— 戦いの内容 —
概要
末森城の戦いは、能登国の末森城(現在の石川県羽咋郡宝達志水町)をめぐって、天正12年9月9日(1584年10月12日)に起きた城攻めの戦いである。「末森の合戦」の名でも呼ばれる。
この年、羽柴秀吉と、織田信雄・徳川家康の連合軍とが小牧・長久手で争っていた。越中の佐々成政はその途中で秀吉を見限って信雄・家康の側に移り、秀吉方の前田利家が治める加賀と能登を切り離そうと動いた。成政が1万5千の兵で末森城を囲むと、奥村永福・千秋範昌らが守る城はあと一歩で落ちるところまで追い詰められた。そこへ金沢城から駆けつけた利家が、海沿いの道を進んで佐々軍の後ろに回り込み、これを打ち破った。
敗れた成政は越中に戻って守りに徹し、利家は領国を守り抜いた。小牧・長久手の戦いを政治の面で有利にまとめた秀吉は利家とともに越中へ迫り、翌年の富山の役で成政は降伏する。
背景
末森城は、標高138.8mの末森山に築かれた山城で、いくつもの曲輪を連ねた造りだった。『信長公記』などには「末守」「末盛」と書かれている。山のあちこちに置かれた曲輪を合わせると、広さは30,000m²にもなる。築いたのは能登畠山氏の家臣で地頭職にあった土肥親真と伝わるが、はっきりしたことは分かっていない。天正5年(1577年)には越後から攻め込んだ上杉謙信に、天正8年(1580年)には加賀の一向一揆を平らげた柴田勝家らに、それぞれ降っている。その後、親真は前田利家に付けられる形となり、城も前田家のものとなった。加賀と能登を行き来する道の要を押さえる城である。
天正12年(1584年)、小牧・長久手で秀吉と信雄・家康がにらみ合いを始めた。越中の佐々成政は、はじめ丹羽長秀を通じて届いた秀吉の出陣の求めに従い、佐々平左衛門を小牧の羽柴方へ送っていた。ところが7月、羽柴方に加わっていた北陸の軍勢が国へ戻ると、成政は一転して信雄・家康の側に立つ。一緒に戻ってきた平左衛門から、羽柴軍が思うように戦えていないと聞いたことが、寝返りを決めるきっかけになったと考えられている。
最初に狙われたのは、前田利家の朝日山城(現在の石川県金沢市加賀朝日町)である。8月28日、成政は不意打ちをかけたが、前田家の家臣・村井長頼に追い返された。
戦いの経過
9月9日、成政は利家の領国を加賀と能登の2つに切り離そうと、宝達山を越えて坪山砦に陣を取り、1万5千の兵で末森城を囲んだ。利家が助けに来るのに備え、北川尻には神保氏張を置いて見張らせている。
翌10日に攻撃が始まった。城では奥村永福・千秋範昌らが300人(500人とする説もある)で立てこもって防いだが、戦いは佐々方の有利に進む。城代を務めていた土肥次茂(土肥親真の弟)も討たれ、城は今にも落ちそうなありさまだった。
危急の知らせは金沢城の利家に届き、利家は2,500人を連れてただちに出陣した。道案内に立ったのは、高松村(現在のかほく市)の農民・桜井三郎左衛門である。一行は佐々方の備えが薄い海沿いの道を選んで北川尻を抜け、今浜にたどり着いた。9月11日の夜明け、利家は城に攻めかかっている佐々軍に後ろから襲いかかり、これを打ち破った。この戦いで命を落とした者は、両軍それぞれ750人あまりに上ったといわれる。
結果と影響
越中へ引き揚げる成政は、道中にあった鳥越城(石川県河北郡津幡町七黒)が空になっているのを見て、これを手に入れた。城を守っていた目賀田右衛門と丹羽源太郎が、利家が末森で負けたという誤った知らせを信じ、城を捨てて逃げていたためである。とはいえ、これ以後の成政は守りを固めるほかなかった。越後の上杉景勝とも争っていた成政は、東と西の両方に敵を抱え、苦しい立場に置かれた。
勝った利家は手を緩めず、加賀と越中の境にある荒山・勝山の砦を落として、越中にも兵を入れた(奥村氏文書)。9月19日には秀吉から、これら一連の勝ちを祝われている。こうして領国を守り切った利家は、小牧・長久手の戦いを政治の面で有利にまとめた秀吉と足並みをそろえ、成政への圧力を強めていった。
やがて秀吉と信雄が和睦し、家康も兵を引くと、成政は真冬の北アルプスを越えて浜松の家康のもとへ赴き、再び立ち上がるよう説いたとされる(さらさら越え)。しかし家康を動かすことはできなかった。翌天正13年(1585年)、秀吉はみずから大軍を率いて越中へ攻め入り、富山城を囲まれた成政は織田信雄の取りなしで降伏した(富山の役)。
利家が能登と加賀をしっかり治めていく土台は、この勝利によって固まったとみることもできる。末森城はその後、元和元年(1615年)の一国一城令で城としての役目を終えた。本丸の正門は金沢城に移されて鶴の丸南門となったが、宝暦9年(1759年)の火事で焼けている。昭和60年(1985年)からは押水町が大がかりな発掘を行い、15世紀後半から16世紀後半にかけての暮らしの道具や鉄砲玉が数多く見つかった。城跡は平成3年(1991年)に石川県の史跡となり、利家の道案内を務めた桜井三郎左衛門の像や、大河ドラマ「利家とまつ」にちなむ末森山古戦場碑が立っている。
この戦いは、司馬遼太郎の小説『俺は権現』や、原哲夫の漫画『花の慶次』にも取り上げられている。



