第一次上田合戦
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徳川軍、上田へ進軍
沼田領の引き渡しを拒んで手切れとなった真田を討つべく、徳川家康は鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉らに約7,000の兵を与えて上田城へ向かわせた
上田城の攻防(神川合戦)
二の丸まで攻め込んだ徳川軍を真田方は反撃で撃退。退却する敵を戸石城の信幸が横合いから攻め、神川で多くの将兵が溺死した。徳川軍は1,300人もの死傷者を出す
丸子表の戦い
徳川軍は真田方の丸子城を攻めるが要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できず、以後20日ほど対陣が続いた
徳川軍の撤退
上杉の援軍との小競り合いや増援の報に接し、家康は撤退を下令。やがて重臣・石川数正の出奔も重なり、徳川軍は上田から完全に撤退した
真田氏の名声
わずかな兵で徳川の大軍を退けた真田昌幸の智謀は天下に知れ渡り、真田氏は武田の旧臣から独立した戦国大名として認知されるようになった
概要
第一次上田合戦は、天正13年(1585年)閏8月、信濃国の上田城(現在の長野県上田市)とその周辺で行われた、真田氏と徳川氏との戦いである。神川での追撃戦が決定的だったことから「神川合戦」とも呼ばれる。上田城のみならず、戸石城や丸子城など上田・小県に点在する山城も含めた総力戦であった。
真田昌幸はわずか1,200〜2,000ほどの兵で、約7,000の徳川軍を撃退した。この戦いによって昌幸は智謀の将として天下に名を知られ、真田氏は武田の旧臣から独立した戦国大名へと飛躍する大きな転機をつかむことになる。
背景
天正10年(1582年)、武田氏の滅亡と本能寺の変によって、旧武田領は無主の地となり、上杉・北条・徳川による争奪戦(天正壬午の乱)が起こった。この混乱の中で自立した真田昌幸は、上野沼田領と信濃小県を支配下に収め、天正11年(1583年)には新たな本拠として上田城の築城に着手する。
やがて徳川家康は、北条氏との和睦条件として、昌幸に沼田領を北条氏へ引き渡すよう求めた。しかし昌幸は「自ら切り取った領地であり、家康から与えられたものではない」としてこれを拒否し、上杉氏と通じて徳川と手切れとなった。ここに第一次上田合戦の火種が生まれる。
戦いの経過
天正13年(1585年)閏8月、徳川家康は鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉らに約7,000の兵を与え、上田城へ攻め寄せた。これに対し真田方は約1,200〜2,000の兵。昌幸は上田城に、長男の信幸は支城の戸石城に、従兄弟の矢沢頼康は矢沢城に籠もって迎え撃った。
閏8月2日、二の丸まで攻め込んだ徳川軍を真田方は反撃で撃退する。後退する徳川勢を、戸石城の信幸が横合いから攻め、さらに追撃戦で神川まで追い込むと、多くの将兵が川で溺死した。地の利を活かした真田方のこの戦法により、徳川軍は1,300人もの死傷者を出したのに対し、真田軍の犠牲はわずか40人ほどであったと伝わる。
翌日以降、徳川軍は丸子城を攻めるが攻略できず、20日ほど対陣が続いた(丸子表の戦い)。やがて家康は撤退を下令し、11月には重臣・石川数正の豊臣家への出奔もあって、徳川軍は完全に撤退した。なお、この合戦に連動して北条氏が沼田城を数度攻めたが、城代・矢沢頼綱がことごとく撃退している。
結果と影響
第一次上田合戦は、真田昌幸が徳川の大軍を相手に城を守り抜いた戦いとして語り継がれている。この鮮やかな勝利は、真田氏が武田の旧臣から独立した戦国大名へと飛躍する大きな転機となった。同年冬、昌幸は次男・信繁を人質として豊臣秀吉に臣従し、独立大名として認知されていく。
寡兵で徳川の大軍を退けた真田昌幸の智謀は天下に知れ渡り、家康に「最も恐れられた武将」として記憶されることになる。なお、それから15年後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに際して、昌幸は再び上田城で徳川秀忠の大軍を相手に戦うことになる(第二次上田合戦)。
最終更新日: 2026年06月14日



