— 戦いの内容 —
概要
戸次川の戦いは、天正14年12月12日から13日(1587年1月20日〜21日)にかけて、豊後国の戸次川で起きた戦いです。豊臣秀吉の九州平定のさなか、島津家久の率いる島津軍と、仙石秀久・長宗我部元親と信親の父子・十河存保・大友義統らの豊臣方が戦いました。
島津勢に囲まれた鶴ヶ城を救おうと、軍監の秀久は秀吉の指示に背いて川を渡り、攻めかかりました。豊臣方ははじめ優勢に見えましたが、島津方の伏兵に反撃されて総崩れとなり、長宗我部信親と十河存保が討ち死にしています。九州平定の最初の戦いは、豊臣方の大敗に終わりました。
背景
天正14年(1586年)4月5日、豊後の大友宗麟は大坂で秀吉に会い、島津義久に領地を攻められていると訴えて助けを求めました。秀吉はこれを受け入れ、まず黒田孝高に毛利の兵を率いさせて送り出し、続いて讃岐の仙石秀久を主将に、長宗我部元親・信親の父子を付けて豊後へ向かわせます。
四国勢はおよそ6千で、豊後の府内に陣を置きました。大友勢を合わせれば2万に届き、島津軍をしのぐはずでしたが、大友勢は士気が低く、四国勢もつい最近まで争っていた者どうしの寄せ集めでした。秀吉は秀久に、門司に毛利・小早川の軍を置いたので島津はいずれ崩れる、自分が本隊を率いて行くまで待て、と書状で持久戦を命じていました。
そうしたなか、島津家久が豊後に攻め込み、大友方の鶴ヶ城を攻め始めます。
戦いの経過
12月11日、秀久と信親らは鶴ヶ城を救うため、戸次川の手前に陣を敷きました。軍議で秀久は川を渡って攻めるべきだと主張します。元親は加勢を待ってから戦うべきだと反対しましたが、秀久は城を救うことが先だとして退け、十河存保も秀久の考えに理があるとして賛成しました。こうして豊臣方は川を渡ることになります。
戦いは12日の夕方に始まりました。フロイスの記録によれば、対岸に現れた島津勢がわずかだったため、豊臣方はためらわずに流れの速い川を渡って攻めかかり、はじめは自分たちが勝っていると思えたといいます。しかしこれは、相手を残らず渡らせるための島津方の策でした。隠れていた兵が一斉に打って出ると、土佐の鉄砲隊は撃つ間もないまま押し込まれ、豊臣方は鉄砲や武具を捨てて逃げ出しました。
先陣の仙石隊が崩れたことで、長宗我部軍3千は取り残され、島津方の新納大膳亮が率いる5千と戦うことになります。乱戦のなかで元親と信親ははぐれ、信親は中津留の河原で鈴木大膳に討たれました。22歳でした。信親に従った700人も討ち死にし、十河存保も戦死、鶴ヶ城も落ちています。フロイスは、土地の者である豊後勢は浅瀬を知っていて助かったが、他国から来た仙石・長宗我部の兵は川で溺れ、戦死者は2,300人を超えたと記しています。
元親は戦場を離れて九州からも脱し、伊予の日振島まで逃れました。秀久も敗れた軍をまとめないまま小倉城へ入り、讃岐へ引き揚げています。
結果と影響
戦いを始めるなと命じていた秀吉は、秀久の命令違反と、豊臣政権の威信を損なう敗戦に怒りました。秀久の讃岐の領地は取り上げられて尾藤知宣に与えられ、秀久は高野山へ追われます。もっとも、その尾藤も九州平定の根白坂の戦いで逆に消極的な策をとったことを咎められて所領を失い、小田原征伐で大名に返り咲いた秀久とは反対に、のちに処刑されました。
長宗我部元親にとっては、跡継ぎの信親を失った戦いとなりました。島津軍はこの勝利で豊後の中部・西部をほぼ手中に収めましたが、秀吉の本隊が九州に入ると押し返され、翌年の根白坂の戦いで敗れて降伏に向かいます。



