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お知らせ武将合戦2026年08月30日

藤堂高虎と根白坂の戦いのページを公開しました

築城三名人の一人に数えられ、伊勢津藩の初代藩主となった藤堂高虎の武将ページと、秀吉の九州平定を決定づけた根白坂の戦いの合戦ページを公開しました。

藤堂高虎の武将ページと、根白坂の戦いの合戦ページを公開しました。

藤堂高虎

近江国犬上郡藤堂村の土豪の家に生まれ、浅井長政・阿閉貞征・磯野員昌・織田信澄と主家を替えたのち、21歳で羽柴秀長に300石で仕えて頭角を現しました。黒田孝高(官兵衛)・加藤清正と並ぶ「築城三名人」の一人に数えられ、高石垣の技術や石垣上に多聞櫓を巡らせる築城を得意とし、今治城では規格化された部材を組み上げる層塔型天守を創始しています。この様式は江戸城をはじめとする城郭普請に採用され、近世の天守建築の主流となりました。

秀吉の没後は徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍として大谷吉継隊と戦うとともに、脇坂安治ら近江以来の人脈に内応を働きかけています。戦後は今治20万石、慶長13年(1608年)には伊賀・伊勢へ移って津藩主となり、最終的に32万3000石を領しました。

ページでは、誕生から死去までの30項目の年表、正室・継室と実子5名・養子5名を収めた家系図、姉川の戦いから大坂夏の陣まで8つの合戦での役割をまとめています。あわせて、聚楽第の徳川家康屋敷を独断で設計変更した逸話、7回主君を替えた「渡り奉公人」という生き方をめぐる評価、和子入内の露払いを志願した晩年の働きも紹介しました。

根白坂の戦い

天正15年4月17日(1587年5月24日)、日向国根白坂で豊臣秀長の軍と島津義久の軍が激突した戦いです。秀長は日向南部の要衝・高城を包囲して兵糧攻めにするとともに、島津軍が救援に来るなら必ず通る根白坂に砦を築いて要塞化しました。夜襲を受けた砦を守将・宮部継潤が空堀と板塀で守り抜くうちに、藤堂高虎と戸川達安の手勢が救援に入り、さらに小早川隆景・黒田官兵衛の勢が挟撃を仕掛けて島津軍を破ります。

この敗北で島津方は大将格のほぼ全員を失い、組織的な抵抗は終わりを迎えました。島津義久は剃髪して龍伯と号し、5月8日に秀吉へ降伏します。

ページでは、九州征伐の動員令から義久の降伏までを10項目の時系列で追い、両軍の参加武将と兵力、そして軍監・尾藤知宣が救援と追撃をいずれも止めて後に追放された経緯をまとめています。

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