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お知らせ武将合戦2026年08月23日

丹羽長秀と山崎の戦いのページを公開しました

織田信長の宿老・丹羽長秀の武将ページと、羽柴秀吉が明智光秀を破った山崎の戦いの合戦ページを公開しました。

丹羽長秀の武将ページと、山崎の戦いの合戦ページを公開しました。

丹羽長秀

織田信長の宿老で、朝廷から「惟住」の姓を賜ったことから惟住長秀ともいいます。美濃攻めや上洛戦での戦功に加え、禁裏への使者、近江国の指出検地、蘭奢待截香の奉行、安土城の普請奉行など、軍事と行政の双方で信長の命を果たしました。天正元年(1573年)には若狭一国を与えられ、織田家臣で最初の国持大名となります。

本能寺の変の後は織田信孝とともに羽柴秀吉の軍に合流して山崎の戦いを戦い、清洲会議には織田家宿老の一人として参加しました。以後は秀吉方として動き、賤ヶ岳の戦いを経て越前国と加賀2郡、約60万石を領しています。

ページでは、「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」という織田家中の風評に見える「米五郎左」の意味、庶出の三男・千丸(のちの藤堂高吉)を羽柴秀長の養子に出した経緯、積寸白(寄生虫病)による最期をめぐる伝承などをまとめています。

山崎の戦い

天正10年(1582年)6月13日、本能寺の変からわずか11日後に、中国大返しで引き返した羽柴秀吉の軍と明智光秀の軍が摂津・山城の境で激突した戦いです。光秀は敗れて勝龍寺城を脱出し、小栗栖で落命しました。秀吉はこの弔い合戦に勝利したことで、清洲会議を経て信長の後継者としての地位を固めます。

ページでは、両軍の布陣と合戦当日の推移を時系列で追うとともに、2024年に発見された合戦当日付の秀吉書状から「秀吉は合戦に遅参し、池田恒興が中心となって帰趨を決した」とする近年の説も紹介しています。あわせて、「天王山」「洞ヶ峠」「三日天下」という三つの成句が史実とどう食い違うのかも整理しました。

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