機に関東での劣勢が明確となり、謙信は次第に北陸方面に主戦場を移すことになる。
越中・能登平定と織田信長との対決
天正4年(1576年)、長年苦しめられた越中一向一揆を制圧し、椎名康胤を討ち取って越中を平定。同時に本願寺の顕如と講和を結んで信長包囲網に加わり、織田信長と敵対関係に入った。
続いて能登国に侵攻し、天正5年(1577年)9月に難攻不落の七尾城を調略により陥落させた。さらに救援に向かった柴田勝家率いる織田軍3万余を手取川の戦いで撃破。この勝利により謙信の武名は天下に轟き、上洛への道が開けた。
突然の死
天正5年(1577年)12月、謙信は翌年3月の大遠征に向けて動員令を発した。しかし天正6年(1578年)3月9日、遠征準備中に春日山城内の厠で倒れ、昏睡状態に陥った。そのまま意識が戻ることなく、3月13日に死去。享年49。
過度の飲酒や塩分の摂り過ぎによる高血圧性の脳血管障害が死因とされる。生涯独身を貫き、後継者を明確に定めなかったため、養子の景勝と景虎の間で家督をめぐる御館の乱が勃発し、上杉家は大きく衰退することとなった。
評価
上杉謙信は「義の武将」として後世に語り継がれ、その武勇と潔癖さから「軍神」の称号で呼ばれた。毘沙門天の熱心な信仰者であり、本陣の旗印に「毘」の文字を用いたことでも知られる。
武田信玄は死の直前、後継者の勝頼に「謙信を頼むべし」と遺言したと伝えられ、宿敵でありながら謙信の武人としての信義を高く評価していた。また和歌に通じた文化人でもあり、公家の近衛稙家から和歌の奥義を伝授されるなど、武辺一辺倒ではない教養人としての側面も持ち合わせていた。
一方で、越相同盟の締結と破綻、北陸侵攻への転換など、利害を慎重に判断する現実的な戦略家としての評価も近年高まっている。辞世の句「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」は、酒を愛し戦場を駆け抜けた生涯を象徴する名句として広く知られている。
よくある疑問
上杉謙信はなぜ「軍神」と呼ばれる?
生涯70回以上の合戦でほとんど敗北がなく、毘沙門天を熱心に信仰して「毘」の旗印を掲げたことから「軍神」と称されました。第四次川中島の戦いや手取川の戦いなどの戦績が評価されています。
上杉謙信は生涯独身だった?
生涯独身を貫きました。毘沙門天への信仰から女性を近づけなかったとも言われますが、真相は不明です。後継者を明確に定めなかったため、死後に御館の乱が起き上杉家は大きく衰退しました。
「敵に塩を送る」とはどういう逸話?
武田信玄が今川・北条との同盟破綻で塩の供給を断たれた際、敵対する謙信が「戦いは戦場で決するもの」として塩を送ったとされる逸話です。義を重んじる謙信の人柄を示す話として知られています。
上杉謙信の死因は?
天正6年(1578年)、遠征準備中に春日山城内の厠で倒れ、4日後に死去しました。過度の飲酒や塩分過多による高血圧性の脳血管障害(脳卒中)が死因とされています。
関連史料・書籍
- -上杉家御年譜(米沢藩編纂)藩撰史料
- -北越軍談(宇佐美定祐)軍記物
- -上杉謙信のすべて(花ヶ前盛明)研究書
- -歴代古案(不詳)文書集
最終更新日: 2026年02月23日




