天文24年10月1日

厳島の戦い

いつくしま の たたかい

1555年10月16日

場所

厳島(安芸国佐西郡、現在の広島県廿日市市宮島町)

結果

毛利軍の大勝

歴史的意義

毛利元就が陶晴賢を討ち取り、大内氏の実権を握っていた陶氏を壊滅させた日本三大奇襲の一つ

歴史研究 第737号 【特集】厳島合戦 毛利氏の躍進を決定づけた戦い
書籍

歴史研究 第737号 【特集】厳島合戦 毛利氏の躍進を決定づけた戦い

戎光祥出版

戦場の位置

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安芸厳島社
書籍

安芸厳島社

松岡久人、秋山伸隆

法蔵館(法蔵館文庫)

毛利軍

指揮官

毛利元就総大将

兵力

約4,000人(陸上兵力)+ 村上水軍 約200〜300艘

損害

不明

参加武将

毛利隆元毛利本隊
吉川元春先陣(博奕尾越え)
小早川隆景第2軍大将(小早川隊)
熊谷信直宮尾城援軍・追撃戦
天野隆重吉川隊援軍
乃美宗勝小早川水軍・村上水軍との交渉役
己斐直之宮尾城守将
児玉就方軍船管理
桂元澄桜尾城主(偽装内通)
香川光景仁保城城番
坪井元政宮尾城守備
村上通康来島村上水軍
村上吉充因島村上氏当主

陶軍

指揮官

陶晴賢総大将

兵力

通説約20,000人(実数は8,000〜10,000人程度か)

損害

戦死約4,780人、捕虜約3,000人

参加武将

弘中隆兼重臣・殿軍(絵馬ヶ岳で戦死)
弘中隆助弘中隆兼の子(戦死)
三浦房清先陣・殿(戦死)
大和興武先陣(捕虜後処刑)
白井賢胤陶氏代官・水軍指揮
伊香賀房明晴賢の近侍・介錯役(自害)
柿並隆正晴賢の近侍(自害)
山崎隆方晴賢の近侍(自害)
厳島
書籍

厳島

武内涼

新潮社

戦いの経過

天文23年5月

防芸引分 — 毛利氏と大内・陶氏の決別

毛利元就が大内氏・陶氏と決別し、桜尾城など4城を攻略して厳島を占領。陶氏との全面対決に備え、広島湾周辺の諸城と水軍の守りを固めた

天文23年6月

折敷畑の戦い

陶晴賢が安芸に急派した宮川房頼の軍勢2,000〜3,000を毛利軍が撃破。緒戦で手痛い敗北を喫した陶氏は安芸攻めの出端をくじかれた

天文24年3月

江良房栄の誅殺

安芸国の事情に精通し毛利との対決に慎重論を唱えていた陶氏重臣・江良房栄が、晴賢の命で弘中隆兼に誅殺された。陶軍は貴重な人材を失った

天文24年9月21〜22日

陶軍、厳島に上陸

陶晴賢が約500艘の船団で岩国から出陣し厳島に上陸。大元浦から上陸した陶軍は塔の岡に本陣を置き、宮尾城を包囲した

天文24年9月28日

村上水軍の来援

来島村上水軍約200〜300艘が毛利軍に合流。元就は「来島の来援により我らの首は繋がった」と書状に記した。水軍力で陶方を圧倒する態勢が整った

天文24年9月晦日

毛利軍の渡海

暴風雨の中、毛利軍は3隊に分かれて厳島へ渡海。元就率いる本隊は東岸の包ヶ浦に上陸し、全船を返して背水の陣を敷いた。小早川隊は西側から密かに上陸した

天文24年10月1日早朝

毛利軍の奇襲攻撃

卯の刻(午前6時)、博奕尾を越えた毛利本隊が陶軍背後を急襲。同時に小早川隊と宮尾城兵が塔の岡を攻め、沖合の村上水軍が陶水軍の船を焼き払った。三方からの挟撃で陶軍は総崩れとなった

天文24年10月1〜3日

陶晴賢の自刃と弘中隊の壊滅

脱出を図った晴賢は大江浦で自刃。弘中隆兼は絵馬ヶ岳に立て籠もり激しく抗戦したが3日に討ち死にし、弘中隊は全滅した

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概要

厳島の戦いは、天文24年10月1日(1555年10月16日)に安芸国佐西郡の厳島(現在の広島県廿日市市宮島町)において、毛利元就と陶晴賢との間で行われた合戦である。河越夜戦・桶狭間の戦いと並んで「日本三大奇襲」の一つに数えられる。

毛利元就は約4,000の兵力と村上水軍の援軍を率い、暴風雨の夜に厳島へ渡海。陶軍の背後から奇襲攻撃を仕掛け、同時に小早川隊と宮尾城籠城兵が正面から攻撃し、沖合の村上水軍が陶水軍の船を焼き払うという三方からの挟撃で陶軍を壊滅させた。陶晴賢は島内で自刃し、重臣の弘中隆兼・三浦房清らも戦死した。

この勝利により、大内氏の実権を握っていた陶氏は壊滅。元就は周防・長門への侵攻を開始し、2年後に大内氏を滅亡に追い込んで中国地方最大の戦国大名へと成長した。

背景

大寧寺の変と陶晴賢の台頭

天文20年(1551年)、陶隆房(のちの晴賢)は大寧寺の変で主君・大内義隆を討ち、豊前国の大友氏から迎え入れた大内義長を擁立して大内氏の実権を掌握した。しかし、主君殺しは家臣団の動揺を招き、石見国の吉見正頼が陶氏打倒を掲げて挙兵するなど、陶氏の基盤は必ずしも安定していなかった。

毛利氏の決別(防芸引分)

天文23年(1554年)5月、大内・陶氏の傘下にあった毛利元就は決別を宣言。桜尾城など4城を攻略して厳島を占領し、陶氏との全面対決に備えた。同年6月の折敷畑の戦いでは、晴賢が安芸に急派した宮川房頼の軍勢を撃破し、緒戦で陶氏に打撃を与えた。

前哨戦と宮尾城の攻防

天文24年(1555年)に入ると、陶方の白井賢胤が水軍を率いて毛利方の拠点を襲撃するなど、海上での攻防が激化した。3月には陶氏重臣の江良房栄が安芸の事情に精通しながら毛利との対決に慎重論を唱えていたため、晴賢に内通を疑われて誅殺された。貴重な人材を自ら失った陶氏にとって大きな損失であった。

元就は宮尾城(厳島の有ノ浦)に己斐直之と坪井元政を入れて守備を固め、陶軍の厳島上陸に備えた。宮尾城は数度にわたる陶水軍の攻撃を撃退し、厳島における毛利方の橋頭堡として機能し続けた。

外交と調略

元就は軍事行動と並行して周到な外交・調略を展開した。九州の少弐冬尚に密書を送って挙兵を促し、大内氏の背後を脅かそうとした。陶方の武将である久芳賢重・久芳賢直らを調略して毛利方に引き入れる一方、尼子氏と敵対する三村氏(備中)や福屋氏(石見)を支援して尼子氏の動きを牽制した。

戦いの経過

陶軍の厳島上陸(9月21〜22日)

天文24年9月21日、陶晴賢は周防・長門・豊前・筑前などの軍勢を率いて岩国から出陣した。通説では兵力2万余、約500艘の船団とされるが、近年の研究では実数は8,000〜10,000程度であったと考えられている。翌22日に大元浦(現在の宮島水族館付近)から上陸した陶軍は、三浦房清と大和興武が先陣を務め、晴賢の本陣を宮尾城が見通せる塔の岡(現在の豊国神社付近)に置いた。

渡海直前の軍議では、重臣の弘中隆兼が「毛利軍が後方から攻撃してくる」と諫言したが、晴賢はこれを退けた。陶軍は宮尾城を包囲し、水源を断って総攻撃の準備を進めた。

村上水軍の来援と毛利軍の出陣(9月24〜28日)

9月24日、陶軍の厳島上陸を知った毛利軍は佐東銀山城を出陣して草津城に着陣した。元就・隆元率いる毛利軍には吉川元春、小早川隆景のほか熊谷氏・平賀氏・天野氏・阿曽沼氏など安芸国人衆が加わっていたが、兵力は約4,000、軍船は110〜130艘程度にとどまっていた。

元就は小早川家臣の乃美宗勝を通じて来島村上氏に援軍を要請しており、26日付の書状では宮尾城の窮状に対する焦燥を隠せなかった。28日、ついに来島村上水軍約200〜300艘が毛利軍に合流。水軍力で陶方を圧倒する態勢が整った。

暴風雨の渡海(9月晦日)

9月晦日(30日)、夕方から天候が荒れ始め暴風雨となった。元就は「今日は吉日、風雨こそ天の加護」と説き、酉の刻(午後6時)に出陣を決行した。毛利軍は3隊に分かれた。

元就・隆元・元春率いる第1軍(毛利本隊)は、敵に気付かれぬよう元就の船のみ篝火を掲げ、厳島を東に回り込んで包ヶ浦に上陸した。元就は全ての軍船を返すよう児玉就方に命じ、背水の陣の決意を示した。上陸後、吉川勢を先陣に博奕尾の山越えを開始した。

小早川隆景率いる第2軍は大野瀬戸を西進し、厳島神社大鳥居付近まで接近。乃美宗勝らの進言で暴風雨に紛れて「筑前から加勢に来た」と偽って上陸した。第3軍の村上水軍は沖合で待機し、開戦の合図を待った。

奇襲攻撃(10月1日)

翌10月1日の卯の刻(午前6時)、毛利軍の奇襲攻撃が始まった。博奕尾を越えてきた毛利本隊は鬨の声を上げて陶軍の背後(紅葉谷側)を駆け下り、同時に小早川隊と宮尾城籠城兵が塔の岡を正面から攻め上がった。戦闘開始を見た村上水軍が沖合から陶水軍を攻撃し、船を焼き払った。

前夜の暴風雨で油断していた陶軍は、狭い島内に大軍がひしめいていたため進退もままならず、総崩れとなった。『棚守房顕覚書』には「陶・弘中は一矢も射ず、西山をさして引き下がった」と記されている。

陶晴賢の最期

挟撃を受けた陶方の将兵は島からの脱出を図り、舟を奪い合って沈没や溺死が続出した。弘中隆兼・三浦房清・大和興武らが手勢で防戦に努めたが、大混乱の陶軍を立て直すことはできなかった。

西へ逃れる晴賢を吉川隊が追撃すると、弘中隆兼・隆助父子が手勢500で厳島神社南方の滝小路に立ちはだかった。陶方の青景・波多野・町野らの兵300も加わり一時は弘中隊が優勢になるが、熊谷信直・天野隆重隊の援軍により大聖院方面へ退却を余儀なくされた。

晴賢は大元浦まで辿り着いたが脱出できる舟はなく、さらに西の大江浦まで落ち延びた。しかしここにも舟はなく、近侍の伊香賀房明の介錯により自刃して果てた。最期まで付き添った柿並隆正・山崎隆方も晴賢の首を山中に隠した後、自害した。

弘中隊の抗戦と戦闘の終結

大聖院付近から撤退した弘中隆兼は、手勢100〜300を率いて弥山隣の絵馬ヶ岳(駒ケ林)の龍ヶ馬場に立て籠もった。吉川勢の猛攻に激しく抗戦したが、10月3日に討ち死にし弘中隊は全滅した。三浦房清は小早川隆景に手傷を負わせるほど激しく抵抗したが、吉川元春勢の加勢によりついに討ち死にした。

10月5日、晴賢の草履取りの少年を捕らえた毛利軍が首級の隠し場所を突き止め、元就は桜尾城で首実検を行った。元就は「主君を討って八虐を犯した逆臣」として晴賢の首を鞭で3度叩いたと伝えられる。

結果と影響

陶氏の壊滅と大内氏の滅亡

この戦いで陶晴賢・弘中隆兼・三浦房清ら主要な武将を失った陶氏は壊滅的な打撃を受けた。『吉田物語』によれば陶方の戦死者は4,780人、捕虜は3,000余人にのぼった。元就は合戦直後の10月5日から周防・長門への侵攻(防長経略)を開始し、弘治3年(1557年)に大内義長を自害に追い込んで大名としての大内氏を滅亡させた。

毛利氏の飛躍

旧大内領を併合した毛利氏は中国地方最大の大名へと成長した。博多の商業権益と石見銀山の支配権を手に入れ、九州の大友氏や山陰の尼子氏との抗争を開始する。また、厳島の戦いを前後して発達した毛利水軍は、のちの大友氏・尼子氏との戦いのみならず、織田信長との戦い(第一次木津川口の戦い)でも大きな貢献を果たした。

神域の清め

厳島は島全体が厳島神社の神域であったため、元就は戦死者を全て対岸の大野に運び出し、血が染み込んだ土を削り取らせた。厳島神社の社殿から回廊まで潮水で洗い清め、合戦翌日から7日間にわたり神楽を奉納し、万部経会を行って死者の冥福を祈った。

信長の野望・新生 公式ガイドブック
書籍

信長の野望・新生 公式ガイドブック

ファミ通書籍編集部

KADOKAWA

よくある疑問

厳島の戦いはなぜ「日本三大奇襲」と呼ばれるのですか?

毛利元就が約4,000の兵力で、通説で約20,000とされる陶晴賢の大軍を暴風雨の夜に奇襲攻撃で壊滅させたことから、河越夜戦・桶狭間の戦いと並ぶ日本三大奇襲の一つとされています。ただし、近年の研究では陶軍の実数は8,000〜10,000程度で、兵力差は通説ほど大きくなかったとする見方もあります。

村上水軍は厳島の戦いでどのような役割を果たしましたか?

来島村上水軍が約200〜300艘で毛利方に参戦し、合戦当日には陶水軍の船を焼き払って陶軍の退路を断ちました。元就は来島村上氏の来援がなければ万事休すと書状に記しており、毛利方の勝利に決定的な貢献を果たしました。なお、能島村上氏と因島村上氏の参戦については諸説あり、近年の研究では両氏は合戦に直接参加していなかったとする見方が有力です。

厳島の戦いの後、大内氏はどうなりましたか?

陶晴賢を失った大内氏は急速に弱体化し、元就は合戦直後から周防・長門への侵攻(防長経略)を開始しました。弘治3年(1557年)に晴賢が擁立していた大内義長が自害に追い込まれ、大名としての大内氏は滅亡しました。旧大内領を併合した毛利氏は中国地方最大の大名へと成長しました。

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最終更新日: 2026年03月21日