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天正13年閏8月2日(神川合戦とも)

第一次上田合戦

だいいちじうえだかっせん1585年09月25日
— 場所 —
上田城および神川周辺(現在の長野県上田市)
— 結果 —
真田軍が徳川軍を撃退
— 歴史的意義 —
真田昌幸の智謀を天下に知らしめ、真田氏が武田の旧臣から独立した戦国大名へ飛躍する大きな転機となった戦い
信州上田軍記
書籍

信州上田軍記

堀内泰

鬼灯書籍

— 戦場の位置 —

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疾風六文銭 真田三代と信州上田
書籍

疾風六文銭 真田三代と信州上田

寺島隆史、金子万平

週刊上田新聞社

— 両軍 —
— 真田軍 —
指揮官
真田昌幸総大将
兵力
約1,200-2,000人
損害
約40人と軽微
参加武将
真田信之(信幸)戸石城を守り、退却する徳川軍を横合いから攻撃
矢沢頼綱沼田城を守り、連動して攻めた北条軍を撃退
矢沢頼康矢沢城を守備
須田満親上杉氏の援軍
根津昌綱真田方として参戦
— 徳川軍 —
指揮官
鳥居元忠主将
大久保忠世主将
平岩親吉主将
兵力
約7,000人
損害
約1,300人の死傷者
参加武将
大久保忠教(彦左衛門)参陣し、『三河物語』に記録を残す
井伊直政援軍
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ゲーム

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— 戦いの経過 —
天正13年閏8月

徳川軍、上田へ進軍

沼田領の引き渡しを拒んで手切れとなった真田を討つべく、徳川家康は鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉らに約7,000の兵を与えて上田城へ向かわせた

閏8月2日

上田城の攻防(神川合戦)

二の丸まで攻め込んだ徳川軍を真田方は反撃で撃退。退却する敵を戸石城の信幸が横合いから攻め、神川で多くの将兵が溺死した。徳川軍は1,300人もの死傷者を出す

閏8月3日

丸子表の戦い

徳川軍は真田方の丸子城を攻めるが要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できず、以後20日ほど対陣が続いた

閏8月28日

徳川軍の撤退

上杉の援軍との小競り合いや増援の報に接し、家康は撤退を下令。やがて重臣・石川数正の出奔も重なり、徳川軍は上田から完全に撤退した

戦後

真田氏の名声

わずかな兵で徳川の大軍を退けた真田昌幸の智謀は天下に知れ渡り、真田氏は武田の旧臣から独立した戦国大名として認知されるようになった

信長の野望・新生 公式ガイドブック
書籍

信長の野望・新生 公式ガイドブック

ファミ通書籍編集部

KADOKAWA

— 戦いの内容 —

概要

第一次上田合戦は、天正13年(1585年)閏8月、信濃国の上田城(現在の長野県上田市)とその周辺で行われた、真田氏と徳川氏との戦いである。神川での追撃戦が決定的だったことから「神川合戦」とも呼ばれる。上田城のみならず、戸石城や丸子城など上田・小県に点在する山城も含めた総力戦であった。

真田昌幸はわずか1,200〜2,000ほどの兵で、約7,000の徳川軍を撃退した。この戦いによって昌幸は智謀の将として天下に名を知られ、真田氏は武田の旧臣から独立した戦国大名へと飛躍する大きな転機をつかむことになる。

背景

天正10年(1582年)、武田氏の滅亡と本能寺の変によって、旧武田領は無主の地となり、上杉・北条・徳川による争奪戦(天正壬午の乱)が起こった。この混乱の中で自立した真田昌幸は、上野沼田領と信濃小県を支配下に収め、天正11年(1583年)には新たな本拠として上田城の築城に着手する。

やがて徳川家康は、北条氏との和睦条件として、昌幸に沼田領を北条氏へ引き渡すよう求めた。しかし昌幸は「自ら切り取った領地であり、家康から与えられたものではない」としてこれを拒否し、上杉氏と通じて徳川と手切れとなった。ここに第一次上田合戦の火種が生まれる。

戦いの経過

天正13年(1585年)閏8月、徳川家康は鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉らに約7,000の兵を与え、上田城へ攻め寄せた。これに対し真田方は約1,200〜2,000の兵。昌幸は上田城に、長男の信幸は支城の戸石城に、従兄弟の矢沢頼康は矢沢城に籠もって迎え撃った。

閏8月2日、二の丸まで攻め込んだ徳川軍を真田方は反撃で撃退する。後退する徳川勢を、戸石城の信幸が横合いから攻め、さらに追撃戦で神川まで追い込むと、多くの将兵が川で溺死した。地の利を活かした真田方のこの戦法により、徳川軍は1,300人もの死傷者を出したのに対し、真田軍の犠牲はわずか40人ほどであったと伝わる。

翌日以降、徳川軍は丸子城を攻めるが攻略できず、20日ほど対陣が続いた(丸子表の戦い)。やがて家康は撤退を下令し、11月には重臣・石川数正の豊臣家への出奔もあって、徳川軍は完全に撤退した。なお、この合戦に連動して北条氏が沼田城を数度攻めたが、城代・矢沢頼綱がことごとく撃退している。

結果と影響

第一次上田合戦は、真田昌幸が徳川の大軍を相手に城を守り抜いた戦いとして語り継がれている。この鮮やかな勝利は、真田氏が武田の旧臣から独立した戦国大名へと飛躍する大きな転機となった。同年冬、昌幸は次男・信繁を人質として豊臣秀吉に臣従し、独立大名として認知されていく。

寡兵で徳川の大軍を退けた真田昌幸の智謀は天下に知れ渡り、家康に「最も恐れられた武将」として記憶されることになる。なお、それから15年後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに際して、昌幸は再び上田城で徳川秀忠の大軍を相手に戦うことになる(第二次上田合戦)。

— 問答 —
第一次上田合戦とは?
天正13年(1585年)閏8月、信濃上田城を舞台に真田昌幸が徳川軍を撃退した戦いです。神川での追撃戦が決定的だったことから「神川合戦」とも呼ばれます。約1,200〜2,000の真田軍が約7,000の徳川軍を相手に大勝し、真田昌幸の名を天下に知らしめました。
なぜ真田は2,000の兵で徳川の大軍に勝てた?
上田城と戸石城・丸子城など周辺の山城、そして神川などの地形を巧みに活かした戦法によります。城下に敵を誘い込んで反撃し、退却する敵を戸石城の信幸が横合いから攻め、神川で討ち取ることで、約7,000の徳川軍に1,300人もの損害を与えました。真田方の犠牲はわずか40人ほどであったと伝わります。
なぜ徳川と真田は戦うことになった?
徳川家康が北条氏との和睦条件として、昌幸に上野沼田領を北条氏へ引き渡すよう求めたことが発端です。昌幸は「自ら切り取った領地であり、家康から与えられたものではない」としてこれを拒否し、上杉氏と通じて徳川と手切れとなりました。
— 参考史料 —
三河物語大久保忠教軍記物
真田家文書一次史料
真田三代 幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る平山優研究書
「豊臣大名」真田一族黒田基樹研究書

最終更新日: 2026年06月14日