戦国大名・天下人・関白
豊臣秀吉
とよとみ ひでよし
別名: 木下藤吉郎、木下秀吉、羽柴秀吉
農民から天下人へ。日本史上最も劇的な立身出世を遂げた人物
誕生
1537年03月17日(天文6年)
尾張国中村
出典: 『太閤素生記』
諸説
死没
1598年09月18日(慶長3年)
伏見城
病死
支配領域
尾張、近畿、全国
家族
両親
父
木下弥右衛門(異説あり)
母
なか(大政所)
正室・側室
正室
寧々(北政所)
高台院
杉原定利の娘
側室
南殿
素性不明
側室
淀殿(茶々)
浅井長政の娘
側室
南の局
山名豊国の娘
側室
松の丸殿(竜子)
京極高吉の娘
側室
加賀殿(摩阿)
前田利家の娘
側室
甲斐姫
成田氏長の娘
側室
三の丸殿
織田信長の娘
側室
三条殿(とら)
蒲生賢秀の娘
側室
姫路殿
織田信包の娘
側室
広沢局
名護屋経勝の娘
側室
月桂院(嶋子)
足利頼純の娘
側室
香の前(種)
高田氏の娘
側室
円融院(おふく)
三浦能登守の娘
子
長男
羽柴秀勝
母: 南殿
石松丸・早世
次男
豊臣鶴松
母: 淀殿
早世
三男
豊臣秀頼
母: 淀殿
瑞竜院日秀の長男
(養子・養女)
秀次
徳川家康の次男
(養子・養女)
秀康
結城秀康
瑞龍院日秀の次男
(養子・養女)
秀勝
池田恒興の次男
(養子・養女)
輝政
池田輝政
池田恒興の三男
(養子・養女)
長吉
池田長吉
前田利家の四女
(養子・養女)
豪姫
宇喜多秀家の正室
前田利家の六女
(養子・養女)
菊姫
浅井長政の三女
(養子・養女)
江
徳川秀忠の継室
織田信雄の長女
(養子・養女)
小姫
徳川秀忠の正室
女
母: 南殿
名前不詳
高台院の甥
(養子・養女)
秀俊
小早川秀秋
大谷吉継の娘
(養子・養女)
竹林院
真田信繁の正室
蜂須賀正勝の娘
(養子・養女)
糸姫
黒田長政の正室
年表
尾張国中村で足軽または農民の子として誕生
織田信長に仕え、草履取りとして働く
足軽大将となり、寧々(ねね)と結婚
美濃攻略のため墨俣に城を築く(伝承)
浅井の裏切りで撤退する信長軍の殿を務める
浅井長政の小谷城攻略に参加
中国地方の毛利氏攻略を命じられる
備中高松城攻め中に変報を受ける
毛利と講和し、驚異的な速さで京都へ引き返す
明智光秀を撃破し、信長の仇を討つ
柴田勝家を破り、織田家中での地位を確立
徳川家康と対峙。局地戦で敗れるも政治的に勝利
朝廷より関白に任命される
太政大臣となり、天皇より豊臣の姓を賜る
島津氏を降伏させ、九州を平定
北条氏を滅ぼし、天下統一を達成
朝鮮出兵(第一次)を開始
朝鮮出兵(第二次)を開始
伏見城にて死去。享年62
※ 年齢は数え年で表記しています。数え年は生まれた年を1歳とし、元日を迎えるごとに加算する日本の伝統的な年齢の数え方です。
概要
豊臣秀吉は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・天下人。農民(または足軽)の子から身を起こし、織田信長に仕えて頭角を現した。信長の死後、その後継者としての地位を確立し、天下統一を成し遂げた。日本史上、最も劇的な立身出世を遂げた人物として知られる。
生涯
出自と立身
天文6年(1537年)頃、尾張国中村で誕生。出自については諸説あり、農民の子とも足軽の子ともされる。若くして織田信長に仕え、草履取りから身を起こした。
信長の家臣として
知略と実行力で次第に頭角を現し、墨俣一夜城の逸話や金ヶ崎の退き口での活躍など、数々の功績を挙げた。天正5年(1577年)、中国地方の毛利氏攻略を命じられ、播磨・但馬・因幡を次々と制圧した。
天下人への道
天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が死去。秀吉は「中国大返し」と呼ばれる驚異的な速さで京都に引き返し、山崎の戦いで明智光秀を撃破した。これにより信長の後継者としての地位を確立。
翌年の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、天正13年(1585年)には関白に就任した。
天下統一
天正15年(1587年)の九州平定、天正18年(1590年)の小田原攻めにより、天下統一を達成した。
朝鮮出兵と晩年
文禄元年(1592年)と慶長2年(1597年)の二度にわたり朝鮮出兵を行ったが、成果を得られないまま、慶長3年(1598年)に伏見城で死去した。
評価
秀吉は、身分制度が固定化していた時代に、最下層から天下人にまで上り詰めた稀有な人物である。太閤検地や刀狩りなど、後の江戸時代の社会体制の基礎となる政策を実施した。一方、朝鮮出兵は国力を消耗させ、豊臣政権衰退の一因となった。「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」の句は、その積極的な性格を表すものとして知られる。
最終更新日: 2026年02月07日




