天文19年10月1日

砥石城の戦い

といしじょうのたたかい

1550年11月13日

場所

砥石城(現在の長野県上田市上野)

結果

村上軍の勝利(砥石崩れ)。翌年、真田幸隆が調略により攻略

歴史的意義

武田信玄の生涯二度目の大敗「砥石崩れ」として知られる。後に真田幸隆が調略で城を奪取し、武田氏の信濃平定を決定づけた

真田三代風雲録 上
書籍

真田三代風雲録 上

中村彰彦

実業之日本社文庫

戦場の位置

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真田三代 上
書籍

真田三代 上

火坂雅志

文春文庫

武田軍

指揮官

兵力

7,000人

損害

約1,000人(横田高松ら戦死)

参加武将

横田高松足軽大将(戦死)
真田幸隆信濃先方衆(調略担当)

村上軍

指揮官

村上義清後詰として援軍

兵力

城兵500人 + 本隊2,000人

損害

不明

参加武将

楽巌寺雅方城将
布下仁兵衛城将
矢沢綱頼城兵(後に真田方に内通)
真田三代 幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る
書籍

真田三代 幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る

平山優

PHP新書

戦いの経過

天文19年9月9日

武田軍、砥石城への総攻撃開始

武田晴信は7,000の兵を率いて砥石城を攻撃。足軽大将・横田高松の部隊が砥石のような崖を登って総攻撃を開始した

9月中

城兵の激しい抵抗、攻城戦は膠着

城兵はわずか500人ながら士気が高く、崖を登る武田兵に石や煮え湯を浴びせて撃退。武田軍は圧倒的な兵力差にもかかわらず城を落とせなかった

10月1日

村上義清の後詰到着、砥石崩れ

村上義清が2,000の本隊を率いて葛尾城から後詰に駆けつけ、武田軍は城兵と村上本隊に挟撃された。晴信は撤退を決断するが、村上軍の追撃は激しく、殿軍を中心に約1,000人もの死傷者を出す大敗を喫した

翌天文20年5月26日

真田幸隆、調略により砥石城を攻略

真田幸隆は村上方の将兵への調略を続け、弟・矢沢綱頼の内通も得て、武田軍が力攻めで落とせなかった砥石城をわずか1日で陥落させた。『高白斎記』はこれを「砥石ノ城真田乗取」と記している

真田氏三代 真田は日本一の兵
書籍

真田氏三代 真田は日本一の兵

笹本正治

ミネルヴァ書房(ミネルヴァ日本評伝選)

概要

砥石城の戦いは、天文19年(1550年)9月から10月にかけて、信濃国小県郡の砥石城(戸石城)で行われた合戦。甲斐の武田晴信(信玄)が北信濃の村上義清の出城である砥石城を攻めたが、堅城と城兵の果敢な抵抗、さらに村上義清の後詰により大敗を喫した。武田家中ではこの敗退を「砥石崩れ」と呼んだ。

翌天文20年(1551年)、武田家臣の真田幸隆が調略により砥石城を攻略。武田軍が力攻めで落とせなかった難攻不落の城を、幸隆はわずか1日で陥落させた。この武功は幸隆の名を天下に知らしめ、武田氏の信濃平定を大きく前進させた。

背景

武田晴信の信濃侵攻

天文10年(1541年)、武田信虎が嫡男・晴信に追放されると、晴信は父の外交方針を転換して信濃侵攻を本格化させた。翌年には諏訪頼重を滅ぼして諏訪郡を制圧し、天文19年7月には信濃守護・小笠原長時を破って信濃中南部の大半を手中に収めた。

残る北信濃・東信濃の平定を目指す晴信にとって、最大の障害が村上義清であった。天文17年(1548年)の上田原の戦いでは、板垣信方・甘利虎泰ら重臣を失う大敗を喫しており、その復仇の意味も込めて、村上氏の東信濃における要衝・砥石城の攻略に乗り出した。

砥石城の要害

砥石城は東太郎山の尾根上に築かれた山城で、本城を中心に枡形城・米山城・戸石城からなる複合城郭であった。東西は崖に囲まれ、攻め口はその名の通り砥石のような南西の崖しかないという天然の要害であった。

村上義清はこの城を小県郡・佐久郡方面の最重要拠点と位置づけ、楽巌寺雅方・山田国政ら有力な諸将を配していた。

戦いの経過

砥石城攻め

天文19年9月9日、武田軍7,000が砥石城への総攻撃を開始した。足軽大将・横田高松の部隊が先陣を切り、砥石のような崖を攀じ登っての攻撃となった。

しかし城兵はわずか500人ながらその士気はすこぶる高かった。城兵の半数はかつて天文16年に武田軍に攻められた志賀城の残党であり、武田への恨みが深かった。城兵は崖を登る武田兵に石を落とし、煮え湯を浴びせて撃退。圧倒的な兵力差にもかかわらず、武田軍は城を落とすことができなかった。

砥石崩れ

武田軍が砥石城攻めに釘付けになっている間に、村上義清は対立していた高梨氏と急ぎ和睦を結び、自ら2,000の兵を率いて葛尾城から後詰に駆けつけた。

砥石城兵と村上本隊に挟撃された武田軍は、たちまち戦況が不利に転じた。晴信は撤退を決断するが、村上軍の追撃は凄まじく、殿軍を中心に約1,000人もの死傷者を出した。足軽大将の横田高松をはじめ、小沢式部・渡辺伊豆守らが討死し、晴信自身も影武者を身代わりにしてようやく窮地を脱したと伝わる。

『甲陽軍鑑』によれば、武田家中ではこの大敗を「戸石くずれ」と呼んだという。上田原の戦いに続く生涯二度目の敗北であり、武田軍の信濃制覇に大きな痛手となった。

真田幸隆の調略攻略

砥石崩れにもかかわらず、信濃先方衆の真田幸隆は砥石城攻略を諦めなかった。幸隆は砥石崩れ以前から村上方の清野氏・寺尾氏ら埴科郡の国衆への調略を進めており、城内にも内通者を確保していた。

翌天文20年(1551年)5月26日、幸隆はついに砥石城を攻略した。『高白斎記』はこれを「砥石ノ城真田乗取」と記しており、力攻めではなく調略による攻略であったと考えられている。後世の軍記物によれば、幸隆の弟・矢沢綱頼が内通者として城門を開いたとされる。

武田軍が7,000の大軍で落とせなかった堅城を、幸隆はわずか1日で陥落させた。この武功は幸隆の調略の才を天下に知らしめ、「攻め弾正」の異名の由来ともなった。

結果と影響

村上氏の衰退と信濃平定

砥石城の攻略により、村上義清は東信濃における防衛線を大きく後退させた。天文22年(1553年)には村上方の国衆が次々と武田方に寝返り、義清は本拠の葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って亡命した。

武田氏は砥石城を信濃北部の重要拠点として改修し、幸隆はその功により旧領・真田郷の地を与えられた。砥石城は後に真田氏の拠点として用いられ、上田城築城までの一時期は真田昌幸の居城ともなった。

川中島の戦いへの発展

村上義清が越後に亡命したことで、武田氏と長尾氏(上杉氏)の対立が本格化し、信濃北部をめぐる川中島の戦いへと発展していく。砥石城の戦いは、武田・上杉の宿命の対決を生み出す契機となった合戦でもあった。

真田幸隆の評価

砥石城の調略攻略は、真田幸隆の最大の武功として後世に伝えられている。武力ではなく知略で難攻不落の城を落とした幸隆の手腕は武田信玄の信頼を勝ち取り、以後、幸隆は信濃先方衆の筆頭として武田家の信濃・上野攻略を支える重要な役割を担うこととなった。

史料と研究

砥石城の戦いに関する主要な史料として『高白斎記』『甲陽軍鑑』『勝山記(妙法寺記)』がある。武田軍の損害については、『勝山記』が約1,000人、京都の僧・厳助の日記『厳助往年記』が5,000人と記しているが、後者は信濃に伝わった噂を記録したものであり、誇張が含まれている可能性が高い。真田幸隆の砥石城攻略については『高白斎記』の「砥石ノ城真田乗取」という簡潔な記述が最も信頼性の高い一次史料とされている。

疾風六文銭 真田三代と信州上田
書籍

疾風六文銭 真田三代と信州上田

寺島隆史、金子万平

週刊上田新聞社

よくある疑問

砥石崩れとは?

天文19年(1550年)、武田晴信(信玄)が7,000の兵で村上義清の砥石城を攻めたが、わずか500の城兵に撃退され、約1,000人の死傷者を出して大敗した出来事です。武田家中ではこの敗退を「砥石崩れ」と呼びました。

真田幸隆はどうやって砥石城を落とした?

翌年の天文20年(1551年)、真田幸隆は城内の将兵への調略と弟・矢沢綱頼の内通を活用し、力攻めではなく調略によりわずか1日で砥石城を陥落させました。

砥石城はなぜ難攻不落だった?

東太郎山の尾根上に築かれた山城で、東西は崖に囲まれ攻め口は南西の砥石のような崖面しかありませんでした。本城・枡形城・米山城・戸石城からなる複合城郭で、天然の要害でした。

関連史料・書籍

  • -高白斎記(駒井政武)一次史料
  • -甲陽軍鑑(高坂昌信(春日虎綱))軍記物
  • -勝山記(妙法寺記)(不詳)一次史料
  • -厳助往年記(厳助)一次史料

最終更新日: 2026年02月28日