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慶長5年7月18日〜8月1日(落城は8月1日)

伏見城の戦い

ふしみじょう の たたかい1600年09月08日
— 場所 —
山城国伏見城(現在の京都府京都市伏見区桃山町。本丸跡は明治天皇伏見桃山陵)
— 結果 —
西軍の勝利。
伏見城は落城し、守将の鳥居元忠をはじめ城兵800人が討ち死にした
— 歴史的意義 —
関ヶ原の戦いの前哨戦。
家康の留守を預かる伏見城が西軍に攻め落とされたが、攻略に10日以上かかったことが、西軍の美濃・伊勢への展開を遅らせたとする説がある
関ヶ原合戦を復元する
書籍

関ヶ原合戦を復元する

水野伍貴

星海社(星海社新書)

— 戦場の位置 —

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論争 関ヶ原合戦
書籍

論争 関ヶ原合戦

笠谷和比古

新潮社(新潮選書)

— 両軍 —

— 西軍 —
指揮官
宇喜多秀家総大将。7月22日に攻め手に加わる
兵力
約40,000人
損害
毛利勝永の隊が毛利九左衛門・毛利勘左衛門ら多くの家臣を失い、島津義弘の隊にも死傷者が出た
参加武将
小早川秀秋7月下旬から攻め手に加わる
島津義弘城に入ろうとして断られ、西軍についたとする説がある
毛利吉政(勝永)攻撃で多くの家臣を失う
鈴木重朝鉄砲頭。鳥居元忠を討ち取る
石田三成降伏を勧める使者を送る。7月29日に伏見に着く
— 徳川軍(伏見城の守備隊) —
指揮官
鳥居元忠伏見城の守将。鈴木重朝に討たれる
兵力
約2,300人(城兵1,800人に、大坂城西の丸から移ってきた500人を加えた数。1,800人とする記述もある)
損害
鳥居元忠・内藤家長と元長の父子・松平家忠・上林竹庵ら800人が討ち死にし、城は焼け落ちた
参加武将
松平家忠討ち死に
松平近正元忠とともに籠城
内藤家長子の元長とともに討ち死に
内藤元長家長の子。討ち死に
上林竹庵討ち死に
篠山資家守備隊に加わる
佐野綱正守備隊に加わる
山岡景光守備隊に加わる
木下勝俊守備を任されていたが城を去る
関ヶ原への道 豊臣秀吉死後の権力闘争
書籍

関ヶ原への道 豊臣秀吉死後の権力闘争

水野伍貴

東京堂出版

— 戦いの経過 —

慶長5年6月16日〜18日(1600年7月26日〜28日)

家康、伏見城を元忠に託す

会津の上杉景勝を討つため大坂を発った徳川家康は、16日に伏見城に入り、留守を鳥居元忠に任せた。18日、家康は伏見から東へ向かった

7月15日(8月23日)

伏見城の籠城が始まる

元忠らは西軍の挙兵に備えて城に籠もる。元忠は降伏を勧めに来た使者を斬り、亡骸を送り返した

7月17日(8月25日)

三奉行が家康を弾劾する

大坂城の前田玄以・増田長盛・長束正家が、西の丸にいた家康の留守居を追い出し、家康の非を13か条にまとめた弾劾状を出す

7月18日〜19日(8月26日〜27日)

攻撃が始まる

西軍が攻撃を始め、19日から本格的な戦いとなる。城兵は打って出て、前田玄以・長束正家らの屋敷を焼き払った

7月22日〜23日(8月30日〜31日)

宇喜多秀家・小早川秀秋が加わる

攻め手に宇喜多秀家の軍が加わり、続いて小早川秀秋の軍も加わる。西軍は昼も夜も鉄砲を撃ちかけ、土を盛った山に大筒・石火矢を据え、堀を埋めて城に迫った

7月29日(9月6日)

石田三成が伏見に着く

石田三成が伏見に到着する。城はなおも持ちこたえていた

8月1日(9月8日)

落城

昼ごろに城が落ちる。鳥居元忠は鈴木重朝に討たれ、内藤家長・元長父子、松平家忠、上林竹庵ら800人が討ち死にした。近くの村人たちは、小栗栖の山からこの戦いを見物していたという

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— 戦いの内容 —

概要

伏見城の戦いは、慶長5年7月18日から8月1日(1600年8月26日〜9月8日)にかけて、山城国の伏見城で起きた戦いです。関ヶ原の戦いの前哨戦にあたり、徳川家康の家臣・鳥居元忠らが守る伏見城を、石田三成らに味方する西軍が攻めました。

城を守ったのは2,300人ほど、攻めた西軍は4万といわれます。城兵は10日以上持ちこたえましたが、8月1日に城は落ち、鳥居元忠をはじめ800人が討ち死にしました。

伏見城を落とすのに時間がかかったことで、西軍の美濃・伊勢方面への動きが大きく遅れたとする説があります。元忠の最期はのちに「三河武士の鑑」と称えられ、京都の寺々には城の床板を使ったとされる「血天井」が伝わっています。

背景

伏見城は豊臣秀吉が築いた城で、秀吉は慶長3年(1598年)にこの城で亡くなりました。その後、豊臣秀頼は大坂城へ移り、五大老の筆頭である徳川家康が伏見城に入って政務をとっていました。

慶長5年(1600年)、家康は、上杉景勝が豊臣政権に背こうとしているとして、会津へ攻め入ることを決めます(会津征伐)。6月16日に大坂を発った家康はその日のうちに伏見城に入り、城を鳥居元忠に預けました。元忠に残せる兵は3千ほどにすぎず、家康が苦労をかけると言うと、元忠は、大軍に囲まれれば城に火をかけて死ぬまでのことだから、兵は一人でも多く連れて行ってほしいと答えたと伝わります。家康は18日に伏見を発ち、東へ向かいました。

家康がいなくなった上方では、反家康の動きが表に出てきます。7月17日、大坂城にいた前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行は、家康が大坂城西の丸に置いていた留守居を追い出し、家康の非を13か条にわたって並べた弾劾状を出しました。伏見城ではそれより前の7月15日から、元忠らが籠城に入っていました。

城に籠もったのは、元忠のほか、松平家忠・松平近正・内藤家長・篠山資家・佐野綱正・山岡景光らです。木下勝俊も守りを任されていましたが、城を去っています。兵は城兵1,800人に、大坂城西の丸から移ってきた500人を加えた2,300人でした。元忠ははじめから討ち死にする覚悟で、三成が送ってきた降伏を勧める使者を斬り、亡骸を送り返しています。

戦いの経過

西軍の攻撃は7月18日に始まり、19日から本格的な戦いになりました。はじめのうちは城兵の方から打って出て、前田玄以や長束正家らの屋敷に火を放っています。その後は西軍が昼夜を問わず大小の鉄砲を撃ちかけ、22日には宇喜多秀家の軍が、23日には小早川秀秋の軍も攻め手に加わりました。宇喜多秀家はこの戦いで西軍の総大将を務め、攻め手は合わせて4万にのぼったといわれます。

西軍は城の近くに土を盛って小山を築き、そこに大筒や石火矢を据えて撃ち込み、堀を埋めて城に迫りました。それでも守りの固い伏見城はなかなか落ちません。7月29日には石田三成も伏見に着いています。攻め手には毛利勝永(吉政)の隊も加わっていましたが、この攻撃で毛利九左衛門・毛利勘左衛門ら多くの家臣を失いました。

援軍のない城は、8月1日の昼ごろついに落ちました。元忠は西軍の鉄砲頭・鈴木重朝(孫三郎)に討たれ、内藤家長・元長の父子、松平家忠、上林竹庵らをはじめ800人が討ち死にしています。城の建物の大半も焼け落ちました。近くの村の人々は、小栗栖の山からこの戦いを見物していたといいます。

なお、島津義弘と小早川秀秋は、もとは家康に味方して伏見城に入ろうとしたものの、城側に断られたため、仕方なく西軍に加わったとする説があります。島津家の記録では、義弘は家康から援軍を頼まれて1,000の兵で駆けつけたのに、元忠がそのような話は聞いていないと入城を拒んだとされます。ただ、この話の出典は「島津家譜」や「寛政重修諸家譜」といった江戸時代にまとめられた記録で、事実だったという確証はありません。

結果と影響

伏見城を落とした西軍は、宇喜多秀家が伊勢の長島城へ向かうなど、美濃・伊勢方面へ軍を進めました。しかし伏見城に10日以上を費やしたことで、その後の西軍の動きが大きく遅れたとする説があります。9月15日には、東西両軍が関ヶ原で戦うことになります。

西軍の諸将は伏見城の勝利を真田昌幸に伝え、その書状では「即座に乗り崩し」と、たちまち攻め落としたように書いています。実際には半月ほどかかっており、勝った側がよく使う決まり文句だったとみられています。

討ち死にした元忠の鎧「紺糸素懸縅二枚胴具足」は鈴木重朝の手に渡りました。重朝は元忠の子・忠政に返そうとしましたが、忠政は深く心を打たれながらも、そのまま重朝に譲っています。鎧は鈴木家に代々伝わり、2004年に大阪城天守閣へ寄贈されました(兜は幕末に作り直されたものです)。

京都市の養源院や正伝寺などには、伏見城で亡くなった徳川方の血に染まった床板を、供養のため天井板にしたという「血天井」が伝わっています。ただし、その建物が焼け残ったことや床板を移したことを裏付ける記録はなく、どこまで本当かははっきりしていません。伏見城そのものは、戦いの後に家康によって建て直されました。

信長の野望・新生 公式ガイドブック
書籍

信長の野望・新生 公式ガイドブック

ファミ通書籍編集部

KADOKAWA

— 問答 —
問
伏見城の戦いは関ヶ原の戦いとどう関係しますか?
答
伏見城の戦いは、9月15日の関ヶ原の戦いに先立つ前哨戦です。家康が会津へ向かった留守に、石田三成ら西軍は家康の家臣・鳥居元忠が守る伏見城を攻めました。城は8月1日に落ちましたが、攻め落とすのに10日以上かかったため、その後の西軍の美濃・伊勢方面への進出が大きく遅れたとする説があります。
問
島津義弘や小早川秀秋は、はじめ徳川方につくつもりだったのですか?
答
島津義弘と小早川秀秋は、もとは家康に味方するつもりで伏見城に入ろうとしたものの、城側に断られたため、やむなく西軍に加わって城を攻めたとする説があります。島津家の記録では、義弘は家康から援軍を頼まれて千の兵で駆けつけたものの、元忠はそのような話は聞いていないとして入城を拒んだとされます。ただ、この話の出典はどちらも江戸時代にできた記録で、事実だったかどうかは確かめられていません。
問
伏見城の「血天井」は本当に伏見城の床板なのですか?
答
京都市の養源院・正伝寺などには、伏見城で討ち死にした徳川方の血に染まった床板を、供養のために天井板として使ったという言い伝えがあり、「血天井」として今も見ることができます。ただし、徳川方の将兵が亡くなった建物が焼け残ったことや、床板を移したことを裏付ける記録はなく、言い伝えがどこまで本当かははっきりしていません。
— 関連文献・史料 —
寛政重修諸家譜二次史料
島津家譜二次史料
島津家代々軍記二次史料

最終更新日: 2026年10月04日