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お知らせ武将合戦2026年09月20日

佐々成政と末森城の戦いのページを公開しました

織田信長の黒母衣衆筆頭から越中一国の主となった佐々成政の武将ページと、小牧・長久手の戦いのさなかに成政が前田利家の末森城を包囲した末森城の戦いの合戦ページを公開しました。

佐々成政の武将ページと、末森城の戦いの合戦ページを公開しました。成政はかつて前田利家と共に「府中三人衆」として柴田勝家の北陸方面軍を支えましたが、天正12年(1584年)の末森城の戦いでは、その利家と刃を交えることになります。

佐々成政

尾張国春日井郡比良城の土豪・佐々成宗の三男に生まれ、兄が相次いで戦死したため家督を継いだ武将です。織田信長のもとで黒母衣衆の筆頭となり、長篠の戦いでは前田利家らと鉄砲隊を指揮しました。越前平定後は利家・不破光治と共に「府中三人衆」と呼ばれ、天正10年(1582年)には越中一国を任されて富山城を居城としています。常願寺川沿いに「佐々堤」を築いた治水でも知られます。

本能寺の変後は柴田勝家方につき、賤ヶ岳の戦いの後に剃髪して羽柴秀吉に降伏しました。しかし小牧・長久手の戦いでは徳川家康・織田信雄方に転じて末森城で敗れ、厳冬の北アルプスを越えて家康に再挙を促したとされる「さらさら越え」も実らず、富山の役で降伏します。その後、九州征伐の功で肥後一国を与えられましたが、肥後国人一揆を自力で鎮められず、天正16年(1588年)に切腹を命じられました。

ページでは、誕生から切腹までの28項目の年表、慈光院をはじめとする妻や子女・養子をまとめた家系図、「さらさら越え」・切腹の理由・黒百合伝説を取り上げたFAQを収めました。肥後の検地をめぐる評価の諸説も紹介しています。

末森城の戦い

天正12年9月9日(1584年10月12日)、能登国の末森城で行われた攻城戦です。小牧・長久手の戦いのさなか、越中の佐々成政は秀吉方から織田・徳川方に転じ、秀吉方の前田利家の領国である加賀と能登の分断をはかって、総勢15,000人で末森城を包囲しました。城将の奥村永福・千秋範昌らの籠城軍は城代の土肥次茂を失い、城は落城寸前にまで追い込まれます。しかし金沢城から兵2,500人を率いて急行した利家が、農民・桜井三郎左衛門の案内で海岸路を進み、佐々軍の背後を突いてこれを破りました。

敗れた成政は越中に退却して守勢に転じ、利家は領国の防衛に成功しました。翌年、秀吉自ら大軍を率いた富山の役で成政は降伏することになります。

ページの内容は、成政が徳川方に転じた経緯から富山の役までを9項目で追ったタイムライン、前田軍8名・佐々軍3名の参加武将と兵力・損害、FAQ3問です。あわせて関連書籍を2冊追加しました。

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