— 戦いの内容 —
概要
中富川の戦いは、天正10年(1582年)8月に阿波国で行われた長宗我部元親と十河存保の決戦である。本能寺の変により織田信長の四国攻撃が頓挫した好機を捉えた元親が、約2万の兵を動員して阿波に侵攻し、勝瑞城を本陣とする十河軍5,000余を破った。
攻防戦は約20日間に及び、大洪水による中断を経て最終的に存保が降伏。勝瑞城を明け渡して讃岐の虎丸城に退去した。この戦いにより阿波の大半が長宗我部氏の支配下に入り、元親の四国制覇が大きく前進した。
背景
天正10年(1582年)5月、信長は三男・信孝を大将に据えて四国へ攻め込む軍を組み、先鋒の三好康長が阿波に攻め入って一宮城・夷山城を奪取した。元親は阿波からの撤兵を余儀なくされ窮地に立たされていた。
しかし6月2日の本能寺の変で信長が横死すると、四国攻撃軍は四散し、三好康長も阿波を捨てて退却。後ろ盾を失った十河存保は孤立し、長宗我部氏にとって阿波攻略の好機が訪れた。
元親は岡豊城内で軍議を催し、家老城持衆と一領具足衆のそれぞれから意見を聴取した。家老衆は「山に依った陣取りで毎年敵の作物を刈り、じわじわと切り崩すべき」と慎重論を唱えたが、一領具足衆は「三好康長が羽柴秀吉の加勢を得て戻る前に、速やかに十河存保を討つべし」と速戦を主張。元親は一領具足の意見を採用し、15歳以上60歳以下の者を広く募って出兵を決めた。
戦いの経過
8月26日、長宗我部軍は牛岐城を出発し夷山城・一宮城を経て勝瑞城に向けて北進した。十河存保はそれより前に一宮・夷山の二城を捨て、兵をすべて勝瑞城へ集めていた。
8月27日、井戸村付近で全軍を集結させた元親は軍勢を三隊に分け、先陣の香宗我部親泰が3,000の兵を率いて中富川南岸に着陣。迎え撃つ十河軍は勝興寺城(矢上城)を最前線に置き、大手の周りに2,000、後方に3,000の兵を並べて守りの陣地を固めた。
8月28日正午頃、元親は軍師・等覚に意見を求めた後に全軍に出撃命令を下した。親泰隊が中富川の渡河を開始すると、長宗我部信親・長宗我部親吉率いる主力1万4,000が南東から、元親と和議を結んでいた一宮城主・小笠原成助や桑野康明ら6,000が黒田ノ原から、計2万3,000が両翼から攻撃した。
当初は十河軍の反撃で一時劣勢となったが、長宗我部軍は手を止めずに攻め続け、十河勢を勝瑞城まで押し戻して城を取り囲んだ。このとき長宗我部方には雑賀衆の援兵も合流している。
9月5日から5日間にわたり大雨が降り続き、吉野川と中富川が氾濫して板野平野一帯が洪水で湖化した。長宗我部軍は民家の屋根や木の上に避難するしかなく、これを見た十河軍は小舟で攻撃して長柄の槍で次々に串刺しにした。
水が引いた後、元親は本陣を光勝院に移して攻勢を再開。勝瑞城の内外で白兵戦が展開され、両軍入り乱れた乱戦となった。存保は玉砕覚悟で敵本陣への突撃を企てたが、側近の東村備後守の諫言を容れて勝瑞城に引き揚げた。
結果と影響
9月21日、十河存保は降伏の誓詞を元親に提出し、勝瑞城を明け渡して讃岐の虎丸城に退去した。この戦いで両軍の戦死者は合計1,503名に上り、重軽傷者はこれをはるかに上回ったとされる。十河軍に属していた阿波・讃岐の著名な城主のほとんどがこの戦いで戦死した。
合戦のあと、阿波の城の多くは長宗我部氏に従った。ただし元親は、降った一宮城主・小笠原成助と富岡城主・新開道善を、謀反をたくらんだとして殺している。翌天正11年(1583年)4月、木津城の篠原自遁も香宗我部親泰に攻められて淡路へ逃れ、阿波で長宗我部氏に逆らい続けるのは土佐泊城の森村春ただ一人となった。
この阿波制圧は元親の四国制覇を大きく前進させ、以後は讃岐・伊予への攻略に注力していくことになる。一方で秀吉は存保を救うべく仙石秀久らを淡路から派遣しており、信長の方針を受け継いだ秀吉と元親の対立が本格化する契機ともなった。

