豊臣秀長と四国攻めのページを公開しました
大河『豊臣兄弟!』の主役・豊臣秀長の武将ページと、秀長が総大将として長宗我部元親を降した四国攻めの合戦ページを公開しました。
豊臣秀長の武将ページと、四国攻めの合戦ページを公開しました。兄・秀吉を最も近くで支え、豊臣政権の調整役を担った「大和大納言」の生涯と、秀長が10万を超える大軍の総大将を託された四国渡海を、それぞれ独立したページで詳しく解説します。
豊臣秀長
豊臣秀長は、豊臣秀吉の弟で、当初は木下小一郎長秀を名乗り、兄と共に織田信長に仕えた武将です。中国攻めでは山陰道および但馬国平定を任され、山崎の戦い・賤ヶ岳の戦い・小牧長久手の戦い・紀州征伐・四国攻め・九州征伐の主要戦役に従軍し、秀吉の代理・補佐として戦功を挙げました。天正15年(1587年)に従二位権大納言に叙任され、居城の大和郡山城にちなみ「大和大納言」と尊称されます。秀吉は宗麟に「公儀の事は宰相(秀長)存じ候」と述べたと伝わり、外様大名の多い豊臣政権で秀長が調整役を担っていたことがうかがえます。天正19年(1591年)に病死。享年52。
四国攻め
四国攻めは、天正13年(1585年)6月から8月にかけて、羽柴秀吉と長宗我部元親との間で行われた戦争です。秀吉は病で自ら出陣できず、弟の秀長を10万を超える大軍の総大将に任命しました。羽柴軍は阿波(秀長・秀次軍)・讃岐(宇喜多軍)・伊予(毛利軍)の三方向から四国に侵攻。阿波では秀長が自ら一宮城攻めを指揮し、坑道を掘って水の手を断つ奇策で開城させます。8月6日、白地城の元親は蜂須賀正勝の仲介で講和を受諾し、土佐一国安堵で降伏しました。戦後の「四国国分」により、阿波は蜂須賀家政、讃岐は仙石秀久、伊予は小早川隆景らに与えられ、四国は豊臣体制に組み込まれます。この戦役は秀長にとって豊臣政権のナンバー2としての地位を確立する契機となり、以後「大和大納言」として政権の調整役を務めていくことになります。