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天正6年11月12日

耳川の戦い

みみかわ の たたかい1578年11月12日
— 場所 —
日向国高城川原(現在の宮崎県児湯郡木城町)
— 結果 —
島津軍の大勝。大友軍は多数の武将・兵力を失い豊後へ撤退
— 歴史的意義 —
大友氏の衰退と島津氏の九州制覇への転機となった戦国九州最大規模の合戦
図説 中世島津氏 九州を席捲した名族のクロニクル
書籍

図説 中世島津氏 九州を席捲した名族のクロニクル

新名一仁

戎光祥出版

— 戦場の位置 —

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信長の野望・新生 with パワーアップキット Complete Edition
ゲーム

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コーエーテクモゲームス

PS5

— 両軍 —
— 島津軍 —
指揮官
島津義久総大将。根白坂に布陣し全軍を指揮
兵力
約40,000人(薩摩・大隅の動員3万+日向の兵を合流)
損害
北郷時久・北郷久盛ら前衛部隊に戦死者
参加武将
島津義弘主力部隊を率い小丸川南岸に布陣
島津征久(歳久)伏兵部隊を指揮
島津家久高城に入城し籠城・出撃
山田有信高城城主として籠城
伊集院忠棟主力部隊として参戦
上井覚兼主力部隊として参戦
島津忠長主力部隊として参戦
— 大友軍 —
指揮官
大友宗麟総帥。無鹿に本営を置き前線には出ず
田原親賢前線の大将。講和派
兵力
約30,000-40,000人(『延陵世鑑』では3万余、フロイス『日本史』では4万)
損害
田北鎮周・佐伯宗天・蒲池鑑盛ほか多数の武将・兵士が戦死・溺死
参加武将
田北鎮周主戦派。独断で島津軍に攻撃を開始し戦死
佐伯宗天(惟教)撤退中に竹鳩ヶ淵で溺死
角隈石宗軍師。交戦に反対するも聞き入れられず
蒲池鑑盛筑後国人。戦死
信長の野望・新生 公式ガイドブック
書籍

信長の野望・新生 公式ガイドブック

ファミ通書籍編集部

KADOKAWA

— 戦いの経過 —
天正6年10月20日

大友軍、高城を包囲

耳川以北に布陣していた大友軍が南下を再開し、島津家久・山田有信の守る高城を包囲。鉄砲と大筒「国崩し」で3度にわたり攻撃するが城は落ちず

天正6年10月24日

島津義久出陣

島津義久が薩摩・大隅の軍勢3万を率いて鹿児島を出陣。佐土原城に入り日向の兵と合流して約4万の大軍となる

天正6年11月9日

島津軍の前哨戦

島津義弘・征久・伊集院忠棟らが財部城で軍議。陽動部隊300名が松原の大友軍を攻撃し荷駄を破壊。伏兵が大友軍を攻撃し松原の陣に火を放つ。島津主力も渡河し高城川南岸に布陣

天正6年11月11日

大友軍内の対立

前哨戦の損害を受けて大友方は講和を申し出るが、田北鎮周が主戦論を主張。田原親賢は講和を進めるも、田北と佐伯宗天が独断で島津軍に攻撃を仕掛け、大友軍はやむなく交戦に

天正6年11月12日 朝

本戦開始

田北・佐伯の軍勢が島津軍前衛を攻撃し壊滅させる。北郷時久・久盛らが討死。大友軍は小丸川を渡り島津義久本隊を攻撃

天正6年11月12日 昼

島津軍の反撃・伏兵展開

島津義弘・歳久・伊集院忠棟が大友軍を迎撃。征久が伏兵を展開し、高城の家久・根白坂の義久も攻撃に参加。大友軍は包囲され総崩れに

天正6年11月12日 午後

大友軍壊滅・耳川での悲劇

大友軍は耳川方面へ撤退を開始。佐伯宗天らは竹鳩ヶ淵で溺死。耳川を渡りきれず溺死する者や島津兵に討たれる者が続出

天正6年11月12日 夜

大友宗麟撤退

戦況を受けて大友宗麟は無鹿の本陣から豊後へ撤退。耳川の合戦は島津軍の大勝に終わる

— 戦いの内容 —

概要

耳川の戦いは、天正6年(1578年)11月に日向国高城川原(現在の宮崎県木城町)で行われた島津氏と大友氏の大規模な合戦である。「高城川の戦い」「高城川原の戦い」とも呼ばれ、通称の「耳川」は大友軍が撤退時に溺死した川の名に由来する。

大友宗麟が3万〜4万の大軍で日向に侵攻したのに対し、島津義久は約4万の軍を動員して迎撃した。大友軍内部の指揮系統の混乱と島津軍の巧みな伏兵戦術により、大友軍は壊滅的な敗北を喫した。

背景

大友氏と島津氏の関係

豊後の大友氏と薩摩の島津氏との関係は長い間良好であり、お互いの勢力圏に干渉しない事実上の同盟関係にあった。島津氏にとっては領内安定のため、大友氏にとっては海上交易の安全のため、双方にとって重要な関係であった。

大友軍の日向侵攻

天正5年(1577年)、日向の伊東義祐が島津氏に敗北して大友氏のもとに身を寄せた。天正6年(1578年)に入ると、大友宗麟は伊東氏を日向に復帰させるため3万〜4万の大軍で日向への遠征を決定。大友軍は肥後口と豊後口の二手に分かれて進軍した。

大友軍は耳川以北の日向制圧に成功したが、この過程で領内の神社仏閣を徹底的に破壊した。その背景にはキリシタンであった宗麟の意向があり、一説では日向にキリシタン王国の建設を目指したという。宗麟のキリスト教への傾倒は家臣団との間に不和を生じさせた。

足利義昭の御内書

9月には室町幕府将軍・足利義昭が島津氏に大友領を奪い大友氏の毛利領侵攻を止めさせるよう命じる御内書を発した。島津義久はこれを大義名分として北上を決定し、軍備を整えた。

戦いの経過

高城包囲

10月20日、大友軍が高城を包囲した。島津家久と城主・山田有信は数千丁の鉄砲と大筒「国崩し」による3度の攻撃に耐えて城を守り抜いた。

10月24日、島津義久は薩摩・大隅の軍勢3万を率いて鹿児島を出陣。佐土原城で日向の兵と合流し約4万の大軍となった。

前哨戦と大友軍の内部分裂

11月9日、島津義弘・征久・伊集院忠棟らは財部城で軍議を開いた。陽動部隊300名が松原の大友軍を攻撃して荷駄を破壊し、伏兵が追撃してきた大友軍を攻撃、松原の陣に火を放った。島津主力も渡河して高城川南岸に布陣した。

前哨戦の損害を受けて大友方は田原親賢ら16人の使者を島津の陣へ派遣し講和を申し出た。しかし大友軍内は講和派と主戦派に割れ、田北鎮周が交戦を主張。軍師・角隈石宗も「戦うべきでない」と進言したが聞き入れられなかった。田北鎮周と佐伯宗天が独断で島津軍に攻撃を仕掛けたため、大友軍はやむなく交戦に追い込まれた。

本戦

11月12日朝、田北・佐伯の軍勢が小丸川北岸の島津軍前衛を攻撃し壊滅させた。北郷時久・久盛らが討死した。大友軍本隊も小丸川を渡って島津義久本隊を攻撃した。

島津義弘・歳久・伊集院忠棟が大友軍を迎え撃ち、伏兵部隊を指揮する島津征久が馬標を立てた。伏兵が大友軍を攻撃し、高城の島津家久、根白坂の島津義久も攻撃に加わった。包囲された大友軍は総崩れとなった。

大友軍の壊滅

大友軍は耳川方面へ撤退を開始したが、佐伯宗天らは竹鳩ヶ淵で溺死した。耳川を渡りきれず溺死する者や島津兵に討たれる者が続出した。同日夜、大友宗麟は無鹿の本陣から豊後へ撤退した。

結果と影響

大友氏はこの戦いで佐伯宗天・田北鎮周・蒲池鑑盛をはじめとする多数の有力武将と兵力を失った。足利義昭の御内書を受けた国人衆の離反も相次ぎ、秋月種実や龍造寺隆信の反抗を招いて急速に衰退した。

一方の島津氏は、九州内で拮抗する敵が減少し勢力を拡大した。肥後国の相良氏が降伏、阿蘇氏も侵略を受けて投降し、龍造寺氏も後の沖田畷の戦いで敗れた。島津氏は大友氏の本拠・豊後にまで迫るが、最終的には大友宗麟の要請を受けた豊臣秀吉の九州征伐により敗北・降伏することになる。

— 問答 —
耳川の戦いの主戦場は耳川ですか?
主戦場は耳川ではなく、高城川(小丸川)・切原川一帯の高城川原です。耳川は敗北した大友軍が撤退・溺死した地点にある川で、主戦場とは20km以上離れた北方に位置します。そのため「高城川の戦い」「高城川原の戦い」とも呼ばれます。
大友軍はなぜ敗北したのですか?
大友軍内の不統一が最大の原因です。前線の大将・田原親賢は島津との講和を進めていましたが、主戦派の田北鎮周と佐伯宗天が独断で攻撃を開始し、大友軍はやむなく交戦に追い込まれました。また、総帥の大友宗麟が前線に出ずキリスト教布教に傾倒していたことも、家臣団の不和を深めました。
耳川の戦いの歴史的影響は何ですか?
大友氏は多くの有力武将と兵力を失い急速に衰退しました。秋月種実や龍造寺隆信ら国人衆の離反を招き、領国を大きく削がれることになります。一方の島津氏は九州内に拮抗する敵が減少し、相良氏・阿蘇氏が降伏、龍造寺氏も沖田畷の戦いで敗れ、九州制覇に向けて大きく前進しました。
— 参考史料 —
川上久辰耳川日記一次史料
延陵世鑑一次史料
薩藩旧記雑録一次史料
日本史ルイス・フロイス一次史料

最終更新日: 2026年04月12日