永禄4年9月10日

第四次川中島の戦い

だいよじかわなかじまのたたかい

1561年10月18日

場所

川中島・八幡原(現在の長野県長野市)

結果

引き分け(両軍に甚大な被害)

歴史的意義

日本戦史上屈指の激戦。上杉謙信武田信玄の宿命の対決として後世に語り継がれる

戦国の陣形
書籍

戦国の陣形

乃至政彦

講談社(講談社現代新書)

戦場の位置

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信長の野望・新生 with パワーアップキット Complete Edition
ゲーム

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上杉軍

指揮官

兵力

13,000人(別に善光寺に5,000人)

損害

約3,000人(荒川伊豆守ら戦死)

参加武将

柿崎景家先鋒
直江景綱小荷駄護衛
甘粕景持殿軍
荒川伊豆守侍大将(戦死)

武田軍

指揮官

武田信玄総大将

兵力

20,000人

損害

約4,000人(武田信繁・山本勘助・諸角虎定ら戦死)

参加武将

武田信繁副将(戦死)
山本勘助軍師(戦死)
山県昌景侍大将
馬場信春侍大将
高坂昌信別働隊大将
馬場信房別働隊大将
信長の野望・新生 公式ガイドブック
書籍

信長の野望・新生 公式ガイドブック

ファミ通書籍編集部

KADOKAWA

戦いの経過

9月9日夜

武田軍、啄木鳥の戦法を発動

武田信玄は高坂昌信・馬場信房率いる別働隊12,000を妻女山の上杉軍背後に回し、本隊8,000は八幡原に鶴翼の陣を敷いて挟撃する「啄木鳥の戦法」を発動した

9月10日未明

上杉軍、妻女山を密かに下山

上杉政虎(謙信)は武田軍の動きを察知し、夜のうちに全軍を率いて妻女山を下り、千曲川を渡って八幡原に向かった

早朝

濃霧の中で両軍遭遇

早朝の濃霧が晴れると、八幡原で待ち受ける武田本隊の眼前に上杉軍の全軍が出現。武田軍は別働隊との合流前に上杉の主力と正面から対峙することとなった

午前

上杉軍の猛攻、車懸かりの陣

上杉軍は「車懸かりの陣」と呼ばれる戦法で次々と新手を繰り出し、武田本隊に襲いかかった。兵力で劣る武田本隊は甚大な被害を受け、武田信繁・山本勘助・諸角虎定らが討死した

午前中頃

謙信、信玄に一太刀

謙信自ら馬を駆って武田本陣に突入し、信玄に三太刀を浴びせたと伝わる。信玄は軍配で受け止めたとされ、この場面は「川中島の一騎打ち」として名高い

昼前(午前11時頃)

武田別働隊が到着、形勢逆転

高坂昌信・馬場信房率いる別働隊がようやく八幡原に到着し、上杉軍の側面を突いた。挟撃を受けた上杉軍は苦戦を強いられ、形勢は一転した

夕刻

上杉軍撤退、両軍疲弊

上杉軍は善光寺方面へ撤退し、越後へ引き上げた。武田軍も甚大な損害により追撃できず、両軍ともに多大な犠牲を出して合戦は終結した

概要

第四次川中島の戦いは、永禄4年9月10日(1561年10月18日)に信濃国川中島の八幡原で行われた合戦。上杉政虎(後の謙信)と武田信玄が5度にわたる川中島の対峙の中で唯一、大規模な野戦を展開した決戦であり、日本戦史上屈指の激戦として知られる。

背景

川中島をめぐる争い

川中島は千曲川と犀川が合流する信濃国の要衝で、北信濃の支配権を象徴する地域であった。天文22年(1553年)以来、上杉・武田両軍は川中島で4度にわたり対峙してきたが、いずれも小競り合いやにらみ合いに終始し、決定的な戦闘は起きていなかった。

関東管領就任後の謙信

永禄4年(1561年)閏3月、上杉政虎は鎌倉鶴岡八幡宮にて関東管領に就任し、小田原城包囲などで北条氏と戦った。関東遠征から帰国した政虎は、同年8月、1万8,000の兵を率いて川中島に出陣した。北信濃の支配権をめぐる争いに決着をつける意図があったとされる。

武田信玄の迎撃準備

上杉軍の出陣を受け、武田信玄も2万の兵を率いて出陣。茶臼山に布陣した後、海津城(現在の松代城)に入った。上杉軍は千曲川対岸の妻女山に布陣し、両軍は約20日間にらみ合いを続けた。

戦いの経過

啄木鳥の戦法

9月9日夜、武田軍は山本勘助と馬場信房が立案したとされる「啄木鳥の戦法」を採用した。高坂昌信・馬場信房率いる別働隊1万2,000が妻女山の上杉軍を背後から攻撃し、驚いて山を下った上杉軍を、八幡原に待ち構えた武田本隊8,000が迎え撃つという挟撃作戦であった。

謙信の洞察

しかし上杉政虎は、海津城から立ち上る炊煙がいつもより多いことに気づき、武田軍の奇策を見破ったとされる。政虎は夜のうちに全軍を率いて妻女山を密かに下山し、千曲川を渡って八幡原に向かった。

濃霧の遭遇戦

9月10日早朝、八幡原一帯には深い霧が立ち込めていた。霧が晴れた時、武田本隊の目の前には上杉軍の全軍が展開していた。別働隊との合流前に上杉の主力と正面から対峙することになった武田軍にとって、まさに想定外の事態であった。

車懸かりの陣

上杉軍は「車懸かりの陣」と呼ばれる戦法で武田本隊に猛攻を仕掛けた。車輪のように次々と新手を繰り出す戦法に、兵力で劣る武田本隊は苦戦を強いられた。この激戦の中で、武田信玄の実弟・武田信繁、軍師・山本勘助、老将・諸角虎定らが相次いで討死した。

『甲陽軍鑑』によれば、謙信は自ら馬を駆って武田本陣に突入し、信玄に三太刀を浴びせたとされる。信玄は軍配団扇でこれを受け止めたというこの場面は、「川中島の一騎打ち」として後世に広く知られている。ただし、この一騎打ちの逸話は軍記物語の脚色である可能性も指摘されている。

武田別働隊の到着

昼前(午前11時頃)、妻女山に上杉軍がいないことを知った高坂昌信・馬場信房率いる武田別働隊が八幡原に到着し、上杉軍の側面を攻撃した。挟撃を受けた上杉軍は苦戦に転じ、善光寺方面に撤退して越後へ引き上げた。

結果と影響

両軍の損害

この戦いは両軍ともに甚大な被害を出した。武田軍は約4,000、上杉軍は約3,000の死傷者を出したとされる。特に武田軍は信玄の実弟・信繁をはじめ、山本勘助、諸角虎定ら重臣を多数失い、戦略的に大きな打撃を受けた。

北信濃の帰趨

戦場からの撤退は上杉軍が先に行ったため、武田軍は八幡原に留まって勝ちどきを上げた。しかし武田軍の損害も甚大であり、実質的には引き分けであった。結果として、北信濃は武田氏の支配下に留まり、以後、両者が川中島で大規模に交戦することはなかった。

後世への影響

第四次川中島の戦いは、謙信と信玄という二大英雄の激突として戦国時代を象徴する合戦となった。特に「一騎打ち」の場面は、浮世絵や銅像などの題材として広く親しまれ、長野市の八幡原史跡公園には両雄一騎打ちの銅像が建てられている。

史料と研究

第四次川中島の戦いに関する主要な史料としては『甲陽軍鑑』『北越軍談』『上杉家御年譜』などがある。ただし、いずれも後世の編纂であり、「啄木鳥の戦法」「車懸かりの陣」「一騎打ち」といった有名なエピソードについては、軍記物語の脚色が多分に含まれている可能性が指摘されている。近年の研究では、兵力や戦闘経過について従来の通説に対する見直しが進んでいる。

よくある疑問

川中島の戦いは何回あった?

天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)にかけて5回行われました。大規模な野戦が展開されたのは第四次(永禄4年)のみで、他の回は小競り合いやにらみ合いに終始しました。

武田信玄と上杉謙信の一騎打ちは本当にあった?

『甲陽軍鑑』に記された有名な逸話ですが、軍記物語の脚色である可能性が高いとされています。ただし、上杉軍が武田本陣に肉薄した激戦であったことは史実です。

川中島の戦いはどちらが勝った?

第四次川中島の戦いは実質的には引き分けでした。上杉軍が先に撤退したため武田軍は勝ちどきを上げましたが、武田側は信玄の弟・信繁や軍師・山本勘助ら重臣を多数失い、甚大な被害を受けました。

啄木鳥の戦法とは?

別働隊が妻女山の上杉軍を背後から攻撃し、驚いて山を下った上杉軍を八幡原の武田本隊が迎え撃つ挟撃作戦です。山本勘助と馬場信房が立案したとされますが、謙信に見破られ失敗しました。

関連史料・書籍

  • -甲陽軍鑑(高坂昌信(春日虎綱))軍記物
  • -北越軍談(宇佐美定祐)軍記物
  • -上杉家御年譜(米沢藩編纂)藩撰史料
  • -川中島合戦 戦略で分析する古戦史(海上知明)研究書

最終更新日: 2026年02月22日