[{"data":1,"prerenderedAt":3524},["ShallowReactive",2],{"featured-busho":3,"anniversary-events":2128,"featured-battles":2498,"latest-articles":3316,"busho-count":3522,"battle-count":3523},[4,295,694,1084,1335,1750],{"id":5,"title":6,"affiliateItems":7,"aliases":11,"battles":12,"birth":50,"body":54,"death":152,"description":156,"domain":157,"extension":158,"family":159,"familyNotes":194,"faq":197,"image":11,"kamon":207,"lastUpdated":208,"meta":209,"name":210,"nameKana":211,"navigation":212,"path":213,"publishedDate":208,"representativeTitle":11,"seo":214,"sources":215,"stem":219,"timeline":220,"__hash__":294},"busho/busho/鳥居元忠.md","徳川氏家臣・甲斐谷村城主・下総矢作城主",[8,9,10],"000276","000277","000278",null,[13,17,20,23,27,31,34,38,42,46],{"slug":14,"date":15,"role":16},"寺部城の戦い","1558-01-01","徳川軍に加わる",{"slug":18,"date":19,"role":16},"姉川の戦い","1570-07-30",{"slug":21,"date":22,"role":16},"三方ヶ原の戦い","1573-01-25",{"slug":24,"date":25,"role":26},"諏訪原城の戦い","1575-01-01","斥候として敵陣に入り、見つかって足を撃たれる",{"slug":28,"date":29,"role":30},"長篠の戦い","1575-06-29","石川数正とともに馬防柵を立てる",{"slug":32,"date":33,"role":16},"高天神城の戦い","1581-01-01",{"slug":35,"date":36,"role":37},"天正壬午の乱","1582-01-01","黒駒合戦で2千の兵を率い、北条軍の別働隊1万を退ける",{"slug":39,"date":40,"role":41},"第一次上田合戦","1585-09-25","大久保忠世・平岩親吉と7千の兵で上田城を攻めるが、大きな損害を受けて退く",{"slug":43,"date":44,"role":45},"小田原征伐","1590-05-03","岩槻城攻めに加わる",{"slug":47,"date":48,"role":49},"伏見城の戦い","1600-09-08","伏見城の守将。西軍の攻撃を13日間しのいだのち討ち死にする",{"date":51,"place":52,"source":53},"1539-01-01","三河国碧海郡渡郷（現在の愛知県岡崎市渡町）","天文8年。月日はわからない",{"type":55,"value":56,"toc":138},"minimark",[57,61,65,68,71,74,78,81,84,88,91,94,97,100,103,106,109,112,115,117,120,123,126,129,132,135],[58,59,60],"h2",{"id":60},"概要",[62,63,64],"p",{},"鳥居元忠は、徳川家康が今川氏の人質だった少年時代からそばに仕えた、三河以来の家臣です。父の鳥居忠吉も松平氏に仕えて岡崎奉行などを務めた人物で、元忠は三男ながら兄たちに代わって家を継ぎました。姉川・三方ヶ原・長篠など家康の主な戦いに加わり、天正壬午の乱では黒駒合戦で北条軍の別働隊を退けています。",[62,66,67],{},"その功で甲斐国都留郡を任され、家康の関東移封の後は下総国矢作城4万石の城主となりました。どちらの領地でも、家康から広い裁量を与えられていたとみられています。",[62,69,70],{},"慶長5年（1600年）、家康が会津へ向かった留守に石田三成らが挙兵すると、元忠はわずかな兵で伏見城に籠もり、13日間戦った末に討ち死にしました。この最期は「三河武士の鑑」と称えられ、伏見城の血に染まった床板は「血天井」として今も京都の寺々に残っています。",[58,72,73],{"id":73},"生涯",[75,76,77],"h3",{"id":77},"出生と家康への近侍",[62,79,80],{},"鳥居元忠は天文8年（1539年）、三河国碧海郡渡郷（現在の愛知県岡崎市渡町）に生まれました。父は松平氏に仕えた鳥居忠吉で、元忠はその三男です。上の兄のうち、忠宗は天文16年（1547年）に地元の渡で起きた戦いで命を落とし、本翁意伯は僧になっています。",[62,82,83],{},"天文20年（1551年）、13歳の元忠は、今川氏のもとで人質となっていた松平竹千代（のちの徳川家康）のそば近くに仕え始めました。竹千代は弘治元年（1555年）に元服し、今川義元から「元」の字を受けて松平元信と名乗ります。歴史学者の柴裕之は、3歳年上の元忠もこのとき一緒に元服し、同じく「元」の字を受けたのではないかと推測しています。",[75,85,87],{"id":86},"三河遠江での戦い","三河・遠江での戦い",[62,89,90],{},"家康が三河を平定した後、元忠は家康の旗本の先手役となり、旗本の部隊を率いて戦いました。加わった戦いには、永禄元年（1558年）の寺部城攻めのほか、姉川の戦い（元亀元年・1570年6月）や三方ヶ原の戦い（元亀3年・1572年12月）があります。元亀3年に父・忠吉が亡くなると、鳥居家の家督を継ぎました。",[62,92,93],{},"諏訪原城の戦いでは、物見として敵陣に忍び込んだところを見つかり、足を撃たれます。この傷のため、その後は歩くのにいくらか不自由が残りました。それでも天正3年（1575年）5月の長篠の戦いでは石川数正とともに馬防柵を設ける役を受け持ち、天正9年（1581年）には高天神城の戦いにも加わっています。",[75,95,96],{"id":96},"甲斐都留郡の支配",[62,98,99],{},"天正10年（1582年）、本能寺の変の後に旧武田領をめぐる天正壬午の乱が起こると、北条氏忠・氏勝が率いる1万の別働隊が家康の背後を突こうとしました。元忠は甥の三宅康貞・水野勝成らと2千の兵でこれを迎え撃ち、北条勢およそ300を討ち取って退けます（黒駒合戦）。",[62,101,102],{},"乱の後、元忠は家康から甲斐国都留郡を与えられ、はじめ岩殿城、のちに谷村城に入りました。都留郡は武田氏の時代にも小山田氏が独自に治めてきた土地で、北条氏との国境にもあたるため、重臣の元忠が置かれたとみられています。ただし郡の北部など小山田氏の支配が及んでいなかった地域は、徳川方についた甲斐の国衆が治めていました。元忠には印判状を出すことが許され、家康直属の奉行であっても元忠の了承なしに領内に関わることはできませんでした。",[62,104,105],{},"天正13年（1585年）、上杉景勝についた真田昌幸を討つため、元忠は大久保忠世・平岩親吉とともに7千の兵で上田城を攻めました。しかし大きな損害を受けて退けられています（第一次上田合戦）。",[75,107,108],{"id":108},"下総矢作城主",[62,110,111],{},"天正18年（1590年）の小田原征伐では岩槻城攻めに加わりました。戦後に家康が関東へ移ると、元忠は下総国矢作城4万石を与えられます。常陸の佐竹氏や東北の大名が南へ攻めてくるのに備える役目で、ここでも強い支配の権限を任されていたとみられます。後に鳥居家が東北の要地へ移されたのも、この位置づけを受け継いだものと考えられています。",[62,113,114],{},"矢作城は手狭だったため、元忠は岩ヶ崎に新しい城を本格的に築こうと普請奉行を決めて工事を始めましたが、城は完成しないまま廃城となりました。慶長4年（1599年）には矢作領84か村で検地を行い、石高をそれまでの2.5倍ほどに引き上げています。厳しい検地で、「矢作縄」とも呼ばれました。",[75,116,47],{"id":47},[62,118,119],{},"慶長5年（1600年）、家康は会津の上杉景勝を討つため諸将を率いて東へ向かい、伏見城を元忠に預けました。6月16日、伏見城に泊まった家康と元忠は酒を酌み交わします。家康が、残せる兵は3千ほどで苦労をかけると言うと、元忠は、自分と松平近正の二人がいれば十分で、大坂方の大軍に囲まれれば城に火をかけて討ち死にするしかないのだから、天下を取るために家臣は一人でも多く連れて行ってほしいと応じたといいます。家康はこれを喜び、夜が更けるまで酒を飲んでから別れたと伝わります。",[62,121,122],{},"家康の留守中、石田三成ら五奉行の側が家康に対して兵を挙げると、伏見城は最初の戦いの場となりました。元忠は松平家忠・松平近正・内藤家長らと、矢作などから集めた1,800人の兵で城に籠もります。元忠ははじめから生きて城を出るつもりはなく、三成が送ってきた降伏を勧める使者を斬って、亡骸を送り返しました。13日間の攻防の末、8月1日に元忠は鈴木重朝と一騎打ちをして討たれます。62歳でした。",[62,124,125],{},"元忠の首は京橋口にさらされましたが、親しくしていた京の商人・佐野四郎右衛門が引き取り、知恩院の中にある長源院に葬ったといわれます。墓は京都市左京区の百万遍知恩寺と、福島県いわき市平の長源寺にあります。",[58,127,128],{"id":128},"評価",[62,130,131],{},"元忠の忠節は、大久保忠教に「三河武士の鑑」と称されました。",[62,133,134],{},"家康は元忠の死を悲しみ、伏見城に残された血染めの畳を江戸城伏見櫓の上の階に置いて、登城する大名たちの頭上に掲げました。明治維新で江戸城が明け渡された後、この畳は新政府から壬生藩の鳥居家に下げ渡され、元忠を祭神とする壬生城内の精忠神社に「畳塚」を築いて埋められています。城の床板は「血天井」として、京都市の養源院をはじめ宝泉院・正伝寺・源光庵・瑞雲院、宇治市の興聖寺に今も伝わります。ただし、床板を移したことを裏付ける記録はなく、言い伝えがどこまで本当かははっきりしていません。",[62,136,137],{},"元忠の功は子孫も守りました。嫡男の忠政は、まず磐城平藩で10万石を与えられ、のちに山形藩へ移って22万石を領する大名となります。その後、元忠の孫・忠恒と玄孫・忠則がそれぞれ不行跡を咎められて改易されかけましたが、いずれも元忠の功が大きいとして、領地を減らして移すだけで家の断絶を免れました。",{"title":139,"searchDepth":140,"depth":140,"links":141},"",2,[142,143,151],{"id":60,"depth":140,"text":60},{"id":73,"depth":140,"text":73,"children":144},[145,147,148,149,150],{"id":77,"depth":146,"text":77},3,{"id":86,"depth":146,"text":87},{"id":96,"depth":146,"text":96},{"id":108,"depth":146,"text":108},{"id":47,"depth":146,"text":47},{"id":128,"depth":140,"text":128},{"date":48,"place":153,"cause":154,"source":155},"山城国伏見城（現在の京都府京都市伏見区）","戦死（伏見城の戦いで鈴木重朝に討たれる）","慶長5年8月1日。享年62","人質時代の徳川家康に仕えた側近。三方ヶ原・長篠などを戦い、甲斐都留郡、のちに下総矢作4万石を任された。関ヶ原の戦いの前に伏見城を守って討ち死にし、「三河武士の鑑」と称えられた","甲斐都留郡・下総矢作","md",{"father":160,"mother":161,"wives":162,"children":170},"鳥居忠吉","不明",[163,167],{"name":164,"type":165,"note":166},"松平家広の娘","正室","形原松平家の出",{"name":168,"type":169},"馬場信春の娘","側室",[171,173,177,180,182,184,186,190],{"name":172,"mother":164},"鳥居康忠",{"name":174,"rank":175,"mother":164,"note":176},"鳥居忠政","次男","山形藩22万石",{"name":178,"rank":179,"mother":164},"鳥居成次","三男",{"name":181,"mother":168},"鳥居忠勝",{"name":183,"mother":168},"鳥居忠頼",{"name":185,"mother":168},"鳥居忠昌",{"name":187,"mother":164,"spouse":188,"note":189},"娘","土岐定政室","土岐定政に嫁ぐ",{"name":191,"mother":168,"spouse":192,"note":193},"真室御前","戸沢政盛室","戸沢政盛に嫁ぐ",[195,196],"※ 父・忠吉は岡崎奉行などを務めた松平氏の家臣。元忠は三男。兄の忠宗は渡の戦いで討たれ、もう一人の兄・本翁意伯は僧になった","※ 甥に三宅康貞・水野勝成がいる",[198,201,204],{"question":199,"answer":200},"鳥居元忠はなぜ少ない兵で伏見城に残ったのですか？","慶長5年（1600年）6月、会津の上杉景勝を討ちに行く徳川家康は、伏見城に元忠を残すことにしました。出陣前夜、家康が残せる兵は3千ほどしかなく苦労をかけると詫びると、元忠は、自分と松平近正がいれば足りる、大坂方の大軍に囲まれたら城に火をかけて死ぬまでなので、兵は一人でも多く連れて行って天下取りに使ってほしい、と答えたと伝わります。実際に石田三成らが挙兵すると、元忠ははじめから死ぬ覚悟で城に籠もり、降伏を勧める使者を斬って戦い抜きました。",{"question":202,"answer":203},"伏見城の「血天井」とは何ですか？","伏見城で討ち死にした元忠らの血に染まった床板を、のちに寺の天井に張ったものです。京都市の養源院のほか、宝泉院・正伝寺・源光庵・瑞雲院、宇治市の興聖寺に今も残っています（ただし床板を移したことを裏付ける記録はなく、言い伝えの域を出ません）。また血染めの畳は、元忠の忠義を称えた家康が江戸城伏見櫓の上の階に置き、登城する大名の頭上に掲げさせました。明治になって畳は鳥居家（壬生藩）に戻され、元忠を祀る壬生の精忠神社の「畳塚」に納められています。",{"question":205,"answer":206},"元忠を討った鈴木重朝と、元忠の鎧はその後どうなりましたか？","元忠を討ち取ったのは、西軍の鉄砲頭・鈴木重朝（孫三郎）です。重朝は元忠の鎧「紺糸素懸縅二枚胴具足」を、形見として元忠の子・忠政に送ろうと申し出ましたが、忠政は心を打たれつつも、誉れとともに重朝の子孫に伝えてほしいと断りました。鎧はその後も鈴木家に代々伝わり、2004年に大阪城天守閣へ寄贈されています（兜は幕末に作り直されたものです）。","/kamon/丸に鳥.png","2026-10-04",{},"鳥居元忠","とりい もとただ",true,"/busho/yuan",{"title":6,"description":156},[216],{"title":217,"type":218},"寛政重修諸家譜","二次史料","busho/鳥居元忠",[221,224,228,232,236,239,242,246,249,252,255,257,260,263,266,270,274,278,282,287,291],{"date":51,"event":222,"description":223},"三河国渡郷に生まれる","松平氏の家臣・鳥居忠吉の三男として、三河国碧海郡渡郷（現在の愛知県岡崎市渡町）で生まれる",{"date":225,"event":226,"description":227},"1547-01-01","長兄・忠宗の戦死","長兄の忠宗が渡の戦いで討たれる",{"date":229,"event":230,"description":231},"1551-01-01","竹千代（家康）に仕える","13歳で、今川氏のもとで人質となっていた松平竹千代（のちの徳川家康）のそば近くに仕え始める",{"date":233,"event":234,"description":235},"1555-01-01","元服したとする説","竹千代が元服して今川義元から「元」の字を受け、松平元信と名乗った年。3歳年上の元忠も、このとき一緒に元服し、同じく「元」の字を受けたとする見方がある（柴裕之の推測）",{"date":15,"event":237,"description":238},"寺部城攻め","寺部城への攻撃に加わる",{"date":19,"event":18,"description":240,"link":241},"元亀元年6月、徳川軍の一員として姉川の戦いに加わる","/battles/姉川の戦い",{"date":243,"event":244,"description":245},"1572-01-01","家督を継ぐ","父・忠吉が亡くなり、鳥居家を継ぐ。長兄は戦死し、次兄は出家していたため、三男の元忠が跡取りとなった",{"date":22,"event":21,"description":247,"link":248},"元亀3年12月、武田信玄の軍と戦った三方ヶ原の戦いに加わる","/battles/三方ヶ原の戦い",{"date":25,"event":250,"description":251},"諏訪原城で足を撃たれる","諏訪原城の戦いで物見として敵陣へ忍び込んだが、見つかって足を撃たれる。この傷のため、その後は歩くのに少し不自由が残った",{"date":29,"event":28,"description":253,"link":254},"天正3年5月、石川数正とともに馬防柵を設ける役を受け持つ","/battles/長篠の戦い",{"date":33,"event":32,"description":256},"天正9年の高天神城攻めに加わる",{"date":36,"event":258,"description":259},"黒駒合戦","天正壬午の乱で、家康の後ろを突こうとした北条氏忠・氏勝の別働隊1万を、甥の三宅康貞・水野勝成らと2千の兵で迎え撃って退け、北条勢およそ300を討ち取る",{"date":36,"event":261,"description":262},"甲斐都留郡を与えられる","乱の後、家康から甲斐国都留郡を与えられる。はじめ岩殿城に入り、のちに谷村城主となる。印判状を出すことも認められ、家康の奉行でも元忠の了承なしには領内に口を出せないほど、広い裁量を任された",{"date":40,"event":39,"description":264,"link":265},"上杉景勝についた真田昌幸を討つため、大久保忠世・平岩親吉とともに7千の兵で上田城を攻める。しかし大きな損害を出して退けられる","/battles/第一次上田合戦",{"date":44,"event":267,"description":268,"link":269},"小田原征伐・下総矢作城主に","小田原征伐では岩槻城攻めに加わる。家康の関東移封にともない、下総国矢作城4万石を与えられる。城が手狭なため岩ヶ崎に新しい城を築き始めたが、完成しないまま廃城となった","/battles/小田原征伐",{"date":271,"event":272,"description":273},"1599-01-01","矢作領の検地","矢作領84か村で検地を行う。それまでのおよそ2.5倍に石高を引き上げる厳しいもので、「矢作縄」とも呼ばれた",{"date":275,"event":276,"description":277},"1600-07-26","伏見城を預かる","会津の上杉景勝を討つために東へ向かう家康から、伏見城の留守を任される。出陣前夜、二人は伏見城で夜更けまで酒を酌み交わしたと伝わる",{"date":279,"event":280,"description":281},"1600-08-23","伏見城に籠もる","石田三成らが家康に対して兵を挙げる。元忠は松平家忠・松平近正・内藤家長らとともに伏見城に籠もり、降伏を勧めに来た使者を斬って亡骸を送り返した",{"date":283,"event":284,"description":285,"link":286},"1600-08-26","西軍の攻撃が始まる","伏見城の戦いが本格的に始まる。はじめは城兵が打って出て、前田玄以・長束正家らの屋敷を焼き払った","/battles/伏見城の戦い",{"date":288,"event":289,"description":290},"1600-08-30","宇喜多秀家の軍が攻め手に加わる","西軍の攻め手に宇喜多秀家の軍が加わり、城への圧力が強まる",{"date":48,"event":292,"description":293,"link":286},"伏見城で討ち死に","13日間の攻防の末に城が落ち、鈴木重朝と一騎打ちの末に討たれる。享年62。首は京橋口にさらされたが、親しくしていた京の商人・佐野四郎右衛門が引き取り、知恩院の長源院に葬ったといわれる","zMa1TGCx1I-rgWwrCwN6arqm1u4OgLhkvaeE4c6wF1c",{"id":296,"title":297,"affiliateItems":298,"aliases":301,"battles":306,"birth":364,"body":372,"death":492,"description":501,"domain":502,"extension":158,"family":503,"familyNotes":555,"faq":564,"image":11,"kamon":574,"lastUpdated":575,"meta":576,"name":577,"nameKana":578,"navigation":212,"path":579,"publishedDate":575,"representativeTitle":580,"seo":581,"sources":582,"stem":596,"timeline":597,"__hash__":693},"busho/busho/滝川一益.md","織田氏宿老・伊勢長島城主・上野厩橋城主",[299,300],"000275","000170",[302,303,304,305],"左近将監","伊予守","彦右衛門","入庵",[307,311,315,319,321,323,326,329,333,337,340,344,348,352,356,360],{"slug":308,"date":309,"role":310},"大河内城の戦い","1569-01-01","北畠具教の弟・木造具政を味方に引き入れる。開城後は津田一安と城を受け取る",{"slug":312,"date":313,"role":314},"一乗谷城の戦い","1573-01-01","織田軍に加わる",{"slug":316,"date":317,"role":318},"長島一向一揆","1574-01-01","天正2年の攻撃で九鬼嘉隆らと水軍を指揮し、船上から銃撃して陸の織田軍を支える",{"slug":28,"date":29,"role":320},"鉄砲隊をまとめて指揮する",{"slug":322,"date":25,"role":314},"越前一向一揆",{"slug":324,"date":325,"role":314},"天王寺合戦","1576-01-01",{"slug":327,"date":328,"role":314},"紀州征伐","1577-01-01",{"slug":330,"date":331,"role":332},"第二次木津川口の戦い","1578-01-01","九鬼嘉隆の黒船6隻とともに、一益の白船1隻が出撃。鉄甲船づくりに関わる",{"slug":334,"date":335,"role":336},"有岡城の戦い","1579-01-01","上﨟塚砦の守将を寝返らせ、有岡城の守りを崩す",{"slug":338,"date":33,"role":339},"天正伊賀の乱","甲賀方面から伊賀へ攻め入る",{"slug":341,"date":342,"role":343},"甲州征伐","1582-03-01","河尻秀隆とともに軍監を務め、森長可らと主力を担う。武田勝頼を天目山のふもとで討つ",{"slug":345,"date":346,"role":347},"沼田城の戦い","1582-07-02","藤田信吉に攻められた沼田城へ2万の兵で急行し、反乱を鎮める",{"slug":349,"date":350,"role":351},"神流川の戦い","1582-07-08","滝川軍の大将。1万8千の兵で北条軍に当たり、18日の戦いには勝ったが19日の決戦に敗れる",{"slug":353,"date":354,"role":355},"賤ヶ岳の戦い","1583-06-11","柴田勝家に味方して北伊勢で秀吉の大軍を3月まで食い止める。勝家の死後も長島城にこもったが7月に降る",{"slug":357,"date":358,"role":359},"小牧・長久手の戦い","1584-05-18","秀吉方につき、信雄方の九鬼嘉隆・前田長定を寝返らせて蟹江城を奪う",{"slug":361,"date":362,"role":363},"蟹江城合戦","1584-07-01","兵3千で蟹江浦に上陸して蟹江城を奪うが、家康・信雄の本隊に囲まれ、半月あまりで城を明け渡す",{"date":365,"place":366,"source":367,"theories":368},"1525-01-01","近江国甲賀郡（現在の滋賀県甲賀市）とされる","大永5年。亡くなった年と享年から割り出した生年で、月日はわからない。信長に仕える前の経歴もはっきりしない",[369],{"date":365,"place":370,"source":371},"尾張国海西郡（現在の愛知県愛西市・弥富市周辺）","三男・辰政が岡山藩に出した先祖書の記載",{"type":55,"value":373,"toc":479},[374,376,379,382,385,387,390,393,396,399,402,405,408,411,414,417,420,423,426,429,432,435,438,441,444,447,450,453,456,459,462,465,468,470,473,476],[58,375,60],{"id":60},[62,377,378],{},"滝川一益は、織田信長のもとで重臣として働いた戦国武将・大名です。名前はふつう「たきがわ かずます」と読まれますが、江戸幕府がまとめた2つの系譜集（『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』）では、どちらも諱を「いちます」と読ませています。通称は左近で、官途名の左近将監でも呼ばれました。",[62,380,381],{},"家は近江国甲賀郡の出とされ、甲賀の国人の一族とみる説もあります。信長の家臣としては、伊勢攻めの先鋒で頭角を現して北伊勢5郡を本拠とし、長島一向一揆との戦いでは船団を、長篠の戦いでは鉄砲隊を率いるなど、各地で働きました。天正10年（1582年）の武田攻めでは武田勝頼を討ち取り、恩賞として上野一国と信濃2郡を与えられて、関東の諸将をとりまとめる立場に就きます。",[62,383,384],{},"ところがその3ヶ月後に本能寺の変が起こります。上野へ攻め込んできた北条氏直・氏邦と神流川で戦って敗れ、一益は関東を捨てて伊勢へ戻りました。清洲会議に間に合わなかったことで織田家中での発言力を失い、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家に味方して領地を没収されます。小牧・長久手の戦いでは秀吉方として蟹江城を攻めましたが、これも失敗に終わり、天正14年（1586年）に越前大野で亡くなりました。",[58,386,73],{"id":73},[75,388,389],{"id":389},"家の出自と信長への仕官",[62,391,392],{},"江戸幕府の系譜集によると、滝川家は紀氏の流れで、もとは河内国の出身です。河内の高安庄司の子孫が近江国甲賀郡に移り、一宇野城から滝の城へ移り住んだことで滝川を名乗るようになったといいます。これとは別に、甲賀伴党と呼ばれる国人集団の大原氏の一族とみる説も有力で、一益が甲賀衆に宛てた文書には「大原滝川」と署名したものが残っています。一益を甲賀の忍者とする見方もありますが、甲賀の武士の家とされること以外に裏付けはありません。",[62,394,395],{},"信長に仕えるまでの一益については、確かなことがほとんどわかっていません。『寛永諸家系図伝』は、若い頃から鉄砲が得意で、河内で一族の高安某を殺して国を離れたと記します。水戸藩の佐々宗淳は、博打と素行の悪さから一族に追い出され、尾張津島の知人を頼ったと書き残しました。ただ、一益より前の時代から尾張で滝川姓の武士が織田氏に仕えていた記録もあり、もともと尾張の武士だったとする説もあります。",[62,397,398],{},"信長の家臣としての最初の記録は、『信長公記』首巻の一節です。信長が催した踊りで「滝川左近衆」が餓鬼の役を演じたとあります。ここから、遅くとも永禄元年（1558年）まで、早ければ天文24年（1555年）には織田家に仕えていたとみられます。信長の乳兄弟・池田恒興を一益の従兄弟とする説もあり、織田家の周辺とは早くから縁続きだったともいわれます。",[75,400,401],{"id":401},"伊勢攻めと長島一向一揆",[62,403,404],{},"一益の名が大きく出てくるのは、永禄10年（1567年）と翌11年の伊勢攻めです。先鋒として北伊勢の小領主たちを次々に滅ぼし、続く北畠氏との戦いでは、木造氏出身の僧・源浄院主玄（のちの滝川雄利）を仲立ちにして北畠具教の弟・木造具政を味方に引き入れました。大河内城が開城すると、津田一安とともに城の受け取りにあたり、その後は安濃津・渋見・木造の3城を守っています。永禄12年（1569年）には北伊勢5郡を与えられ、ここが一益の本拠となりました。主玄には滝川の名字を名乗らせ、北畠家を継いだ信長の次男・信雄の家老に据えています。",[62,406,407],{},"元亀元年（1570年）、石山本願寺が信長に対して兵を挙げると、長島の門徒もいっせいに蜂起しました。11月に信長の弟・信興が小木江城で討たれたとき、一益は桑名城にこもって持ちこたえています。以後は北伊勢で一揆勢とにらみ合いながら、尾張の守りや各地の戦いに駆り出されました。天正元年（1573年）4月末に足利義昭と信長の重臣たちが起請文を取り交わした際、一益は義昭が宛てた側にも、信長方の差出人の側にも名前がみえ、すでに重臣の一人とみなされていたことがわかります。",[62,409,410],{},"天正2年（1574年）、長島への3度目の攻撃では、九鬼嘉隆らとともに船団を率い、海から銃撃を浴びせて陸の織田軍を支えました。長島一向一揆が鎮められると、一益は長島城と北伊勢の5郡を与えられています。",[75,412,413],{"id":413},"各地を転戦する",[62,415,416],{},"天正3年（1575年）の長篠の戦いでは鉄砲隊をまとめて指揮し、同じ年の越前一向一揆攻めにも加わりました。天王寺合戦（天正4年・1576年）と、翌年の紀州征伐にも出陣しています。第二次木津川口の戦い（天正6年・1578年）では、九鬼嘉隆の黒船6隻に一益の白船1隻が加わって出撃しており、一益も鉄甲船づくりに関わっていました。荒木村重が背いた有岡城の戦いでは、上﨟塚砦を守る将を寝返らせて城の守りを崩し、天正7年（1579年）11月の落城につなげています。木津川口と有岡城での勝利によって石山本願寺への補給は細り、翌年4月、本願寺の顕如は信長に屈しました。",[62,418,419],{},"天正8年（1580年）、北条氏政が信長のもとへ使者を送った際、一益は武井夕庵・佐久間信盛とともにその取次を命じられました。同じ年に信盛が追放されると、北条氏との窓口は一益が一手に引き受けるようになります。翌天正9年（1581年）の伊賀攻めでは甲賀方面から攻め入りました。この年には、京都の妙心寺の中に、子の九天宗瑞を開祖とする暘谷庵を建てています。",[75,421,422],{"id":422},"武田攻めと上野の領主",[62,424,425],{},"天正10年（1582年）、信長は嫡男・信忠を総大将に武田攻めを始めます。一益は2月12日に出陣し、河尻秀隆とともに軍監として信忠を補佐しながら、森長可らと並んで攻撃の中心を担いました。3月11日には、逃げる武田勝頼を天目山のふもとで追い詰めて討ち取っています。信長は一益に名馬「海老鹿毛」と短刀を贈り、3月23日には上野一国と信濃の小県・佐久2郡を与えました。一益はこのとき伊予守に任じられています。",[62,427,428],{},"一益に求められたのは、関東の諸将を従えるだけでなく、甲斐・信濃も含めた東国の武将たちをまとめ、上杉氏などの敵に備えることでした。江戸時代の軍記物はこの地位を「関東管領」と呼びますが、室町幕府の役職を信長が任じたとは考えにくく、当時の史料にもその呼び名はみえません。",[62,430,431],{},"一益は箕輪城に入った後、5月下旬に厩橋城へ移りました。沼田城には甥の滝川益重、松井田城には津田秀政、小諸城には道家正栄を置いています。上野の国衆には元からの領地を保証すると約束したため、周りの領主たちは人質を差し出して次々に一益のもとへ出向きました。天徳寺宝衍と倉賀野秀景を身近に置き、北条氏政・氏直父子や佐竹義重、里見義頼に加え、東北の伊達輝宗・蘆名盛隆とも連絡をとっています。北条氏政に命じて下野の祇園城を元の城主・小山秀綱へ返させたことからも、一益の権限の大きさがうかがえます。5月上旬には上野の領主たちを厩橋城に招いて能を催し、息子2人とともに自ら「玉蔓」を舞いました。",[75,433,434],{"id":434},"本能寺の変と神流川の戦い",[62,436,437],{},"6月2日、信長は本能寺で討たれました。一益のもとに知らせが届いたのは6月7日です。10日、一益は重臣たちの反対を押し切って上野の諸将を集め、信長父子の死を包み隠さず伝えました。そのうえで、北条氏と一戦を交えてから上方へ戻るつもりであり、自分の首を手土産に北条へ寝返りたい者は遠慮なくかかってこい、と言い放ったと伝わります（『上毛古戦記』）。変の知らせに乗じて沼須城の藤田信吉が背き、沼田城を攻めましたが、一益は2万の兵で駆けつけてこれを退けました（沼田城の戦い）。",[62,439,440],{},"北条氏政は6月11日付の手紙で、これまでどおり友好を保つと一益に伝えていました。しかし翌12日には領国に動員をかけ、16日には北条氏直・氏邦らの大軍が上野の倉賀野へ攻め込みます。一益は厩橋城に滝川忠征、松井田城に津田秀政らを残し、1万8千の兵で迎え撃ちました。18日の戦いには勝ったものの、19日の決戦で敗れ、味方の上野衆からも木部貞朝や倉賀野秀景の息子たちが討死しています（神流川の戦い）。",[62,442,443],{},"一益はその夜のうちに倉賀野城を経て厩橋へ戻り、長昌寺で戦死した者たちを弔いました。20日には預かっていた北条高広の次男などの人質を返し、太刀や金銀、秘蔵の掛物を上野の諸将に分け与えてから、夜になって箕輪城を発ちます。松井田城の兵を加えて碓氷峠を越え、21日に小諸城へ入りました。一行は依田康国や真田昌幸の母など、佐久・小県の国衆から預かった人質も連れていました。伊勢の長島へ帰ろうとする一益に対し、木曽の木曾義昌は通行を拒みます。一益はその人質を引き渡すことを条件に義昌と話をつけ、28日にようやく織田領の美濃へ入りました。",[75,445,446],{"id":446},"賤ヶ岳の戦いと出家",[62,448,449],{},"一益が尾張に戻ったとき、清洲会議はすでに終わっていました。関東を失って発言力の落ちた一益は、信長の遺領をあらためて分け直すよう求めましたが、会議の取り決めが崩れることを嫌った秀吉ら重臣に退けられます。その後、会議の結果に不満を持つ信長の三男・信孝と、これを支える柴田勝家が、三法師を立てた秀吉と対立するようになりました。",[62,451,452],{},"天正11年（1583年）の元日、一益は勝家の側に立って秀吉と戦い始めます。北伊勢の城を次々に落とし、7万近い秀吉方の軍勢を相手に3月まで持ちこたえました。勝家が北から攻め上った後も、織田信雄と蒲生氏郷の2万近い兵を長島城の前に引きつけています。しかし勝家は賤ヶ岳の戦いに敗れて4月23日に北ノ庄で自害し、29日には信孝も岐阜城を失って、一益は孤立しました。長島城での抵抗は7月まで続きましたが、ついに降伏して領地をすべて取り上げられます。一益は京都の妙心寺で髪を剃り、入庵と名乗りました。伊勢の旧領は信雄のものになりました。",[75,454,455],{"id":455},"蟹江城合戦と晩年",[62,457,458],{},"領地を失った一益は、丹羽長秀を頼って越前で謹慎しました。それでも秀吉を茶会に招くなど、上方との関わりは保っています。",[62,460,461],{},"天正12年（1584年）になると、信長の次男・信雄が徳川家康と組んで秀吉に対抗すると（小牧・長久手の戦い）、一益は秀吉方につきました。信雄方の九鬼嘉隆と前田長定を寝返らせ、6月16日に伊勢の白子浦から3千の兵を船で運んで蟹江浦に上陸し、蟹江城・下市場城・前田城を押さえます。当時の蟹江城は海に面し、信雄の長島城と家康の清洲城のちょうど間にある要地でした。しかし大野城は落とせず、家康と信雄の本隊に下市場城・前田城を取り返され、蟹江城も囲まれてしまいます。一益は城を明け渡す交渉も交えながら半月あまり粘りましたが、7月3日に開城しました。城を出る途中で襲われて前田長定が討たれ、一益はかろうじて船で伊勢へ逃れています（蟹江城合戦）。",[62,463,464],{},"それでも秀吉は一益の働きを認め、7月12日、かねての約束どおり次男・一時に1万2千石、一益に3千石を与える判物を出しました。一方で長男・一忠は、負けた責任を負わされて追放されています。晩年の一益は、天徳寺宝衍・山上道及らとともに関東・東北の大名との交渉を受け持ち、佐竹義重や梶原政景への書状で、秀吉がいずれ北条氏を攻めることを伝えていました。こうした働きかけは、のちに北条氏を追い詰める一因になったと考えられています。",[62,466,467],{},"一益が越前大野で亡くなったのは天正14年（1586年）9月9日のことです。享年62とされます。一方、越前の今立大滝には、目を患って出家した一益がこの地に立ち寄った際、かつての一向一揆攻めで村を焼かれた恨みから村人に襲われて殺されたという言い伝えも残ります。ただしこの話は、同じく信長の家臣で越前の一揆に殺された前波吉継の最期とよく似ており、取り違えではないかともいわれています。",[58,469,128],{"id":128},[62,471,472],{},"一益は伊勢・長島の平定から本願寺との戦い、武田攻めまで、信長の主要な戦いのほとんどに関わった重臣でした。とくに鉄砲隊や船団の指揮、敵方の武将を寝返らせる調略で成果を挙げており、天正元年の起請文で信長方の重臣に名を連ねていることからも、家中での重みがわかります。",[62,474,475],{},"その一方で、上野を任されてわずか3ヶ月で本能寺の変に遭い、神流川で敗れて関東を手放したことが、その後の転落の始まりになりました。清洲会議に出られなかったことで織田家中の主導権争いから外れ、賤ヶ岳・蟹江城と続けて敗れています。ただ、晩年も秀吉の東国外交を支えており、その活動は小田原征伐へ向かう流れの中で北条氏を不利に追い込むことにつながったとされます。",[62,477,478],{},"茶の湯を好んだ武将としても知られます。上野を与えられた際に茶入「珠光小茄子」を望んでかなわず、「遠国にをかせられ候条、茶の湯の冥加つき候」と嘆いた手紙が残っています。信長から拝領したと伝わる古備前高綱の太刀は国の重要文化財に指定され、静嘉堂文庫美術館が所蔵しています。",{"title":139,"searchDepth":140,"depth":140,"links":480},[481,482,491],{"id":60,"depth":140,"text":60},{"id":73,"depth":140,"text":73,"children":483},[484,485,486,487,488,489,490],{"id":389,"depth":146,"text":389},{"id":401,"depth":146,"text":401},{"id":413,"depth":146,"text":413},{"id":422,"depth":146,"text":422},{"id":434,"depth":146,"text":434},{"id":446,"depth":146,"text":446},{"id":455,"depth":146,"text":455},{"id":128,"depth":140,"text":128},{"date":493,"place":494,"cause":495,"source":496,"theories":497},"1586-10-21","越前国大野（現在の福井県大野市）","病死","天正14年9月9日。享年62とされる",[498],{"date":493,"place":499,"cause":500},"越前国今立大滝（現在の福井県越前市）","地元には村人に襲われて殺されたという言い伝えがある（前波吉継の最期と取り違えた可能性も指摘される）","織田信長の宿老。伊勢攻めと長島一向一揆で功を重ね、武田氏を滅ぼした後は上野一国を任されて関東の諸大名との取次にあたった。本能寺の変の直後、神流川の戦いで北条氏に敗れて関東を失った","北伊勢5郡・上野一国・信濃小県郡・佐久郡",{"father":504,"mother":161,"wives":505,"children":509,"adoptedChildren":542},"滝川一勝",[506],{"name":507,"note":508},"柴田勝家の妹","系図による説",[510,514,517,521,525,529,532,535,538],{"name":511,"rank":512,"note":513},"滝川一忠","長男","蟹江城合戦後追放",{"name":515,"rank":175,"note":516},"滝川一時","家康に仕える",{"name":518,"rank":179,"note":519,"footnoteMarker":520},"滝川辰政","岡山藩滝川家祖","※1",{"name":522,"rank":523,"note":524},"滝川知卜斎","四男","鳥取滝川氏の祖",{"name":526,"note":527,"footnoteMarker":528},"滝川弥次郎","徳島藩に仕える","※2",{"name":530,"note":531,"footnoteMarker":528},"滝川万五郎","甲賀時代の子と伝承",{"name":533,"note":534,"footnoteMarker":528},"滝川松斎","京都に隠棲",{"name":536,"note":537},"九天宗瑞","暘谷庵の開祖",{"name":539,"note":540,"footnoteMarker":541},"慈徳院","織田信忠の乳母","※3",[543,546,551],{"name":544,"note":545},"養女","津田秀政に嫁ぐ",{"name":547,"biologicalFather":548,"note":549,"footnoteMarker":550},"滝川雄利","木造氏","娘婿とする説","※4",{"name":552,"biologicalFather":553,"note":554,"footnoteMarker":550},"滝川忠征","木全忠澄","養子説あり",[556,557,558,559,560,561,562,563],"※ 父を滝川一勝とするのは『信輝本系傳聞記』。同書は、大原氏（甲賀伴党）の一族から滝川家を継いだ貞勝の長男を一勝とし、一益をその子とする","※ 妻を柴田勝家の妹とする系図がある。信長の娘とする系図（『続群書類従』所収「織田系図」）もあるが、信頼性は低いとされる","※1 辰政は『寛政重修諸家譜』には載らないが、一益の三男とされる。子孫から刑法学者の瀧川幸辰が出た","※2 弥次郎・万五郎・松斎は、子孫の家に伝わる系譜や伝承で一益の子とされる人物。弥次郎と松斎は、それぞれの子孫側の記録では嫡男（嫡子）とされている","※3 慈徳院は一益の親族とされる女性で、『妙心寺史』は一益の娘とする。信長の側室でもあった","※4 雄利は一益から滝川の名字を与えられた人物で、娘婿に迎えたともいわれる。忠征も一益から滝川の名字を与えられた家臣で、養子とする説があるが、系図では確認できない","※ 池田恒興や、佐久間信盛の妻の兄弟にあたる前田種定（長定）を、一益の従兄弟とする説がある","※ 滝川益重（益氏）は一益の甥。孫の滝川一積（一忠の子）は真田昌幸の娘を妻とした",[565,568,571],{"question":566,"answer":567},"滝川一益は忍者だったのですか？","一益を甲賀の忍者とみる説がありますが、甲賀の武士の家とされること以外に裏付けがなく、研究のうえでは退けられています。家の出自については、近江国甲賀郡の滝の城に移って滝川を名乗った紀氏の流れとする系譜のほか、甲賀の国人・大原氏の一族とみる説が有力です。一益より前から尾張で滝川姓の武士が織田氏に仕えていたことから、もともと尾張の武士だったとみる説もあります。",{"question":569,"answer":570},"滝川一益は「関東管領」だったのですか？","江戸時代の軍記物（『北条五代記』『関八州古戦録』など）はそう呼んでいますが、当時の史料には出てきません。関東管領は室町幕府の役職なので、将軍・足利義昭を追放した信長が任命したと考えるのは筋が通らず、疑う研究者もいます。実際の一益は、上野一国と信濃2郡の領主として関東の諸将をとりまとめ、北条・佐竹・里見に加えて東北の伊達・蘆名とも連絡をとる大きな権限を持っていました。",{"question":572,"answer":573},"滝川一益が上野国より欲しがった茶器とは何ですか？","「珠光小茄子」という茶入です。上野国を与えられたとき、一益は領地よりこの茶器を望んだものの、願いはかないませんでした。京都の茶人・三国一太郎五郎への手紙には「遠国にをかせられ候条、茶の湯の冥加つき候」と書き、遠い関東へ送られて茶の湯とも縁が切れてしまったと嘆いています。","/kamon/丸に滝.png","2026-09-27",{},"滝川一益","たきがわ かずます","/busho","左近将監・伊予守",{"title":297,"description":501},[583,587,590,593,595],{"title":584,"author":585,"type":586},"信長軍の司令官","谷口克広","研究書",{"title":588,"author":589,"type":586},"天正壬午の乱 増補改訂版","平山優",{"title":591,"type":592},"信長公記","一次史料",{"title":594,"type":592},"勢州軍記",{"title":217,"type":592},"busho/滝川一益",[598,601,604,608,611,615,619,622,624,627,629,632,636,639,642,646,650,654,659,661,664,668,672,675,679,682,686,690],{"date":365,"event":599,"description":600},"誕生","大永5年生まれ（亡くなった年と享年からの逆算）。江戸幕府が編んだ系譜集では、紀氏の流れをくみ、近江国甲賀郡の滝の城に移って滝川を名乗った家とされる。甲賀伴党の大原氏の一族とみる説も有力で、一益自身「大原滝川」と署名した文書が残る",{"date":233,"event":602,"description":603},"織田信長に仕える","『信長公記』首巻に、信長主催の踊りで「滝川左近衆」が餓鬼に扮したという記事があり、天文24年から永禄元年の間には信長の家臣になっていたとみられる。それ以前の経歴ははっきりしない",{"date":605,"event":606,"description":607},"1567-01-01","伊勢攻めの先鋒","永禄10年・11年の2度にわたる伊勢攻めで先鋒を務め、北伊勢の小領主たちを次々に滅ぼして名を上げた",{"date":309,"event":609,"description":610},"大河内城の戦いと北伊勢5郡","木造氏出身の僧・源浄院主玄（のちの滝川雄利）を仲立ちに、北畠具教の弟・木造具政を織田方に引き入れた。大河内城の開城では津田一安と城を受け取り、その後は安濃津・渋見・木造の3城を守った。この年、北伊勢5郡を与えられて本拠とする",{"date":612,"event":613,"description":614},"1570-12-01","長島一向一揆が起こる","元亀元年、石山本願寺の挙兵に呼応して長島の門徒も立ち上がり、11月には信長の弟・信興が小木江城で討たれた。一益は桑名城に入って守りを固め、その後も北伊勢で一揆に備えながら、尾張の守りや各地の戦いに回った",{"date":616,"event":617,"description":618},"1573-06-01","足利義昭との起請文","天正元年4月末、足利義昭と信長の重臣たちが起請文を取り交わした。一益は義昭が宛てた側と、信長方の差出人の側の両方に名前がみえ、重臣の一人と目されていたことがわかる。同じ年、朝倉氏の一乗谷攻めにも加わった",{"date":317,"event":620,"description":621},"長島一向一揆を鎮める","天正2年、長島への3度目の攻撃で九鬼嘉隆らと船団を率い、海から銃撃して陸の織田軍を支えた。戦後、長島城と北伊勢の5郡を得た",{"date":29,"event":28,"description":623,"link":254},"天正3年の長篠の戦いで鉄砲隊をまとめて指揮した。同じ年の越前一向一揆攻めにも加わっている",{"date":325,"event":625,"description":626},"天王寺合戦・紀州征伐","天正4年の天王寺合戦、翌5年の紀州征伐に出陣した",{"date":331,"event":330,"description":628},"天正6年、九鬼嘉隆の黒船6隻とともに一益の白船1隻が出撃した。一益も鉄甲船づくりに携わっていた",{"date":630,"event":334,"description":631},"1579-12-01","荒木村重がこもる有岡城の攻めで、上﨟塚砦を守る将を寝返らせて城の守りを崩した（天正7年11月落城）。木津川口の勝利と合わせて本願寺への補給が細り、翌年4月、顕如は信長に屈した",{"date":633,"event":634,"description":635},"1580-01-01","北条氏との取次役に","天正8年、北条氏政の使者が信長のもとへ来た際、武井夕庵・佐久間信盛とともに取次を命じられた。同じ年に信盛が追放されると、北条氏との窓口は一益一人が担うようになる",{"date":33,"event":637,"description":638},"伊賀攻めと暘谷庵","天正9年の伊賀攻めでは甲賀方面から攻め入った。この年、京都の妙心寺の中に、子の九天宗瑞を開祖とする暘谷庵を建てている",{"date":342,"event":640,"description":641},"甲州征伐に出陣","天正10年2月12日、織田信忠が率いる武田攻めに出陣。河尻秀隆とともに軍監を務め、森長可らと並んで攻撃の中心となった",{"date":643,"event":644,"description":645},"1582-04-03","武田勝頼を討つ","天正10年3月11日、逃げる武田勝頼を天目山のふもとで追い詰めて討ち取った。信長からは名馬「海老鹿毛」と短刀を贈られている",{"date":647,"event":648,"description":649},"1582-04-15","上野一国を得る","天正10年3月23日、上野一国と信濃の小県・佐久2郡を与えられ、伊予守となった。関東や甲斐・信濃の諸将をまとめ、上杉氏などに備えることが役目だった。のちの軍記物はこれを「関東管領」と呼ぶが、当時の史料にその呼び方はみえない",{"date":651,"event":652,"description":653},"1582-06-01","厩橋城で能を催す","箕輪城から厩橋城へ本拠を移し、5月上旬には上野の領主たちを招いて能を催した。一益は息子2人とともに自ら「玉蔓」を舞っている。『群馬県史』は、新しい領主の力を国衆に見せるための催しだったとみる",{"date":655,"event":656,"description":657,"link":658},"1582-06-26","本能寺の変を知る","天正10年6月2日に信長が本能寺で討たれ、一益がそれを知ったのは6月7日だった。10日、重臣が止めるのを聞かずに上野の諸将を集めて信長父子の死を明かし、北条氏と一戦してから上方へ戻る決意を告げたという（『上毛古戦記』）","/battles/本能寺の変",{"date":346,"event":345,"description":660},"変の知らせを受けて沼須城の藤田信吉が背き、甥の滝川益重が守る沼田城を攻めた。6月13日、一益は2万の兵を率いて駆けつけ、信吉を退けた",{"date":350,"event":349,"description":662,"link":663},"北条氏直・氏邦の大軍が上野へ攻め込み、一益は1万8千の兵で迎え撃った。6月18日の戦いには勝ったものの、19日の決戦で敗れる。その夜は厩橋に引き返し、長昌寺で戦死者を弔った","/battles/神流川の戦い",{"date":665,"event":666,"description":667},"1582-07-17","伊勢へ戻る","6月20日に預かっていた人質を上野の諸将へ返し、箕輪城を出た。碓氷峠を越えて小諸城に入り、行く手をふさぐ木曾義昌には佐久・小県の人質を渡すことで道を開けてもらい、28日に美濃へ入った。清洲会議には加われず、織田家中での立場は大きく下がった",{"date":669,"event":670,"description":671},"1583-02-01","秀吉と戦う","天正11年の元日、柴田勝家の側に立って羽柴秀吉と戦い始めた。北伊勢の城を次々に落とし、7万近い秀吉方の軍勢を相手に3月まで持ちこたえた",{"date":354,"event":353,"description":673,"link":674},"勝家が北から攻め上った後も、織田信雄・蒲生氏郷の2万近い兵を長島城の前に引きつけた。しかし勝家は賤ヶ岳で敗れて4月23日に自害し、織田信孝も岐阜城を失い、一益は孤立した","/battles/賤ヶ岳の戦い",{"date":676,"event":677,"description":678},"1583-08-01","降伏して出家","長島城で抵抗を続けたが7月に降り、領地をすべて失った。京都の妙心寺で髪を剃り、入庵と名乗る。その後は丹羽長秀を頼って越前で謹慎しながらも、秀吉を茶会に招くなど上方との関わりを保った",{"date":362,"event":361,"description":680,"link":681},"天正12年の小牧・長久手の戦いでは秀吉方についた。信雄方の九鬼嘉隆・前田長定を寝返らせ、6月16日に3千の兵で蟹江浦へ上陸して、蟹江・下市場・前田の3城を押さえた。しかし家康と信雄の本隊に囲まれ、半月あまり持ちこたえたのち7月3日に城を明け渡した","/battles/小牧・長久手の戦い",{"date":683,"event":684,"description":685},"1584-08-01","大名に戻る","7月12日、かねての約束どおり、秀吉は次男・一時に1万2千石、一益に3千石を与える判物を出した。一方、長男・一忠は負けた責任を負わされて追放された",{"date":687,"event":688,"description":689},"1585-12-01","秀吉の東国外交を担う","天徳寺宝衍・山上道及らとともに、関東・東北の大名との交渉を受け持った。天正12年6月には佐竹義重へ、天正13年11月には梶原政景へ書状を送り、秀吉が北条氏を攻めるつもりであることを伝えている",{"date":493,"event":691,"description":692},"死去","天正14年9月9日、越前大野で亡くなった。享年62とされる。越前の今立大滝には、かつての一向一揆攻めで村を焼かれた恨みから、村人が一益を襲って殺したという言い伝えも残る","czSdkkoREgDiv1mjGCobUQmt4bWY5DNHziec56qBjjE",{"id":695,"title":696,"affiliateItems":697,"aliases":701,"battles":704,"birth":754,"body":767,"death":891,"description":896,"domain":897,"extension":158,"family":898,"familyNotes":951,"faq":959,"image":11,"kamon":969,"lastUpdated":970,"meta":971,"name":972,"nameKana":973,"navigation":212,"path":579,"publishedDate":970,"representativeTitle":974,"seo":975,"sources":976,"stem":991,"timeline":992,"__hash__":1083},"busho/busho/佐々成政.md","越中富山城主・肥後国主",[698,699,700],"000273","000274","000271",[702,703],"内蔵助","羽柴陸奥守",[705,709,713,715,717,719,721,724,728,730,734,736,738,742,746,750],{"slug":706,"date":707,"role":708},"森部の戦い","1561-01-01","池田恒興と力を合わせ、敵の将・稲葉又右衛門を討ち取る",{"slug":710,"date":711,"role":712},"観音寺城の戦い","1568-01-01","足利義昭を立てて京へ上る信長の軍に加わる",{"slug":308,"date":309,"role":714},"柴田勝家・森可成・不破光治と並んで、城の東から攻める部隊を指揮する",{"slug":18,"date":19,"role":716},"合戦の前の「八相山の退口」で、簗田広正・中条家忠らと退却する軍の最後尾を守り、鉄砲隊を使って働いたとされる",{"slug":316,"date":317,"role":718},"織田軍の一員として戦い、長男の松千代丸を亡くす",{"slug":28,"date":29,"role":720},"前田利家らとともに3,000人の鉄砲隊を指揮する",{"slug":722,"date":325,"role":723},"石山合戦","府中三人衆の一人として、北陸から畿内へ呼ばれて戦う（いつ加わったかは資料に書かれていない）",{"slug":725,"date":726,"role":727},"手取川の戦い","1577-11-03","柴田勝家らと加賀へ攻め込むが、七尾城が落ちたと知って引き返す",{"slug":334,"date":331,"role":729},"荒木村重を討つ戦いに加わる。府中三人衆は荒木の一族を処刑する役を命じられ、実際に手を下した",{"slug":731,"date":732,"role":733},"魚津城の戦い","1582-06-22","北陸の織田軍として3か月囲んで落とす。本能寺の変の後、上杉方に入られた城をもう一度取り返した",{"slug":353,"date":354,"role":735},"柴田勝家の側についたが、上杉景勝を警戒して越中を離れられず、叔父の佐々平左衛門に600人を預けて送るだけに終わる",{"slug":357,"date":358,"role":737},"はじめは秀吉の側で佐々平左衛門を送ったが、途中で織田信雄・徳川家康の側に移る",{"slug":739,"date":740,"role":741},"末森城の戦い","1584-10-12","自ら大将となり、15,000人で前田方の末森城を囲む。しかし救援に来た前田利家に後ろから攻められて敗れる",{"slug":743,"date":744,"role":745},"富山の役","1585-09-19","富山城を秀吉の大軍に囲まれ、織田信雄の取りなしで降参する",{"slug":747,"date":748,"role":749},"九州平定","1587-01-01","秀吉の九州攻めで手柄を立て、戦後の領地の割り振りで肥後一国を得る",{"slug":751,"date":752,"role":753},"肥後国人一揆","1587-08-01","肥後の国主として7,000人を率いて鎮めに向かうが抑えきれず、秀吉に援軍を頼む",{"date":755,"place":756,"source":757,"theories":758},"1536-02-06","尾張国春日井郡比良城（現在の愛知県名古屋市西区）","天文5年1月15日。最も有力な享年53から割り出した年で、本当の生年ははっきりしない",[759,762,765],{"date":760,"source":761},"1512-01-01","永正9年（1512年）説",{"date":763,"source":764},"1516-01-01","永正13年（1516年）説",{"date":51,"source":766},"天文8年（1539年）説",{"type":55,"value":768,"toc":880},[769,771,774,777,780,782,785,788,791,794,797,800,803,806,809,812,815,818,821,824,827,830,833,836,839,842,845,848,851,854,857,860,863,866,868,871,874,877],[58,770,60],{"id":60},[62,772,773],{},"佐々成政は、戦国時代の終わりから安土桃山時代にかけて活躍した武将で、のちに大名となりました。通称は内蔵助です。家紋は棕櫚（シュロ）ですが、戦場の旗には佐々木一族に共通する四つ目結（隅立て四つ目）を掲げていたといいます。馬印は金の三階菅笠でした。徳川家光の正室・鷹司孝子は、成政の娘の子にあたります。",[62,775,776],{},"尾張国春日井郡の比良城を本拠とする土豪・佐々成宗の三男に生まれ、二人の兄が続けて戦死したことから家を継ぎました。織田信長のもとでは黒母衣衆の筆頭を務め、長篠の戦いでは前田利家らと鉄砲隊を率いています。越前が平定されると、利家・不破光治とともに「府中三人衆」として柴田勝家の北陸攻めに加わり、天正10年（1582年）には越中一国を任されて富山城に入りました。",[62,778,779],{},"本能寺の変の後は勝家の側につき、賤ヶ岳の戦いの後に髪を剃って羽柴秀吉に降ります。ところが小牧・長久手の戦いでは徳川家康・織田信雄の側に移り、前田利家の末森城を攻めて敗れました。真冬の北アルプスを越えて家康に再起を迫ったとされる「さらさら越え」も実を結ばず、天正13年（1585年）の富山の役で降参します。その後、九州攻めでの働きから肥後一国を与えられましたが、国人たちの一揆を招いて自力で鎮められず、その責めを負って天正16年（1588年）に腹を切りました。",[58,781,73],{"id":73},[75,783,784],{"id":784},"尾張で過ごした時代",[62,786,787],{},"佐々家は、尾張国春日井郡の比良城（いまの名古屋市西区）に拠った土豪で、はじめは織田信安に従っていたといわれます（『武功夜話』）。近江の佐々木氏（宇多源氏）から分かれた家で、尾張へ移ってきて斯波氏に、ついで織田氏に仕えるようになったと考えられています。ほかにも、上総国の佐々庄から尾張へ移ってきたとする説、藤原氏の流れとする説、菅原姓を名乗っていたとする説があります。",[62,789,790],{},"成政は佐々成宗の三男として比良城で生まれ、天文19年（1550年）に信長の家臣となりました（『尾張佐々系譜』）。上には政次と孫介という二人の兄がいましたが、すぐ上の孫介は弘治2年（1556年）の稲生の戦いに武者大将として出て、29歳で討死します。さらに長兄の政次も、永禄3年（1560年）の桶狭間の戦いで命を落としました。こうして成政は同じ年に父の跡を継ぎ、25歳で比良城の主となります。",[62,792,793],{},"永禄4年（1561年）の森部の戦いでは、池田恒興とともに、稲葉一鉄の叔父にあたる敵将・稲葉又右衛門（常通）を討ち取るという大きな手柄を立てました（『信長公記』）。そして永禄10年（1567年）には、黒母衣衆10人の筆頭に選ばれています。信長は黒母衣衆と赤母衣衆をそれぞれちょうど10人にそろえており、側近の中でも戦で名を上げた者をえりすぐったものと考えられています。黒母衣衆は馬廻から、赤母衣衆は小姓から選ばれたようです。",[62,795,796],{},"信長は永禄11年（1568年）、足利義昭を立てて6万の兵で京へ向かいました。途中の近江では六角義賢の蓑作城と観音寺城を落とし（観音寺城の戦い）、9月28日に京へ入ります。その軍勢の中に成政もいました。翌永禄12年（1569年）、信長が伊勢の北畠具教がこもる大河内城を攻めたときには、柴田勝家・森可成・不破光治と並んで、城の東から攻める部隊を指揮しています（『信長公記』）。",[62,798,799],{},"元亀元年（1570年）6月、姉川の戦いの前に行われた「八相山の退口」では、簗田広正・中条家忠らとわずかな馬廻を率いて退却の最後尾を受け持ち、鉄砲隊を使って働いたとされます（『信長公記』『当代記』）。続く天正2年（1574年）には長島一向一揆との戦いで長男の松千代丸を亡くしたとされ、長篠の戦い（天正3年・1575年5月21日）では、前田利家らとともに3,000人の鉄砲隊を率いました。",[62,801,802],{},"もっとも、越前に入る前の成政の働きは、そのほとんどが『信長公記』にしか記録がなく、実際にどんな経歴をたどったのかはよくわかっていません。",[75,804,805],{"id":805},"府中三人衆",[62,807,808],{},"天正3年（1575年）9月、越前を押さえた信長は、柴田勝家を北陸攻めの責任者に据えました。越前12郡のうち8郡は勝家に、府中まわりの2郡は成政・前田利家・不破光治の3人にまとめて与えられます。これが府中三人衆です。2郡はあわせて10万石ほどだったとされ、3人がいつも連名で政務を行っていることから、土地を分けずに、上がる収入だけを分け合う形だったとみられています。成政は小丸城を築いて住まいとしました。",[62,810,811],{},"府中三人衆は勝家の配下でありながら、織田軍が必要に応じて各地へ差し向ける、半ば独立した部隊のような役割も担っていました。上杉氏とにらみ合う一方、北陸の戦いが一段落するとたびたび畿内へ呼び出され、石山合戦、播磨の平定、荒木村重攻め（有岡城の戦い）にも出ています。荒木攻めでは、荒木の一族を処刑する役を命じられ、三人衆が実際にその手を下しました。",[62,813,814],{},"天正5年（1577年）8月には、能登に入り込んだ上杉勢を討つため、勝家らと加賀へ攻め込みました。しかし七尾城が落ちたため、10月に兵を引いています（手取川の戦い）。それでも翌天正6年（1578年）3月に上杉謙信が亡くなると、形勢は少しずつ織田方に傾いていきます。天正8年（1580年）3月に信長と石山本願寺が和睦すると北陸の戦いは勢いを増し、11月に勝家が加賀を平定すると、成政もこれに加わって能登・越中へと進みました。",[75,816,817],{"id":817},"越中の国主",[62,819,820],{},"天正8年（1580年）から、成政は神保長住を助けて越中の平定にあたります。越中は、一向一揆と上杉景勝の双方と向き合う最前線でした。この年の秋には川の治水にも取りかかり、富山の城下を水害から守るため、常願寺川に「佐々堤」と呼ばれる堤を築いています。常願寺川は中流の馬瀬口のあたりでたびたび堤が切れ、富山の城下に被害を出していました。成政は大勢の人手で大きな石を集め、馬瀬口の上手に、底の幅40メートル、長さ150メートルのかまぼこ形の霞堤を築いたといいます。",[62,822,823],{},"天正9年（1581年）の正月下旬から2月下旬ごろ、成政は富山城に入り、神保長住をはじめ越中の武士たちは成政の指揮のもとに組み入れられました。越前の旧領の後始末は、少なくとも同じ年の11月まで続いていたことがわかっています。",[62,825,826],{},"天正10年（1582年）3月、長住がかつての家臣の小島職鎮・唐人親広らに富山城を襲われ、捕らえられるという事件が起きました。長住は織田軍に助け出されたものの、その後追放されます。代わって越中一国を任された成政は、富山城を大がかりに造り直しました。この富山城を取り返す戦いの最中、考えの違いから勝家と言い争いになったという話も伝わります。成政の勢いが最も盛んだったのはこの頃でした。",[62,828,829],{},"成政が越中をどう治めたのかは、はっきりしないところが多く残っています。家臣に領地を与えたり認めたり、寺社に土地を寄進したりした文書は、偽物も含めて25点ほど見つかっており、どれも米の量を「石」ではなく「俵」で表しています。一向一揆や上杉氏と戦いながら、力で切り取った土地をそのつど割り当てていく厳しい支配で、石高を基準にした落ち着いた検地とは性格の違うものだったとみられます。",[62,831,832],{},"同じ年の6月、北陸の織田軍は、越中に残る上杉方最後の拠点・魚津城を3か月囲んだ末に落とし、景勝の本拠・春日山城をうかがうところまで迫っていました（魚津城の戦い）。ところがその直前に、京で本能寺の変が起きていました。知らせが届くと北陸の武将たちはそれぞれの領地へ戻り、そこへ上杉軍が反撃に出たため、成政はその守りに追われて動けなくなります。その間に、毛利輝元と和睦して急ぎ畿内へ引き返した羽柴秀吉が、山崎の戦いで明智光秀を討ち取りました。",[62,834,835],{},"6月27日の清洲会議をきっかけに、勝家と秀吉の間で織田家の主導権をめぐる争いが表に出ると、成政は勝家の側につきます。会議での領地の割り振りでは、越中をそのまま認められました。勝家の娘婿で佐久間盛政の弟にあたる佐久間勝之を養子に迎えていたことも、勝家に味方した理由とみられています。本能寺の変の後、いったん空になった魚津城には、須田満親の率いる上杉勢が入り込んでいましたが、成政はもう一度攻めて取り返しました。",[75,837,838],{"id":838},"秀吉との対立",[62,840,841],{},"天正11年（1583年）4月の賤ヶ岳の戦いでも勝家の側に立ちましたが、上杉景勝を警戒して越中を離れられず、叔父の佐々平左衛門に600人の兵を預けて送るのがやっとでした。前田利家の寝返りや景勝の動きもあって勝家が敗れると、成政は娘を人質に差し出し、髪を剃って秀吉に降参します。越中一国はそのまま認められました。畿内では、勝家が滅んだのは成政が裏切ったからだといううわさが流れていたといいます（『多聞院日記』）。",[62,843,844],{},"天正12年（1584年）の正月4日には、前田玄以とともに秀吉の茶会に呼ばれ（『宗及茶湯日記』）、同じ月の12日には陸奥守に任じられた礼を述べに宮中へ参っています。ところが家康が秀吉に逆らう姿勢をはっきりさせた3月からは、家康や大久保忠世とやりとりしていたことが確かめられるようになります。小牧・長久手の戦いが始まった当初、成政は丹羽長秀を通じて届いた秀吉の求めに応じ、佐々平左衛門を秀吉軍へ送っていました。家康の側に移った時期については5月中旬とも8月ともいわれ、7月に越中へ戻った平左衛門から秀吉軍の苦しい戦いぶりを聞いて決めたとする見方もあります。",[62,846,847],{},"8月28日、成政は秀吉についた前田利家の朝日山城に攻めかかりましたが、前田家の家臣・村井長頼に追い返されました。確かな史料の裏づけはないものの、これが秀吉に背いてから最初の出兵です。9月9日には、利家の領国の加賀と能登を切り離そうと宝達山を越えて坪山砦に陣を置き、15,000人で利家の末森城を囲みました。城はあと一歩で落ちるところまで追い詰められましたが、金沢城から駆けつけた利家に後ろを突かれて敗れます（末森城の戦い）。このころは越後の上杉景勝とも敵対しており、前後に敵を抱えた苦しい戦いが続きました。",[62,849,850],{},"小牧・長久手の戦いの途中で秀吉と信雄が和睦し、家康も兵を収めると、成政は真冬の飛騨山脈（北アルプス）・立山の山々を自分の足で越えて浜松まで行き、もう一度立ち上がるよう家康に迫ったとされます（さらさら越え）。けれども家康を動かすことはできず、信雄や滝川一益からもよい返事はもらえないまま、気落ちして越中へ帰りました。ただ、家康が成政を見捨てたわけではなく、富山の役の最中に秀吉方の真田昌幸を攻めた（第一次上田合戦）のは、秀吉の目をそらして成政を助けるためだったとする見方もあります。それでも成政は、豊臣にも前田にも背を向けたままでした。",[62,852,853],{},"天正13年（1585年）、逆らい続ける成政を討つため、秀吉は自ら越中へ乗り込み、大軍で富山城を囲みました。成政は信雄の取りなしで降参し（富山の役）、命は助けられましたが、越中東部の新川郡を残して領地はすべて取り上げられます。新川郡の城々にも、残った家臣が立ち上がらないよう前田家の青山氏や上杉家の舟見氏らが置かれ、富山城は壊されました。成政は越中にとどまることを許されず、妻子とともに大坂へ移され、しばらくは秀吉の話し相手を務める御伽衆として仕えます。暮らしを支える分として、摂津国能勢郡で1万石が与えられました。",[75,855,856],{"id":856},"肥後の国主と最期",[62,858,859],{},"成政は天正15年（1587年）に羽柴の名字を許されました。同じ年の九州攻めで手柄を立てたことから、戦後の九州の領地の割り振りでは肥後一国を与えられます。秀吉は急な改革を控えるよう言いつけたともいわれますが、病を抱えていた成政はすぐに検地に取りかかろうとし、これに反発した隈部親永を中心に国人たちがいっせいに兵を挙げました（肥後国人一揆）。成政は、自分の力ではこの一揆を収められませんでした。",[62,861,862],{},"天正16年（1588年）2月、成政はわびを入れに大坂へ出向きましたが、秀吉は会おうとせず、尼崎に閉じ込めます。安国寺恵瓊が命乞いをしても秀吉は聞き入れず、加藤清正を見届け役として、成政に腹を切るよう命じました。閏5月14日、成政は尼崎の法園寺で自害します。短刀を真横に引いた後、はらわたをつかみ出して天井へ投げつけたといわれます。",[62,864,865],{},"戒名は成政寺庭月洞閑大居士です。辞世は「このごろの 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今やぶるなり」で、呼び出されてから思い悩み続けた災いや迷いを詰め込んだ鉄鉢袋のような自分の体を、いま破って死んでいく、という悟りの境地を詠んだものとされます。墓は尼崎の法園寺にあり、平成10年（1998年）には、境内に建てられた新しい墓の向かいに辞世の碑も置かれました。亡くなったときの年齢は、二人の兄や娘の年齢から53歳とみる説が有力ですが、50歳から73歳までさまざまな説があります。",[58,867,128],{"id":128},[62,869,870],{},"成政は勇ましい武士を好み、召し抱えることに熱心でした。5,000石で約束しておきながら、実際には6,000石、7,000石と上乗せして与えることもあったため、腕に覚えのある者が次々に集まってきたといいます（『名将言行録』）。小田原征伐（天正18年・1590年）のとき、蒲生氏郷が金の三階菅笠の馬印を使いたいと願い出たとき、秀吉は、これは勇名を馳せた佐々成政の馬印だから簡単には許せない、と答えたという話も残っています（『常山紀談』）。",[62,872,873],{},"命取りとなった肥後の検地については、見方が分かれています。これまでは、小さいながらも武士である国人がひしめく肥後に対し、秀吉は慎重に治めるよう求めたのに、成政が強引に押し進めたため一揆を招いたと説明されてきました。そこから逆に、成政を陥れるための秀吉の策略だったとする説まで唱えられています。しかし、秀吉が慎重な統治を求めた証拠とされる『太閤記』の「五箇条の定書」は、宛名や文体が不自然なことから疑いが持たれています。成政が腹を切った日に秀吉が出した「陸奥守前後悪逆条々事」も、検地には触れず、成政と隈部親永の仲の悪さを一揆の原因と決めつけています。同じころに検地を進めて豊前で国人一揆を招いた黒田孝高は罰せられていないことから、一揆を起こされたことではなく、自分の力で鎮められなかったことを咎められたとする説や、そもそも一揆の原因は九州の領地の割り振りに対する国人の不満だったとする見方もあります。",[62,875,876],{},"その一方で、秀吉は朝鮮や明への出兵を見すえて九州を重んじており、兵や物資を送り出す要となる肥後を成政に任せたのは、それだけ成政を買っていた証しだとする説もあります。羽柴の名字や陸奥守の官職を与えていたことが、その裏づけとされています。",[62,878,879],{},"富山では、常願寺川の水害と戦った領主としても覚えられています。富山市西ノ番の正源寺は、成政をはじめ代々の領主が水難よけを祈った寺と伝わり、毎年7月の後半には富山市上滝地区で、観光おおやま佐々成政戦国時代祭りなどの催しが開かれています。ほかにも、秀吉軍に攻められる直前に黄金100万両を鍬崎山に埋めたという埋蔵金の言い伝えや黒百合伝説など、本当かどうかわからない話が数多く残されています。",{"title":139,"searchDepth":140,"depth":140,"links":881},[882,883,890],{"id":60,"depth":140,"text":60},{"id":73,"depth":140,"text":73,"children":884},[885,886,887,888,889],{"id":784,"depth":146,"text":784},{"id":805,"depth":146,"text":805},{"id":817,"depth":146,"text":817},{"id":838,"depth":146,"text":838},{"id":856,"depth":146,"text":856},{"id":128,"depth":140,"text":128},{"date":892,"place":893,"cause":894,"source":895},"1588-07-07","摂津国尼崎・法園寺（現在の兵庫県尼崎市）","切腹（肥後で起きた国人一揆の責めを負わされた）","天正16年閏5月14日。享年は53が有力だが、50から73まで説が分かれる","信長の親衛隊・黒母衣衆を率いた武将で、のちに越中一国を任された。小牧・長久手の戦いのさなかに秀吉と手を切り、末森城で前田利家に敗れる。降参後は肥後一国を与えられたが、国人の一揆を抑えきれず、その責めを負って腹を切った","尾張比良城・越前府中2郡・越中一国・肥後一国",{"father":899,"mother":161,"wives":900,"children":909,"adoptedChildren":941},"佐々成宗",[901,904,906],{"name":902,"type":165,"note":903},"慈光院","村井貞勝の娘",{"name":905,"type":169},"早川主水の娘",{"name":907,"type":169,"note":908},"早百合","黒百合伝説",[910,913,916,920,925,929,933,937,939],{"name":911,"rank":175,"mother":905,"note":912},"早川雄介","母方の祖父の養子",{"name":914,"rank":512,"note":915,"footnoteMarker":520},"松千代丸","長島で戦死",{"name":917,"rank":918,"note":919},"随泉院","長女","松原五郎兵衛に嫁ぐ",{"name":921,"rank":922,"buddhistName":923,"note":924,"footnoteMarker":528},"輝子","次女","岳星院","鷹司信房に再嫁",{"name":926,"rank":927,"note":928},"光秀院","三女","織田信高に嫁ぐ",{"name":930,"rank":931,"note":932},"松寿院","四女","神保氏興に嫁ぐ",{"name":934,"rank":935,"note":936},"女子","五女","山岡景以に嫁ぐ",{"name":934,"note":938},"狩野孝信に嫁ぐ",{"name":934,"note":940},"不破盛国に嫁ぐ",[942,945,948],{"name":943,"note":944},"佐久間勝之","のちに離縁",{"name":946,"note":947},"佐々成光","不破盛国室の子",{"name":949,"note":950},"佐々信宗","実弟。養子説",[952,953,954,955,956,957,958],"※ 母は堀場宗氏の娘とする説がある","※1 松千代丸の名は後の時代の系図にしか出てこず、同時代の史料では確かめられない。松千代丸が早くに亡くなった後、佐久間盛政の弟・勝之をはじめ何人か養子を迎えたが、誰も家を継がなかったため、成政の血を男系で引く子孫は絶えた。娘を通じた子孫は続いている","※2 次女の輝子は、佐々清蔵、佐久間安政の妻となった後、鷹司信房に嫁いだ。成政は、徳川家光の正室・鷹司孝子（本理院）の母方の祖父にあたる","※ 早百合は黒百合伝説に出てくる側室。成政が城を空けている間に不義の噂が立ち、戻った成政に一族ごと殺されたと伝わる。確かめようのない話が多い","※ 天正12年（1584年）9月16日、秀吉のもとに人質として預けていた娘（資料では次女とする）が、乳母とともに京都の粟田口で磔にされたという","※ 秀吉に仕えた佐々成治（孫十郎）については、成政の子とも甥ともいわれる","※ 兄は政次と孫介。姉の家系からは、徳川光圀に仕えた佐々宗淳などが出ている",[960,963,966],{"question":961,"answer":962},"佐々成政の「さらさら越え」とは何ですか？","天正12年（1584年）、小牧・長久手の戦いの途中で秀吉と織田信雄が和睦し、家康も兵を収めました。納得できない成政は、真冬の飛騨山脈・立山の山々を自ら越えて浜松へ向かい、もう一度立ち上がるよう家康に迫ったとされます。越中と信濃を結ぶ抜け道だった針ノ木峠が「さらさら越え」と呼ばれる峠です。ただし確かなことはわかっておらず、この話は『太閤記』が物語に仕立て、地元の『肯搆泉達録』がさらに大きく脚色したものです。通った道については、ザラ峠と針ノ木峠を越えて立山連峰を抜けたとする説、飛騨から安房峠を越えて信濃へ出たとする説、越中から日本海沿いに越後の糸魚川まで行き、千国街道を南へ下ったとする説の三つがあります。家康を説き伏せることはできませんでしたが、家康が富山の役の最中に真田昌幸を攻めた（第一次上田合戦）のは、秀吉の目をそらして成政を助けるためだったとする見方もあります。",{"question":964,"answer":965},"佐々成政はなぜ切腹を命じられたのですか？","天正15年（1587年）に肥後を与えられた成政が、入国してすぐ検地に取りかかると、隈部親永らの国人がいっせいに反発して兵を挙げました（肥後国人一揆）。成政は自分の力でこれを収められず、翌年2月にわびを入れに大坂へ出向きましたが、秀吉は会わずに尼崎へ閉じ込め、腹を切るよう命じました。これまでは、秀吉が慎重に治めるよう言いつけたのに成政が検地を押し通したためだと説明されてきました。しかし、その言いつけの根拠とされる「五箇条の定書」には、本物かどうか疑いが持たれています。同じように一揆を招いた豊前の黒田孝高は罰せられていないことから、一揆を起こされたことではなく、自力で鎮められなかったことを咎められたとする説があります。また、一揆の本当の原因は、九州の領地の割り振りそのものに対する国人たちの不満だったとする見方もあります。",{"question":967,"answer":968},"佐々成政の「黒百合伝説」とはどのような話ですか？","成政には、とりわけかわいがっていた早百合という側室がいたといいます。成政が城を留守にしている間に、早百合がほかの男と通じているといううわさが広まりました。戻った成政は激しく怒り、神通川のほとりで早百合を殺したうえ、その一族18人の首まではねたとされます。早百合は死にぎわに、立山に黒百合が咲いたら佐々家は滅びると呪ったと伝わり、これが黒百合伝説です。別の話では、成政が秀吉の正室・北政所に珍しい黒百合を贈ったところ、淀殿が黒百合を山ほど取り寄せて飾り、少しも珍しくないと見せつけたため、恥をかかされた北政所が成政を恨んだともいいます。どちらも本当かどうかはわかりません。","/kamon/隅立て四つ目.png","2026-09-20",{},"佐々成政","さっさ なりまさ","従四位下 侍従・陸奥守",{"title":696,"description":896},[977,980,983,986,987,989],{"title":978,"author":979,"type":586},"佐々成政のすべて","花ヶ前盛明（編）",{"title":981,"author":982,"type":586},"シリーズ・織豊大名の研究 第十一巻 佐々成政","萩原大輔",{"title":984,"author":985,"type":586},"史伝 佐々成政","遠藤和子",{"title":591,"type":592},{"title":988,"type":592},"多聞院日記",{"title":990,"type":592},"宗及茶湯日記","busho/佐々成政",[993,995,998,1002,1007,1009,1012,1015,1018,1022,1025,1027,1030,1033,1036,1039,1043,1047,1051,1054,1058,1060,1064,1067,1071,1074,1078,1080],{"date":755,"event":599,"description":994},"天文5年1月15日、佐々成宗の三男として尾張の比良城で生まれたとされる。佐々家は比良城に拠った土豪で、近江の佐々木氏（宇多源氏）から分かれた家といわれる。生まれた年については、永正9年・永正13年・天文8年などの説もある",{"date":996,"event":602,"description":997},"1550-01-01","天文19年、織田信長の家臣となった（『尾張佐々系譜』）",{"date":999,"event":1000,"description":1001},"1556-09-27","兄・孫介の討死","弘治2年8月24日、すぐ上の兄・孫介が稲生の戦いに武者大将として出て、懸命に戦ったものの29歳で討死した",{"date":1003,"event":1004,"description":1005,"link":1006},"1560-06-12","家督相続・比良城主","永禄3年、いちばん上の兄・政次も桶狭間の戦いで討死した。二人の兄を続けて失った成政が、25歳で父・成宗の跡を継ぎ、比良城の主となる","/battles/桶狭間の戦い",{"date":707,"event":706,"description":1008},"永禄4年の森部の戦いで、池田恒興とともに稲葉一鉄の叔父にあたる敵将・稲葉又右衛門（常通）を討ち取り、大きな手柄を挙げた（『信長公記』）",{"date":605,"event":1010,"description":1011},"黒母衣衆の筆頭","永禄10年、黒母衣衆10人の筆頭に選ばれる。黒母衣衆は、信長の馬廻の中から戦功のある者をえりすぐった集団とみられている",{"date":711,"event":1013,"description":1014},"信長の上洛に従う","永禄11年、足利義昭を立てて6万の兵で京へ向かう信長に従った。軍は近江で六角義賢の蓑作城と観音寺城を落とし、9月28日に京へ入る。成政もその中にいた",{"date":309,"event":1016,"description":1017},"大河内城攻め","永禄12年、信長が伊勢の北畠具教がこもる大河内城を攻めたとき、柴田勝家・森可成・不破光治と並んで城の東から攻める部隊を指揮した（『信長公記』）",{"date":1019,"event":1020,"description":1021},"1570-07-01","八相山の退口","元亀元年6月、姉川の戦いの前に行われた「八相山の退口」で、簗田広正・中条家忠らとわずかな馬廻を率いて退却の最後尾を受け持ち、鉄砲隊を使って働いたとされる（『信長公記』『当代記』）",{"date":317,"event":1023,"description":1024},"長男・松千代丸を失う","天正2年、長島一向一揆との戦いで長男の松千代丸を亡くしたとされる。ただし松千代丸は後の時代の系図にしか名が出てこず、本当にいたかどうかは同時代の史料では確かめられない",{"date":29,"event":28,"description":1026,"link":254},"天正3年5月21日の長篠の戦いでは、前田利家らとともに3,000人の鉄砲隊を率いた",{"date":1028,"event":805,"description":1029},"1575-10-01","天正3年9月、越前を押さえた信長は柴田勝家を北陸攻めの責任者とし、府中周辺の2郡（10万石ほど）を成政・前田利家・不破光治の3人にまとめて与えた（府中三人衆）。3人は政務もいつも連名で行っている。成政は小丸城を築いて住み、石山合戦、播磨の平定、荒木村重攻め（有岡城の戦い）にも出陣した",{"date":726,"event":725,"description":1031,"link":1032},"天正5年8月、能登に入り込んだ上杉勢を討とうと、柴田勝家らと加賀へ攻め込んだ。しかし七尾城が落ちたため、10月に兵を引いた","/battles/手取川の戦い",{"date":633,"event":1034,"description":1035},"越中へ進出・佐々堤を築く","天正8年、柴田勝家による加賀の平定に加わり、そのまま能登・越中へ進んだ。越中では神保長住を助けて国の平定にあたる。この年の秋には、富山の城下を水害から守るため、常願寺川に「佐々堤」と呼ばれる堤を築いた",{"date":33,"event":1037,"description":1038},"富山城に入城","天正9年の正月下旬から2月下旬ごろに富山城へ入った。神保長住をはじめ越中の武士たちは、成政の指揮のもとに組み入れられる",{"date":1040,"event":1041,"description":1042},"1582-04-01","越中一国を任される","天正10年3月、神保長住がかつての家臣の小島職鎮・唐人親広らに富山城を襲われ、捕らえられた。織田軍が取り返して長住は救い出されたが、その後追放される。代わって越中一国を任された成政は、富山城を大きく造り直した。成政の勢いが最も盛んだったのはこの頃である",{"date":1044,"event":1045,"description":1046,"link":658},"1582-06-21","魚津城攻略と本能寺の変","北陸の織田軍は、越中に残る上杉方最後の拠点・魚津城を3か月かけて落とした。ところがその直前の6月2日、京では本能寺の変が起きていた。知らせを受けた武将たちがそれぞれの領地へ戻ると、上杉軍が反撃に出て、成政はその守りに追われて動けなくなった",{"date":1048,"event":1049,"description":1050},"1582-07-16","清洲会議・柴田勝家方につく","清洲会議で越中の支配をそのまま認められた。勝家と秀吉が争い始めると勝家の側につく。勝家の娘婿の佐久間勝之を養子に迎えていたことも、その理由とみられる。本能寺の変の後に上杉勢が入っていた魚津城は、もう一度攻めて取り返した",{"date":354,"event":1052,"description":1053,"link":674},"賤ヶ岳の戦いと秀吉への降伏","天正11年の賤ヶ岳の戦いでは勝家の側に立ったが、上杉景勝を警戒して越中を離れられず、叔父の佐々平左衛門に600人を預けて送るのが精いっぱいだった。勝家が敗れると、娘を人質に差し出し、髪を剃って秀吉に降り、越中一国はそのまま認められた。畿内では、勝家が滅んだのは成政が裏切ったからだといううわさが立ったという（『多聞院日記』）",{"date":1055,"event":1056,"description":1057},"1584-02-01","陸奥守に任官","天正12年の正月4日、前田玄以とともに秀吉の茶会に呼ばれた（『宗及茶湯日記』）。同じ月の12日には、陸奥守に任じられた礼を述べに宮中へ参っている",{"date":358,"event":357,"description":1059,"link":681},"はじめは秀吉の求めに応じて、佐々平左衛門を小牧の秀吉軍へ送った。一方で3月からは、家康や大久保忠世とのやりとりも見られるようになる。7月に北陸の兵が戻って秀吉軍の苦しい戦況を知り、信雄・家康の側へ移ると決めたとする見方がある",{"date":1061,"event":1062,"description":1063},"1584-10-01","朝日山城を攻める","天正12年8月28日、秀吉についた前田利家の朝日山城に攻めかかったが、前田家の家臣・村井長頼に追い返された。確かな史料で裏づけられてはいないものの、秀吉に背いてから最初の出兵とされる",{"date":740,"event":739,"description":1065,"link":1066},"天正12年9月9日、前田領の加賀と能登を切り離そうと、宝達山を越えて坪山砦に陣を置き、15,000人で末森城を囲んだ。城はあと一歩で落ちるところだったが、金沢城から駆けつけた利家に後ろを突かれて敗れる。このころは越後の上杉景勝とも敵対しており、前と後ろの両方に敵を抱えていた","/battles/末森城の戦い",{"date":1068,"event":1069,"description":1070},"1584-12-01","さらさら越え","秀吉と信雄が和睦し、家康も兵を収めると、成政は真冬の飛騨山脈・立山の山々を自分の足で越えて浜松へ行き、もう一度秀吉と戦うよう家康に迫ったとされる（さらさら越え）。けれども家康は動かず、信雄や滝川一益からもよい返事はもらえないまま、成政は気落ちして越中へ戻った。どの道を通ったかは説が分かれ、確かなことはわかっていない",{"date":744,"event":1072,"description":1073},"富山の役で降参","天正13年8月、秀吉が自ら大軍を連れて越中へ攻め入り、富山城を取り囲んだ。8月26日、成政は信雄の取りなしで降参し、頭を丸め、僧の衣を着て従う意思を示したとされる。命は助けられたが、越中の新川郡を残して領地はすべて取り上げられ、妻子とともに大坂へ移される。その後しばらくは秀吉の話し相手を務める御伽衆となり、摂津国能勢郡で1万石を与えられた",{"date":1075,"event":1076,"description":1077},"1587-07-01","肥後一国を与えられる","天正15年、九州攻めでの働きが認められ、6月に九州の領地が割り振られた際に肥後一国を与えられた。肥後の国人52人は領地をそのまま認められたうえで、成政の家臣に組み入れられている。同じ年、羽柴の名字も許された",{"date":752,"event":751,"description":1079},"天正15年7月、隈部親永・親泰の父子が検地を拒んで兵を挙げた。成政は7,000人を連れて鎮めに向かったが、一揆に加わる国人は35,000あまりにふくれ上がり、甥の佐々成能も討たれてしまう。自分の力では抑えきれず、秀吉に援軍を頼んだ。九州と四国の大名が駆り出され、一揆がようやく収まったのは12月だった",{"date":892,"event":1081,"description":1082},"切腹","天正16年2月、わびを入れに大坂へ出向いたが、秀吉は会おうとせず、成政は尼崎に閉じ込められた。安国寺恵瓊が命乞いをしても聞き入れられず、閏5月14日、加藤清正の見届けのもと、尼崎の法園寺で腹を切った。享年は53とみる説が有力。辞世は「このごろの 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今やぶるなり」","ZsTJJtSVR3tbrW_f57s58h7DTVLV-nNHLFnDxUXQIGI",{"id":1085,"title":1086,"affiliateItems":1087,"aliases":1091,"battles":1095,"birth":1116,"body":1120,"death":1219,"description":1224,"domain":1225,"extension":158,"family":1226,"familyNotes":1235,"faq":1239,"image":11,"kamon":1249,"lastUpdated":1250,"meta":1251,"name":1252,"nameKana":1253,"navigation":212,"path":579,"publishedDate":1250,"representativeTitle":1254,"seo":1255,"sources":1256,"stem":1275,"timeline":1276,"__hash__":1334},"busho/busho/堀秀政.md","織田信長の側近・越前北ノ庄城主",[1088,1089,1090],"000255","000245","000247",[1092,1093,1094],"久太郎","名人左衛門佐","羽柴秀政",[1096,1098,1100,1102,1104,1107,1110,1112,1114],{"slug":322,"date":25,"role":1097},"織田軍の一員として一揆の鎮圧に加わる",{"slug":327,"date":328,"role":1099},"佐久間信盛・羽柴秀吉らと並び、信長の本陣とは別に一隊を指揮する",{"slug":725,"date":726,"role":1101},"七尾城を救うため柴田勝家が率いた北国遠征軍に加わる（『手取川の戦い』資料による）",{"slug":334,"date":331,"role":1103},"万見重元・菅屋長頼らとともに鉄砲衆を指揮する",{"slug":1105,"date":33,"role":1106},"第二次天正伊賀の乱","信楽方面から伊賀へ入る部隊を指揮し、比自山城などで戦う",{"slug":1108,"date":346,"role":1109},"山崎の戦い","中川清秀・高山右近らと先手を担い、戦後は明智秀満を坂本城へ追い詰める",{"slug":353,"date":354,"role":1111},"秀吉の側で戦い、戦いの後には府中城の前田利家に降るよう説く",{"slug":357,"date":358,"role":1113},"中入りの別働隊で三番手を務め、桧ヶ根で徳川方の大須賀康高・榊原康政らを押し返す",{"slug":43,"date":44,"role":1115},"左翼の軍を率いて箱根口から山中城を落とし、早川口まで進んだが、在陣中に病没",{"date":1117,"place":1118,"source":1119},"1553-01-01","美濃国厚見郡茜部（現在の岐阜県岐阜市）","天文22年（月日は資料に記載なし）",{"type":55,"value":1121,"toc":1209},[1122,1124,1127,1130,1133,1135,1138,1141,1144,1147,1150,1153,1156,1159,1162,1165,1168,1171,1174,1177,1180,1183,1186,1189,1192,1195,1197,1200,1203,1206],[58,1123,60],{"id":60},[62,1125,1126],{},"堀秀政は、織田信長と豊臣秀吉の二人に仕え、最後は越前北ノ庄の大名にまでなった戦国武将である。通称は久太郎。",[62,1128,1129],{},"永禄8年（1565年）、わずか13歳で信長の小姓に抜擢され、普請や行事の奉行を次々に任されて信長の側近の一人となった。やがて戦場にも出るようになり、越前の一向一揆攻め、雑賀攻め、有岡城攻め、伊賀攻めなどで働いて、天正9年（1581年）には長浜城と2万5,000石を与えられている。",[62,1131,1132],{},"信長が本能寺で倒れると秀吉に付き、山崎の戦いでは先手を務めた。清洲会議のあとは近江国中郡を得て三法師の守り役となり、賤ヶ岳の戦いのあとに佐和山城、小牧・長久手の戦いのあとには越前北ノ庄18万石を与えられた。天正18年（1590年）の小田原攻めでは左翼の軍を率いたが、陣中で疫病にかかり38歳で急死した。後世の書物からは「名人左衛門佐」「名人太郎」という呼び名で知られる。",[58,1134,73],{"id":73},[75,1136,1137],{"id":1137},"信長の側近",[62,1139,1140],{},"堀秀政は天文22年（1553年）、美濃国厚見郡茜部に生まれた。父の堀秀重は斎藤道三の家臣で、秀政はその長男にあたる。子どものころは、一向宗の僧になっていた伯父の堀掃部太夫に預けられ、従兄の奥田直政（のちの堀直政）と一緒に育ったと伝わる。",[62,1142,1143],{},"初めは大津長昌に、次に木下秀吉に仕えたが、永禄8年（1565年）、13歳で信長に見いだされて小姓となった。16歳のときには、将軍足利義昭の仮の御所となった本圀寺の工事を取り仕切っている。こうした奉行の仕事を重ねて、秀政は信長のそば近くに仕える側近の一人となった。同じ立場の者には、菅屋長頼、福富秀勝、大津長昌、矢部家定、長谷川秀一、万見重元らがいる。",[62,1145,1146],{},"そのうち秀政は、奉行の仕事に加えて戦にも出るようになる。天正3年（1575年）には越前の一向一揆攻めに加わり、天正5年（1577年）の雑賀攻めでは、佐久間信盛・羽柴秀吉らと同じく本陣とは別に一隊を任された。同じ年、上杉謙信に囲まれた能登七尾城を救うために柴田勝家を総大将として北陸へ送られた軍にも名がみえる（手取川の戦い）。天正6年（1578年）の有岡城攻めでは万見・菅屋らと鉄砲衆を指揮した。",[62,1148,1149],{},"奉行としての仕事も続き、天正7年（1579年）の安土宗論では菅屋・長谷川らと運営を担い、天正8年（1580年）には同じ顔ぶれでバテレン屋敷の建設を監督した。この年には、信長が蜂須賀正勝へ送った書状に秀政が添え状を付けている。",[62,1151,1152],{},"本願寺との関わりもあった可能性がある。秀政を育てた叔父が蓮照寺の住職だった縁から、石山本願寺と信長の和睦や、本願寺が紀州鷺森へ退くことを働きかけたのではないかという見方がある。ただしこれは推測の域を出ない。のちに秀政は顕如から「釋道哲」という法名を授かっている。",[62,1154,1155],{},"第二次天正伊賀の乱（天正9年・1581年）では、信楽方面から伊賀へ入る部隊を指揮し、比自山城などで戦った。この働きに、荒木村重攻めと越前の一向宗鎮圧での功も合わせて認められ、同じ年に長浜城と2万5,000石を与えられた。",[62,1157,1158],{},"天正10年（1582年）、秀政は甲州征伐に向かう信長に従って甲斐・信濃へ入ったが、武田氏は織田信忠の軍によってすでに滅んでおり、秀政が戦うことはなかった。5月20日には丹羽長秀と連れ立って徳川家康をもてなし、その足で備中にいる秀吉のもとへ向かっている。",[75,1160,1161],{"id":1161},"山崎の戦いと清洲会議",[62,1163,1164],{},"6月2日に本能寺の変が起き、信長が討たれたとき、秀政は秀吉の軍監として備中にいた。知らせを受けると秀吉とともに急いで京へ引き返し、山崎の戦いでは中川清秀・高山右近らと先手を担った。光秀を助けに出てきた明智秀満を坂本城へ追い詰めると、もはや勝ち目がないと悟った秀満は、家に伝わる宝物を秀政の従兄の直政に託すと伝え、城に火をかけて自ら命を絶った。",[62,1166,1167],{},"6月27日の清洲会議の結果、秀政は近江国中郡を与えられ、三法師の守り役と、織田家の直轄地を預かる代官を任された。",[75,1169,1170],{"id":1170},"賤ヶ岳の戦いから北ノ庄城主へ",[62,1172,1173],{},"清洲会議のあと織田家の中で争いが起きると、秀政は秀吉が主催した信長の百ヶ日の法要に同意するなど、秀吉の側に立って動いた。10月20日付の書状ではすでに羽柴の姓を名乗っており、秀吉の親族でない者として初めて羽柴姓を許されたのは秀政だったとみられている。",[62,1175,1176],{},"天正11年（1583年）、賤ヶ岳の戦いの論功で11月に佐和山城を得て、12月には左衛門督に任じられた。秀政は戦で城を空けることが多く、その間は父の秀重と弟の多賀秀種が城代として佐和山を治めた。",[62,1178,1179],{},"小牧・長久手の戦い（天正12年・1584年）では秀吉方に付き、三河へ回り込む中入りの別働隊で三番手を任された。4月9日の朝、羽柴秀次の隊が徳川勢の奇襲を受けて崩れると（白山林の戦い）、秀政は逃げてきた兵を自分の隊に加えて桧ヶ根に陣を構え、追ってきた大須賀康高・榊原康政らを打ち破った（桧ヶ根の戦い）。しかし家康本人が出てきたと知ると、池田・森の隊とは合流せず、そのまま戦場から引き揚げている。",[62,1181,1182],{},"天正13年（1585年）8月13日、丹羽長重が若狭へ移されると、そのあとを受けて越前北ノ庄18万石の領主となった。翌天正14年（1586年）正月14日には侍従となって公家の列に加わり、このとき豊臣の姓も授けられたと考えられている。",[75,1184,1185],{"id":1185},"九州平定と小田原征伐",[62,1187,1188],{},"天正15年（1587年）の九州攻めでは、秀政は先手の部隊を任された。『名将言行録』は、この遠征中の出来事を伝えている。近臣の山下甚五兵衛が錯乱して後ろから斬りかかってきたとき、秀政はすぐに振り向いて山下を斬り、同時に山下の後ろにいた直政も背中から斬りつけた。秀政が直政に「自分が先だった」と声をかけたことについて、とっさの場でその一言が出たことこそ見事だと人々は評したという。",[62,1190,1191],{},"天正18年（1590年）の小田原攻めでは、秀政は左翼の軍の大将を命じられた。箱根口から攻め上って山中城を落とし、小田原の早川口まで進んで海蔵寺に本陣を置いた。ところが5月下旬に疫病にかかり、27日に陣中で急死した。38歳だった。",[62,1193,1194],{},"跡は長男の秀治が継ぎ、遺領のうち16万石を受け継いだ。残る2万石は親良に分けられている。秀政の亡骸はいったん本陣の海蔵寺に葬られ、髷だけが越前へ運ばれて、北之庄の屋敷に近い長慶寺に墓が築かれた。長慶寺には今も位牌と墓の一つが残り、命日の5月27日には毎年供養が営まれている。慶長3年（1598年）4月に秀治が越後春日山へ移されると、墓は春日山城のふもとの林泉寺へ移された。林泉寺には父の秀重と息子の秀治の墓も並び、堀家3代を弔う寺となっている。",[58,1196,128],{"id":128},[62,1198,1199],{},"秀政は後世、『武家事紀』と『名将言行録』で「名人左衛門佐」、『常山紀談』で「名人太郎」と呼ばれている。その理由について、『常山紀談』は家来の使い方に心を配ったからだとし、『名将言行録』は天下の手本となる人物で過ちがなかったからだとしている。",[62,1201,1202],{},"『名将言行録』には山崎の戦いでの話がある。天王山を押さえるため、一番手の堀尾吉晴が先に山を登り、秀政がそれに続こうとしたとき、家臣の堀七郎兵衛が、先の味方が崩れれば巻き込まれるので別の道から登るべきだと止めた。秀政がそれに従うと、はたして堀尾の隊は崩れ、秀政はその脇から攻めかかって、敵将の松田政近を鉄砲で追い散らしたという。",[62,1204,1205],{},"同じく『名将言行録』は、小牧・長久手の戦いでの話も伝える。銃声が聞こえたあと続く音がないのを秀政が怪しんでいると、田中吉政がただ一騎で駆けてきて、後方で戦が始まったから備えを急げと言い残して去った。秀政は、旗本の小姓頭が自ら伝令に来るような場面ではないとたしなめ、銃声が途切れたのは味方が負けたからだと見抜いた。その言葉のとおり味方は敗れ、大須賀・榊原らの軍が押し寄せてきたという。",[62,1207,1208],{},"『常山紀談』には、家来の使い方にまつわる話が二つ載っている。一つは、奉行の供の者と荷運びの者が荷の重さをめぐって言い争ったときの話で、秀政は自分で荷を背負って歩いてみたうえで、力のある自分でも長い道のりなら疲れるのだから、運べないという言い分にも理があると裁いた。もう一つは行軍中の話で、旗持ちが遅れて叱られていると、秀政は自分で旗を担いでみて、遅れる原因は自分の馬の足が速すぎることだと気づいた。そこで足の遅い馬に乗り換えると、旗持ちが遅れることはなくなったという。",{"title":139,"searchDepth":140,"depth":140,"links":1210},[1211,1212,1218],{"id":60,"depth":140,"text":60},{"id":73,"depth":140,"text":73,"children":1213},[1214,1215,1216,1217],{"id":1137,"depth":146,"text":1137},{"id":1161,"depth":146,"text":1161},{"id":1170,"depth":146,"text":1170},{"id":1185,"depth":146,"text":1185},{"id":128,"depth":140,"text":128},{"date":1220,"place":1221,"cause":1222,"source":1223},"1590-06-28","相模国小田原・海蔵寺の本陣（現在の神奈川県小田原市）","疫病による病死","天正18年5月27日。享年38","13歳で信長の小姓に取り立てられ、奉行としても戦場でも働いた側近。信長の死後は秀吉に付いて山崎や小牧・長久手で手柄を立て、越前北ノ庄18万石の大名となったが、小田原攻めの最中に病で没した","近江長浜2万5,000石・近江佐和山・越前北ノ庄18万石",{"father":1227,"mother":161,"children":1228},"堀秀重",[1229,1232],{"name":1230,"rank":512,"note":1231},"堀秀治","家督相続、16万石",{"name":1233,"note":1234},"堀親良","遺領2万石",[1236,1237,1238],"※ 弟に多賀秀種がいる。秀政が戦で各地を回る間、父の秀重と秀種が代わる代わる佐和山城を預かった","※ 従兄の奥田直政（のちの堀直政）とは、ともに伯父の堀掃部太夫に養われた間柄である","※ 妻の名は資料からはわからない",[1240,1243,1246],{"question":1241,"answer":1242},"堀秀政はなぜ「名人」と呼ばれたのですか？","『武家事紀』と『名将言行録』は「名人左衛門佐」、『常山紀談』は「名人太郎」という呼び名を伝えています。理由として、『常山紀談』は家来の使い方に気を配ったことを、『名将言行録』は天下の手本となる人で過ちがなかったことを挙げています。『常山紀談』には、奉行の供と荷運びの者が荷の重さで言い争ったとき、秀政が自分で荷を担いで歩いてみて、自分でも長く運べば疲れるから荷運びの言い分にも理があると裁いた話があります。また、行軍で旗持ちが遅れて叱られたときも、自分で旗を担いで原因は自分の馬の足の速さだと気づき、足の遅い馬に替えたという話も載っています。",{"question":1244,"answer":1245},"山崎の戦いで堀秀政はどのような働きをしましたか？","本能寺の変が起きたとき、秀政は軍監として備中の羽柴秀吉のもとにいました。知らせを受けると秀吉と一緒に京へ急ぎ戻り、山崎の戦いでは中川清秀・高山右近らと先手を務めています。その後、光秀を助けに来た明智秀満を坂本城へ追い詰めました。秀満は家伝の宝物を秀政の従兄の堀直政に渡すと伝えてから、城に火を放って命を絶っています。『名将言行録』には、天王山へ向かう途中で家臣の堀七郎兵衛に止められて別の道を登ったところ、先に登っていた堀尾吉晴の隊が崩れたため、秀政がその脇から攻めかかって敵将の松田政近を鉄砲で追い散らしたという話も載っています。",{"question":1247,"answer":1248},"堀秀政の死後、堀家はどうなりましたか？","秀政は天正18年（1590年）5月27日、小田原攻めの陣中で疫病により38歳で急死しました。遺領のうち16万石は跡を継いだ長男の秀治に、2万石は親良に分けられています。亡骸はまず本陣の海蔵寺に葬られ、髷だけが越前へ運ばれて北之庄の屋敷に近い長慶寺に墓が築かれました。慶長3年（1598年）4月に秀治が越後春日山へ移されると、墓は春日山城のふもとの林泉寺へ移されます。林泉寺には父の秀重と息子の秀治の墓も並び、堀家3代を弔う寺となりました。","/kamon/丸に堀.png","2026-09-13",{},"堀秀政","ほり ひでまさ","左衛門督・侍従",{"title":1086,"description":1224},[1257,1260,1262,1265,1269,1272],{"title":1258,"author":1259,"type":586},"堀家の歴史","堀直敬",{"title":1261,"author":585,"type":586},"織田信長家臣人名辞典",{"title":1263,"author":1264,"type":586},"日本近世武家政権論","村川浩平",{"title":1266,"author":1267,"type":1268},"名将言行録","岡谷繁実","逸話集",{"title":1270,"author":1271,"type":1268},"常山紀談","湯浅常山",{"title":1273,"author":1274,"type":1268},"武家事紀","山鹿素行","busho/堀秀政",[1277,1279,1283,1286,1289,1292,1294,1296,1299,1302,1305,1307,1310,1313,1316,1318,1320,1324,1328,1330,1332],{"date":1117,"event":599,"description":1278},"天文22年、美濃国厚見郡茜部で、斎藤道三に仕える堀秀重の長男として生まれる。少年期は一向宗の僧だった伯父の堀掃部太夫に預けられ、従兄の奥田直政（のちの堀直政）と一緒に育ったと伝わる",{"date":1280,"event":1281,"description":1282},"1565-01-01","織田信長の小姓となる","大津長昌、木下秀吉の順に仕えたのち、永禄8年、13歳で信長の小姓に抜擢され、そば近くに仕えるようになる",{"date":711,"event":1284,"description":1285},"本圀寺の普請奉行","16歳のとき、将軍足利義昭の仮御所となった本圀寺の工事を取り仕切る。ほかにもさまざまな奉行を任され、菅屋長頼、福富秀勝、大津長昌、矢部家定、長谷川秀一、万見重元らと並ぶ信長の側近の一人となる",{"date":25,"event":1287,"description":1288},"越前一向一揆討伐","天正3年、越前の一向一揆攻めに加わる。このころから奉行の仕事に加えて戦場にも出るようになる",{"date":328,"event":1290,"description":1291},"紀伊雑賀討伐","天正5年の雑賀攻めでは、佐久間信盛・羽柴秀吉らと同じく本陣を離れて一隊を任される",{"date":726,"event":725,"description":1293,"link":1032},"天正5年、上杉謙信に囲まれた能登七尾城を救うため、柴田勝家を総大将とする織田軍に加わって北陸へ向かう。軍は七尾城が落ちたことを知らないまま手取川を渡り、引き返す途中で上杉勢に追い討ちをかけられた",{"date":331,"event":334,"description":1295},"天正6年、荒木村重の立てこもる有岡城攻めで、万見重元・菅屋長頼らとともに鉄砲衆を指揮する",{"date":335,"event":1297,"description":1298},"安土宗論の奉行","天正7年、安土で行われた宗論の運営を、菅屋長頼・長谷川秀一らとともに担う",{"date":633,"event":1300,"description":1301},"バテレン屋敷の造営奉行","天正8年、菅屋長頼・長谷川秀一らとバテレン屋敷の建設を監督する。同じ年、信長が蜂須賀正勝へ送った書状に添え状を付けている",{"date":33,"event":1303,"description":1304},"第二次天正伊賀の乱、長浜城主に","天正9年の伊賀攻めでは信楽方面の部隊を指揮し、比自山城などで戦う。この年、伊賀での働きに荒木村重攻めと越前の一向宗鎮圧の功も合わせて評価され、長浜城と2万5,000石を与えられる",{"date":36,"event":341,"description":1306},"天正10年、信長とともに甲斐・信濃へ入るが、武田氏は織田信忠の軍によってすでに滅んでおり、戦うことはなかった",{"date":1044,"event":1308,"description":1309,"link":658},"本能寺の変","5月20日、丹羽長秀と連れ立って徳川家康をもてなしたのち、備中にいる羽柴秀吉のもとへ向かう。6月2日に信長が本能寺で討たれたとき、秀政は秀吉の軍監として備中にいた",{"date":346,"event":1108,"description":1311,"link":1312},"秀吉とともに備中から急いで引き返し、山崎の戦いでは中川清秀・高山右近らと先手を担う。明智秀満が光秀を助けに出てくるとこれを坂本城へ追い詰め、秀満は家に伝わる宝物を従兄の堀直政に託すと告げたうえで城に火をかけて自害した","/battles/山崎の戦い",{"date":1048,"event":1314,"description":1315},"清洲会議","天正10年6月27日の清洲会議の結果、近江国中郡を与えられ、三法師の守り役と直轄地の代官を任される。その後の織田家の内紛では秀吉の側に立ち、10月20日付の書状ではすでに羽柴姓を名乗っている。秀吉の親族でない者が羽柴姓を許されたのは、秀政が最初だったとみられる",{"date":354,"event":353,"description":1317,"link":674},"天正11年、秀吉の側で賤ヶ岳の戦いに加わる。戦後の論功で11月に佐和山城を得て、12月には左衛門督に任じられる。秀政が戦で城を空ける間は、父の堀秀重と弟の多賀秀種が城代を務めた",{"date":358,"event":357,"description":1319,"link":681},"天正12年、秀吉方として三河へ回り込む別働隊に加わり、その三番手を務める。4月9日の朝に羽柴秀次の隊が徳川勢の奇襲で崩れると、逃げてきた兵をまとめて桧ヶ根に布陣し、追ってきた大須賀康高・榊原康政らを打ち破った（桧ヶ根の戦い）。家康本人が出てきたと知ると、池田・森の隊とは合流せずに引き揚げた",{"date":1321,"event":1322,"description":1323},"1585-09-06","越前北ノ庄18万石","天正13年8月13日、丹羽長重が若狭へ移されたあとを受けて、越前北ノ庄18万石の領主となる",{"date":1325,"event":1326,"description":1327},"1586-01-01","侍従に任官","天正14年正月14日、侍従となって公家の列に加わる。このとき豊臣の姓も授けられたと考えられている",{"date":748,"event":747,"description":1329},"天正15年、九州攻めで先手の部隊を任される。この遠征中、近臣の山下甚五兵衛が錯乱して後ろから斬りつけてきたが、秀政はすぐに振り向いて斬り捨てたと伝わる（『名将言行録』）",{"date":44,"event":43,"description":1331,"link":269},"天正18年、小田原攻めで左翼の軍を率いる。箱根口から攻め上って山中城を落とし、早川口まで進んで海蔵寺を本陣とした",{"date":1220,"event":691,"description":1333},"5月下旬に疫病にかかり、27日に小田原の陣で急死する。38歳だった。長男の秀治が跡を継いで遺領のうち16万石を受け継ぎ、残る2万石は親良に分けられた","RsTIoqBW5XSSnz2d4VGvM-15fku7Bk8-e1yo6BcM1ek",{"id":1336,"title":1337,"affiliateItems":1338,"aliases":1345,"battles":1348,"birth":1366,"body":1372,"death":1539,"description":1544,"domain":1545,"extension":158,"family":1546,"familyNotes":1605,"faq":1609,"image":11,"kamon":1619,"lastUpdated":1620,"meta":1621,"name":1622,"nameKana":1623,"navigation":212,"path":579,"publishedDate":1620,"representativeTitle":1624,"seo":1625,"sources":1626,"stem":1641,"timeline":1642,"__hash__":1749},"busho/busho/北条氏政.md","相模国の戦国大名・後北条氏第4代当主",[1339,1340,1341,1342,1343,1344],"000264","000266","000265","000267","000269","000094",[914,1346,1347],"北条新九郎","截流斎",[1349,1352,1356,1358,1360,1364],{"slug":1350,"date":317,"role":1351},"関宿合戦","簗田晴助が守る関宿城を落とす（天正2年閏11月）",{"slug":1353,"date":1354,"role":1355},"御館の乱","1578-04-19","弟の上杉景虎に味方して氏照・氏邦を越後へ送り、自らも厩橋城まで兵を進める",{"slug":349,"date":350,"role":1357},"氏直と氏邦を上野へ差し向け、滝川一益を破って追い払う",{"slug":35,"date":36,"role":1359},"甲斐・信濃で徳川家康とにらみ合い、氏直に家康の娘・督姫を迎えることで講和する",{"slug":1361,"date":1362,"role":1363},"沼尻の合戦","1584-01-01","氏政が自ら軍を率いた最後の戦い",{"slug":43,"date":44,"role":1365},"小田原城で守りを固めたが降伏し、戦を招いた責めを負って切腹",{"date":1367,"source":1368,"theories":1369},"1538-01-01","天文7年（1538年）。『北条系図』（『群書系図部集第四』）による。月日不詳",[1370],{"date":51,"source":1371},"天文8年（1539年）生まれとする説（黒田基樹。『石川忠総留書』の「氏政亥五十二」を根拠とする）",{"type":55,"value":1373,"toc":1526},[1374,1376,1379,1382,1385,1387,1390,1393,1396,1399,1402,1406,1409,1412,1415,1418,1421,1425,1428,1431,1434,1437,1440,1443,1446,1448,1451,1454,1457,1460,1463,1466,1469,1472,1475,1478,1488,1491,1493,1496,1499,1502,1505,1508,1516,1523],[58,1375,60],{"id":60},[62,1377,1378],{},"北条氏政は、相模国を本拠とした戦国大名で、後北条氏の4代目の当主である。父は3代目の北条氏康、母は今川氏親の娘の瑞渓院で、今川義元から見ると甥にあたる。正室の黄梅院は武田信玄の娘だったため、武田義信や武田勝頼とは義理の兄弟になる。通称は新九郎で、官位の左京大夫や相模守でも呼ばれた。号は截流斎。",[62,1380,1381],{},"もとは次男だったが、兄の氏親が若くして亡くなったため跡継ぎとなり、永禄2年（1559年）に家を継いだ。上杉謙信や武田信玄と渡り合いながら、関東で上杉方に付く勢力をほぼ退け、相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野に常陸・下野・駿河の一部まで加えた、およそ240万石の領国を築いた。これは後北条氏の歴史で最も広い範囲である。",[62,1383,1384],{},"しかし、天下統一を進める豊臣秀吉とは折り合いをつけられず、天正18年（1590年）の小田原征伐で降伏に追い込まれた。戦を招いた責めを負って切腹し、戦国大名としての後北条氏はここで途絶えた。",[58,1386,73],{"id":73},[75,1388,1389],{"id":1389},"家督相続まで",[62,1391,1392],{},"氏政は天文7年（1538年）、北条氏康の次男として生まれた（「北条系図」『群書系図部集第四』による）。幼い頃の名は松千代丸である。ただし黒田基樹は、『石川忠総留書』に「氏政亥五十二」とあることを手がかりに、本当の生年は天文8年（1539年）だと考えている。",[62,1394,1395],{},"天文18年（1549年）、公家の飛鳥井雅綱が氏康の息子の西堂丸と松千代丸に蹴鞠を教えたという記録がある。西堂丸は兄の新九郎氏親の幼名とみられ、もう一人の松千代丸が氏政にあたると考えられている。",[62,1397,1398],{},"次男の氏政には本来、家を継ぐ見込みはなかった。ところが天文21年（1552年）ごろ、兄の氏親が16歳で亡くなり、氏政が跡継ぎとなって北条新九郎氏政を名乗る。元服は兄の死から2年後、天文23年（1554年）6月までには済ませていたとみられる。初めて戦に出た時期ははっきりしないものの、20歳になるころには父の後継ぎとして働いていた様子が史料からうかがえる。",[62,1400,1401],{},"永禄2年（1559年）12月23日、氏康が隠居し、氏政が北条家の4代目当主となった（『年代記配合抄』）。このころ領内では永禄の飢饉が広がっており、当主を替えて新しい体制のもとで立て直しを図ったものとみられる。ただし、その後もしばらくは氏康が国の舵取りを続け、父子は「御両殿」「二屋形」と並び称された。",[75,1403,1405],{"id":1404},"上杉武田との戦いと関東制覇","上杉・武田との戦いと関東制覇",[62,1407,1408],{},"永禄12年（1569年）、氏政は武田と手を切った三河の徳川家康と和議を結び、掛川城に閉じこもっていた今川氏真を助け出して引き取った。さらに自分の次男の氏直を氏真の猶子とし、北条が駿河を治めることの名分を整えている。同じころ、信玄に対抗するため、長年の敵だった上杉謙信とも手を結んだ（越相同盟）。弟の三郎（のちの上杉景虎）を養子の形で謙信のもとへ送り、上野国で北条が押さえていた土地も譲っている。",[62,1410,1411],{},"信玄との仲がこじれたことで、氏政は愛する妻の黄梅院と別れさせられたと長く語られてきた。しかし近年では、この離縁の話は史料を読み違えたことから生まれた誤りだとする見方が出ている。",[62,1413,1414],{},"元亀2年（1571年）10月に氏康が亡くなると、氏政は12月に信玄と改めて同盟を結び（甲相同盟）、謙信との同盟は打ち切った。謙信との同盟は条件が十分に詰められておらず、武田への備えとしては期待したほどの効果がなかったからである。そもそも両家は目指すところが食い違っており、謙信の関心も越中の攻略へ移っていた。",[62,1416,1417],{},"こうして北条と上杉の戦いが再び始まる。天正2年（1574年）に謙信が上野へ出てくると、氏政も兵を率いて利根川を挟んでにらみ合ったが、謙信の目はすでに越中へ向いており、大きな戦にはならなかった。その年の閏11月には、氏康が「一国に等しい城」と呼んだ簗田晴助の関宿城を落とし、翌天正3年（1575年）には下野にある小山秀綱の祇園城も手に入れた。下総の結城晴朝も北条に従うようになり、関東で上杉に付く勢力はほとんど残らなくなった。天正5年（1577年）には上総へ攻め込み、長く争ってきた里見義弘と和睦を結んでいる（房相一和）。嫡男の氏直はこの戦で初めて戦場に出た。",[62,1419,1420],{},"天正6年（1578年）に謙信が亡くなると、跡目をめぐって、謙信の甥の上杉景勝と、氏政の弟で謙信の養子となっていた上杉景虎が争った（御館の乱）。このとき氏政は下野で佐竹・宇都宮の軍と向き合っていて動けなかったため、5月に弟の氏照・氏邦らを越後へ送り、景虎を助けさせた。8月下旬には自らも上野の厩橋城まで兵を進めたが、まもなく小田原へ引き返している。",[75,1422,1424],{"id":1423},"織田徳川との関係と天正壬午の乱","織田・徳川との関係と天正壬午の乱",[62,1426,1427],{},"天正8年（1580年）3月10日、氏政は本願寺を屈服させて勢いに乗る織田信長に、配下に加わりたいと申し入れた。同じ年の8月19日には、戦の最中に氏直へ当主の座を譲るという珍しい形で隠居している。父と同じように、隠居後も政治と軍事の実権は氏政が握っていたとするのが通説である。これに対して黒田基樹は、氏政・氏直の出した文書を調べ、領内の政治と軍事の一部は早いうちに氏直へ任され、氏政は外交と軍事の中心を受け持っていたとみている。",[62,1429,1430],{},"『信長公記』によると、天正10年（1582年）の3月26日・4月2日・4月3日と、氏政は端山という使者を続けざまに信長のもとへ送り、祝いの品を贈った。長年争ってきた武田をあっという間に滅ぼした信長の力を目の当たりにして、織田家とよい関係を保ちたいと強く願っていたのである。京都へは雉500羽を献上のために送っている。それでも信長は北条氏に好意を見せず、かえって北条を刺激するような振る舞いもあった。",[62,1432,1433],{},"その年の6月2日、信長は京都の本能寺で明智光秀に討たれる（本能寺の変）。知らせを受けた氏政は、はじめ滝川一益に対し、これまでどおり協力すると伝えた。しかし表向きの友好とは裏腹に両者の疑いは深まっており、氏政が深谷へ兵を向けると一益も兵を出し、数日のうちにはっきりと敵対するようになった。北条氏は上野の半分を手にしていたが、信長の勢力が伸びたことで一益にそれを明け渡さざるを得なくなっていた。上野を取り戻したいという思いは強かったとみられる。",[62,1435,1436],{},"氏政は氏直と氏邦に上野を取り戻すよう命じ、5万6千と号する大軍を送り込んで滝川軍と向き合わせた。北条軍の兵は滝川軍のおよそ3倍にのぼった。最初のぶつかり合いでは先手が痛手を受けたものの、数日後の決戦で大勝し、一益を敗走させた（神流川の戦い）。北条軍は逃げる一益を追って碓氷峠を越えて信濃へ入り、真田昌幸・木曾義昌・諏訪頼忠らを味方に付けたうえで小諸城を拠点に、信濃の東部から中部までを押さえた。",[62,1438,1439],{},"一方、一益が去って空白となった甲斐へは徳川家康が攻め込んだ。家康は依田信蕃を通じて真田昌幸を寝返らせ、小笠原貞慶にも肩入れして北条とぶつかった（天正壬午の乱）。甲斐の若神子で氏直と家康が向き合う間に、信濃では昌幸が北条から離れ、甲斐でも北条氏忠・北条氏勝が黒駒で徳川方の鳥居元忠らに敗れて、北条側の形勢は悪くなった。そこで氏直が家康の娘・督姫を妻に迎える形で講和し、領地は甲斐と信濃を徳川、上野を北条とすることで決着した。ただ、信濃の佐久・小県の2郡と甲斐の郡内を手放すことになったこの講和は、北条にとって分の悪いものだった。そのうえ徳川方に付いた昌幸は、上野の沼田城を北条に渡すことを拒んで上杉方へ移ってしまう。これがのちの沼田問題、さらには名胡桃事件へとつながっていく。",[62,1441,1442],{},"天正11年（1583年）に古河公方の足利義氏が亡くなると、氏政は官途を与える権限を手にし、関東の武家の序列の頂点に立った。江戸周辺と岩付領も支配下に入れて、利根川と常陸川の水運を押さえ、関東の物流と交通を握った。その結果、北条に対抗してきた関東の諸勢力は、北条に従うか、最後まで戦うかのどちらかを選ぶしかなくなった。",[62,1444,1445],{},"天正13年（1585年）、佐竹義重と宇都宮国綱らが那須資晴と壬生義雄らに攻めかかると、氏政は那須方と組んで下野へ本格的に攻め込み、国の南半分を手に入れた。常陸南部でも、江戸崎城の土岐氏と牛久城の岡見氏を後押しして影響力を広げている。こうして北条氏の領国は、相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野に常陸・下野・駿河の一部を加えた範囲に及び、石高はおよそ240万石と、北条氏として最も大きな規模になった。",[75,1447,838],{"id":838},[62,1449,1450],{},"光秀を倒して信長の事業を引き継いだ豊臣秀吉とは、やがてぶつかることになる。天正16年（1588年）、秀吉は聚楽第への行幸に氏政・氏直の父子も列なるよう求めたが、氏政はこれを断った。京では北条を攻めるという噂が立ち、北条側も「京勢催動」として戦の備えに入った。そこへ徳川家康が起請文を送り、自分は北条父子を悪く言わず北条の領地も一切望まないこと、今月中に氏政の兄弟を京へ出すこと、もし豊臣に仕えることを拒むなら督姫を氏直と離縁させることを示して、思いとどまるよう説いた。",[62,1452,1453],{},"8月に弟の北条氏規が氏政の代わりに京へ上ったことで、北条と豊臣の関係はひとまず落ち着いた。武州文書によると、氏政はこのころ名実ともに身を引くと表明している。秀吉に完全に従うことに反対だった氏政が、徳川寄りの氏直を表に立てたともいわれる。しかし氏政はのちに自ら京へ上ると家臣や国衆に知らせており、氏政が戦を望んでいたという見方には疑問も残る。沼尻の合戦のあと、氏政は自ら兵を率いることはなく、官途名の左京大夫も氏直に譲って、表向きは氏直を北条の当主として扱っていた。",[62,1455,1456],{},"天正17年（1589年）2月、評定衆の板部岡江雪斎が京へ上り、沼田をめぐる争いを収めてほしいと秀吉に願い出た。秀吉は沼田領の3分の2を北条に返すと裁き（沼田裁定）、6月には氏政が12月に上洛すると約束した書面を受け取った。沼田領は7月に北条へ渡されている。ところが氏政は、上洛の時期を天正18年（1590年）の春か夏へ延ばしたいと改めて申し入れ、秀吉がこれを退けたことで、両者の関係は再び悪くなっていった。",[62,1458,1459],{},"その最中の10月、氏邦の家臣・猪俣邦憲が名胡桃城を奪う事件が起きる。秀吉は家康や上杉景勝らを京へ呼び、諸大名には翌年春に北条を攻めるための準備を求めた。北条氏へは津田盛月・富田一白を使者として送り、事件の首謀者を罰したうえですぐに上洛するよう迫った。これに対して氏直は、京へ行けば氏政が引き留められる、あるいは国替えを命じられるという噂があるため上洛できないと答えた。さらに、家康が臣従したときには朝日姫を妻に迎え、大政所を人質として差し出されたうえで上洛するという手厚い扱いを受けたことを引き合いに出し、名胡桃の件での北条への扱いとの違いを訴えて、引き留めや国替えの心配なく上洛できるよう求めた。名胡桃城については、氏政や氏直が命じたのではなく、真田方の城主が北条方へ寝返ったために起きたことで、城はすでに真田方へ返したと釈明している。",[62,1461,1462],{},"上洛をずるずると延ばす氏政に業を煮やした秀吉は、上洛と出仕を拒むのは豊臣に従わないことと同じだと判断し、12月23日、諸大名に北条を討つための出陣を正式に命じた。これより先、駿河と伊豆の国境で両者の関係が切れたことを知った氏政・氏直は、17日に家臣と従う国衆に対し、1月15日までに小田原へ集まるよう命じて迎え撃つ構えを整えていた。",[75,1464,1465],{"id":1465},"小田原征伐と最期",[62,1467,1468],{},"天正18年（1590年）3月、四方から攻め寄せる豊臣軍との戦いが始まった（小田原征伐）。北条軍ははじめ、碓氷峠を越えてきた真田昌幸らを退け、駿河・伊豆の国境でも陣を構える豊臣方の諸将に探りを入れるなどした。しかし秀吉が沼津に着くと、最初の戦いで山中城が落ち、4月からはおよそ3か月にわたって小田原城に立てこもることになる。その間に、下田・松井田・玉縄・岩槻・鉢形・八王子・津久井など、領内の城は次々に落とされた。22万ともいわれる豊臣の大軍を前に、北条氏はついに降伏した。",[62,1470,1471],{},"秀吉は、氏政らには切腹を、氏直らには高野山への追放を申し渡すことにした。7月5日、氏直は自分の命と引き換えに城兵を助けてほしいと願い出て降伏した。氏直の舅にあたる家康も氏政の助命を願ったが、秀吉は北条攻めを招いた責任者として、氏政と弟の氏照、重臣の松田憲秀・大道寺政繁に切腹を命じた。",[62,1473,1474],{},"7月11日、氏政は氏照とともに腹を切った。享年53。江戸幕府の奥医師だった田村安栖の家の系譜（「寛政重修諸家譜」）などによれば、切腹の場所は侍医の田村長傳（安栖）の屋敷だったという。長傳は京都紫野の大徳寺の住職・日新和尚の兄にあたる。氏政の首塚は静岡県富士市の源立寺にあり、墓は神奈川県の小田原市内（小田原駅東口）と箱根町にある。",[62,1476,1477],{},"辞世として次の2首が伝わっている。",[1479,1480,1481,1485],"ul",{},[1482,1483,1484],"li",{},"「雨雲の　おほえる月も　胸の霧も　はらいにけりな　秋の夕風」",[1482,1486,1487],{},"「我身今　消ゆとやいかに　おもふへき　空よりきたり　空に帰れば」",[62,1489,1490],{},"戦国大名の後北条氏は、こうして滅亡した。家康の婿だった氏直は命を助けられ、暮らしのための扶持を与えられた。翌天正19年（1591年）8月には秀吉から1万石を与えられ、大名として家を立て直す動きもあったとされるが、氏直はその年の11月に亡くなった。家の血筋は氏政の弟の氏規が受け継ぎ、江戸時代には氏規の子の北条氏盛が河内狭山藩の藩主となって、明治維新まで続いた。",[58,1492,128],{"id":128},[62,1494,1495],{},"氏政は家族を大切にする人物だったようで、優れた弟たちとはいつも仲がよかった。妻の黄梅院についても、武田の駿河攻めをきっかけに離縁させられたものの、氏政は最後まで別れることを渋り、氏康の死後に武田と和睦するとまっさきに妻の遺骨を引き取って丁重に葬った、という話が語られてきた。ところがこの離縁の話そのものが、1970年代に史料を読み違えたことから生まれたもので、同じ時代の他の史料では確かめられない。実際には、黄梅院は最後まで氏政のそばで暮らしていたとされる。",[62,1497,1498],{},"北条氏が滅んだときに実権を握っていたのは氏政だが、父の代よりも領国を広げたこと、仲のよい弟たちと力を合わせ、よい家臣に支えられて戦でも手柄を立てたことを考えれば、けっして無能な武将ではなかった。秀吉に最後まで抵抗した理由については、以前は、氏政が愚かで時代の流れも秀吉との大きな力の差も読めなかったからだとする見方が主流だった。ほかに、源頼朝の時代から東国の武士には中央の政権から離れて立とうとする気風が強く、そうした東国の伝統が抵抗の背景にあったとする見方や、秀吉ははじめから北条を滅ぼすつもりだったとする見方もある。",[62,1500,1501],{},"黒田基樹は、東国の伝統や氏政の愚かさに理由を求めるこれらの見方に異を唱えている。徳川・長宗我部・島津といった有力な大名はたいてい一度は秀吉と戦っており、早くに従った上杉景勝と毛利輝元は、それ以前に織田政権との戦いで追い詰められ、中央の政権の強さを身にしみて知っていたから従ったのだという。つまり、抵抗の理由は当主の出来や土地柄ではなく、有力な大名ならどこにでもある事情だったと黒田は論じる。そのうえで、島津や長宗我部は本拠を攻められる前に降ったのに対し、北条は本拠まで攻め込まれる最後の段階まで戦い続けたのだから、滅ぼされたのは当然の成り行きだったと述べている。",[75,1503,1504],{"id":1504},"逸話",[62,1506,1507],{},"氏政について伝わる逸話には、評判を落とすようなものが多い。しかし氏政はかならずしも無能な当主ではなく、こうした話の多くは後の時代に作られたものと考えられる。",[62,1509,1510,1511,1515],{},"よく知られているのが",[1512,1513,1514],"strong",{},"汁かけ飯の話","である。食事の席で氏政が飯に汁をかけたところ、足りなかったのでもう一度かけ足した。それを見た父の氏康は、毎日食べている飯にかける汁の量も見当がつかないようでは北条家も自分の代で終わりだ、と嘆いたという。飯にかける汁の加減もわからない者に、国や家臣の心を推し量れるはずがない、という意味の話である。ただし、同じ筋の話が毛利元就と輝元の話としても伝わっている。氏政を愚か者とする見方は、18世紀半ばに書かれた『関八州古戦録』（巻十七）のあたりが古い例になる。",[62,1517,1518,1519,1522],{},"もう一つが",[1512,1520,1521],{},"麦の話","で、17世紀前半に成立した『甲陽軍鑑』（巻十一）に出てくる。農民が麦を刈り取っているのを見た氏政が、あの刈りたての麦で昼食にしようと言った。これを伝え聞いた武田信玄は、麦が口に入るまでにどれほど手間がかかるかも知らないのかと、氏政を見下したという。こうした話が、氏政を低く見る下地になったのかもしれない。",[62,1524,1525],{},"なお、後北条氏は鎌倉時代の北条氏とは血がつながっていない。しかし母の瑞渓院を通じて今川氏の系譜をさかのぼると、北条時政の娘の時子（足利義兼の妻）から足利義氏・吉良長氏・今川国氏を経て今川氏親、さらに瑞渓院へと続く流れがあり、氏政が当主となったことで両家の間に系譜の上でのつながりが生まれた。また氏政の和歌一首が、後水尾天皇が選んだと伝わる『集外三十六歌仙』に32番として収められている。",{"title":139,"searchDepth":140,"depth":140,"links":1527},[1528,1529,1536],{"id":60,"depth":140,"text":60},{"id":73,"depth":140,"text":73,"children":1530},[1531,1532,1533,1534,1535],{"id":1389,"depth":146,"text":1389},{"id":1404,"depth":146,"text":1405},{"id":1423,"depth":146,"text":1424},{"id":838,"depth":146,"text":838},{"id":1465,"depth":146,"text":1465},{"id":128,"depth":140,"text":128,"children":1537},[1538],{"id":1504,"depth":146,"text":1504},{"date":1540,"place":1541,"cause":1542,"source":1543},"1590-08-10","相模国小田原城下・医師田村安栖の屋敷（現在の神奈川県小田原市）","切腹（豊臣秀吉の命）","天正18年7月11日。享年53","後北条氏の4代目。父の代より領国を広げて関東に約240万石を治めたが、豊臣秀吉との交渉がこじれて小田原征伐を招き、降伏後に切腹を命じられた","相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野（最大版図は常陸・下野・駿河の一部に及ぶ約240万石）",{"father":1547,"mother":1548,"wives":1549,"children":1557,"adoptedChildren":1585},"北条氏康","瑞渓院",[1550,1553],{"name":1551,"type":165,"note":1552},"黄梅院","武田信玄の娘",{"name":1554,"type":1555,"note":1556},"鳳翔院殿","継室","出自不明",[1558,1560,1563,1566,1568,1571,1573,1575,1577,1580,1582],{"name":1346,"note":1559},"早世",{"name":1561,"rank":175,"mother":1551,"note":1562,"footnoteMarker":520},"北条氏直","第5代当主",{"name":1564,"note":1565},"太田源五郎","太田氏資養子",{"name":1567,"note":1565},"北条氏房",{"name":1569,"note":1570},"北条直重","千葉邦胤養子",{"name":1572},"北条直定",{"name":1574},"北条源蔵",{"name":1576},"北条勝千代",{"name":1578,"note":1579},"竜寿院","里見義頼継室",{"name":1581},"庭田重定室",{"name":1583,"note":1584},"令母院","鈴木繁氏生母",[1586,1590,1593,1596,1599,1602],{"name":1587,"rank":1588,"note":1589},"上杉氏憲","猶子","深谷上杉氏",{"name":1591,"rank":544,"biologicalFather":1547,"note":1592},"菊姫","里見義頼正室",{"name":1594,"rank":544,"biologicalFather":1595},"皆川広照室","中御門宣綱",{"name":1597,"rank":544,"biologicalFather":1598},"小山秀綱室","成田氏長",{"name":1600,"rank":544,"biologicalFather":1601},"上杉氏憲室","北条氏繁",{"name":1603,"rank":544,"note":1604},"芳桂院","千葉邦胤室",[1606,1607,1608],"※1 氏直の母は黄梅院とされることが多いが、武田信玄が娘の安産を祈った記録が見当たらないことなどを理由に、側室が産んだとみる説（浅倉直美）もあり、決着していない","※ 黄梅院は武田氏の駿河侵攻をきっかけに離縁させられたと長く語られてきたが、この話は1970年代に史料を読み違えて生まれたとする研究があり、実際は小田原城で氏政と暮らし続けたとみられている","※ 瑞渓院と鳳翔院殿は、小田原城に立てこもっていた天正18年6月12日の同じ日に亡くなっており、二人とも自ら命を絶ったと考えられている",[1610,1613,1616],{"question":1611,"answer":1612},"北条氏政は本当に「無能」な当主だったのですか？","氏政には、飯にかける汁の加減も見誤って父の氏康を嘆かせた話や、刈り取ったばかりの麦で昼食をとろうと言って武田信玄に笑われた話など、評判を落とす逸話がいくつもあります。ただ、汁の話は毛利元就と輝元の話としても伝わっており、氏政を愚かな人物とする見方をたどると18世紀半ばの『関八州古戦録』あたりまでしかさかのぼれません。麦の話も17世紀前半に書かれた『甲陽軍鑑』に出てくるもので、どちらも後から作られた部分が大きいとみられています。実際には父の代より領国を広げ、優れた弟たちとも仲がよく、戦でも手柄を立てており、無能と呼ぶのは当たりません。",{"question":1614,"answer":1615},"北条氏政はなぜ豊臣秀吉に徹底抗戦したのですか？","以前は、氏政に世の流れや秀吉との力の差を見抜く力がなかったからだとする説明が一般的でした。ほかに、源頼朝の時代から東国の武士には中央から距離を置こうとする気風があり、それが抵抗の背景にあったとする見方や、秀吉ははじめから北条を滅ぼすつもりだったとする見方もあります。これに対して黒田基樹は、徳川・長宗我部・島津など力のある大名はたいてい一度は秀吉と戦っており、早くに従った上杉景勝や毛利輝元は織田政権との戦いで追い詰められた経験から中央の強さを知っていたのだと述べています。そのうえで、抵抗の理由は当主の出来や東国の土地柄ではなく、有力大名ならどこにでもある事情だったと論じました。さらに、島津や長宗我部が本拠を攻められる前に降ったのに対し、北条は本拠が囲まれる最後の段階まで戦い続けたため、滅ぼされたのは避けられなかったとも指摘しています。",{"question":1617,"answer":1618},"北条氏政の最期と、その後の北条氏はどうなったのですか？","天正18年（1590年）7月5日に氏直が降伏したあと、氏直の舅にあたる家康が氏政の命乞いをしましたが、秀吉は聞き入れませんでした。北条攻めを招いた責任者として、氏政と弟の氏照、重臣の松田憲秀・大道寺政繁に切腹が命じられ、氏政は7月11日、小田原城下にあった医師・田村安栖の屋敷で腹を切りました。享年53です。辞世として「雨雲の　おほえる月も　胸の霧も　はらいにけりな　秋の夕風」「我身今　消ゆとやいかに　おもふへき　空よりきたり　空に帰れば」の2首が残っています。これで戦国大名としての北条氏は終わりました。氏直は命を助けられて高野山へ送られ、翌天正19年8月に1万石を与えられて大名に戻る道が開けかけましたが、その年の11月に亡くなります。家の血筋は氏政の弟の氏規が引き継ぎ、江戸時代には氏規の子の北条氏盛が河内狭山藩の藩主となって、明治維新まで家を保ちました。","/kamon/mitsuuroko.png","2026-09-06",{},"北条氏政","ほうじょう うじまさ","左京大夫 相模守",{"title":1337,"description":1544},[1627,1630,1632,1635,1638],{"title":1628,"author":1629,"type":586},"後北条氏","鈴木良一",{"title":1631,"type":586},"歴史群像シリーズ14 真説戦国北条五代 早雲と一族、百年の興亡",{"title":1633,"author":1634,"type":592},"戦国遺文 後北条氏編","杉山博・下山治久 編",{"title":1636,"type":1637},"北条記","軍記",{"title":1639,"author":1640,"type":1637},"北条五代記","三浦浄心","busho/北条氏政",[1643,1645,1649,1653,1657,1660,1663,1666,1670,1673,1677,1680,1683,1688,1692,1696,1700,1702,1704,1708,1712,1716,1719,1723,1727,1731,1735,1739,1743,1747],{"date":1367,"event":599,"description":1644},"「北条系図」（『群書系図部集第四』所収）によれば、天文7年（1538年）に北条家3代目の氏康の次男として生まれる。幼い頃の名は松千代丸。一方で黒田基樹は、『石川忠総留書』にある「氏政亥五十二」の記述から、生年を天文8年（1539年）とみている",{"date":1646,"event":1647,"description":1648},"1552-01-01","兄・氏親の夭折で世子となる","天文21年（1552年）ごろ、兄の新九郎氏親が16歳の若さで亡くなり、次男の氏政が跡継ぎに立てられた",{"date":1650,"event":1651,"description":1652},"1554-01-01","元服して氏政を名乗る","兄の死から2年後、天文23年（1554年）6月までには元服を済ませ、北条新九郎氏政と名乗ったとみられる。初めて戦に出た時期はわからないが、20歳ごろには父の跡継ぎとして動いていたことが確かめられる",{"date":1654,"event":1655,"description":1656},"1560-01-20","家督相続","永禄2年12月23日（1560年1月20日）、父の氏康が退き、氏政が北条家の4代目当主となる（『年代記配合抄』）",{"date":1654,"event":1658,"description":1659},"永禄の飢饉と「御両殿」体制","代替わりは、領国に広がっていた永禄の飢饉を立て直すための措置だったとみられる。その後もしばらくは隠居した氏康が政治の中心にあり、父子は「御両殿」「二屋形」と並び称された",{"date":309,"event":1661,"description":1662},"今川氏真の保護と徳川家康との和議","永禄12年（1569年）、武田と手を切った徳川家康と和議を結び、掛川城に閉じこもっていた今川氏真を助け出して引き取る。さらに次男の氏直を氏真の猶子とし、北条が駿河を治める名分を整えた",{"date":309,"event":1664,"description":1665},"越相同盟の締結","武田信玄に対抗するため、長年の敵だった上杉謙信と手を結ぶ。弟の三郎（のちの上杉景虎）を謙信の養子として越後へ送り、上野国の支配地も譲った",{"date":1667,"event":1668,"description":1669},"1571-11-19","父・氏康の死去と甲相同盟の復活","元亀2年（1571年）10月に氏康が亡くなると、12月には信玄と改めて同盟を結び（甲相同盟）、謙信との同盟は打ち切った。謙信との同盟は条件の詰めが甘く、武田への備えとしてはあまり役に立っていなかった",{"date":317,"event":1671,"description":1672},"利根川で上杉謙信と対陣","天正2年（1574年）、上野へ出てきた謙信を迎え撃つため出陣し、利根川を挟んでにらみ合う。謙信はすでに越中の攻略に気持ちが向いており、本格的な戦にはならなかった",{"date":1674,"event":1675,"description":1676},"1574-11-01","関宿城の攻略","天正2年閏11月、簗田晴助の関宿城を落とす。氏康が「一国に等しい城」と呼んだほどの要地だった",{"date":25,"event":1678,"description":1679},"祇園城の攻略","天正3年（1575年）、下野にある小山秀綱の祇園城を奪う。下総の結城晴朝も北条に従い、関東で上杉に付く勢力はほとんど残らなくなった",{"date":328,"event":1681,"description":1682},"上総侵攻と房相一和","天正5年（1577年）、上総へ攻め込み、長く争ってきた里見義弘と和睦にこぎつける（房相一和）。嫡男の氏直はこの戦で初陣を飾った",{"date":1684,"event":1685,"description":1686,"link":1687},"1578-05-01","御館の乱で上杉景虎を支援","天正6年（1578年）の謙信の死後、甥の上杉景勝と、氏政の弟で謙信の養子になっていた上杉景虎が跡目を争う。氏政は下野で佐竹・宇都宮の軍と向き合っていたため、5月に弟の氏照・氏邦らを越後へ送った。8月下旬には自らも上野の厩橋城まで出たが、まもなく小田原へ戻った","/battles/御館の乱",{"date":1689,"event":1690,"description":1691},"1580-03-25","織田信長への臣従を申し出る","天正8年（1580年）3月10日、本願寺を屈服させて勢いに乗る織田信長に対し、配下に加わりたいと申し入れる",{"date":1693,"event":1694,"description":1695},"1580-09-27","氏直に家督を譲り隠居","天正8年8月19日、戦の最中に当主の座を氏直へ譲るという珍しい形で隠居する。父と同じく隠居後も実権を握り続けたというのが通説だが、黒田基樹は氏政・氏直が出した文書を調べ、領内の政治と軍事の一部は早くから氏直に任され、氏政は外交と軍事の中心を受け持ったとみている",{"date":1697,"event":1698,"description":1699},"1582-04-18","信長への贈答と雉500羽","『信長公記』によると、天正10年（1582年）の3月26日・4月2日・4月3日と続けて端山という使者を立て、信長に祝いの品を贈っている。京都へは雉500羽を送った。それでも信長が北条氏に好意を示すことはなかった",{"date":1044,"event":1308,"description":1701,"link":658},"天正10年6月2日、信長が京都の本能寺で明智光秀に討たれる。知らせを受けた氏政は、まず滝川一益にこれまでどおり協力すると伝えたが、双方の疑いは深まり、数日のうちにはっきりと敵対するに至った",{"date":350,"event":349,"description":1703},"氏直と氏邦に上野を取り戻すよう命じ、5万6千と号する大軍を送り込む。最初の戦いでは先手が痛手を負ったが、数日後の決戦で大勝し、滝川一益を上野から追い落とした",{"date":1705,"event":1706,"description":1707},"1582-10-01","天正壬午の乱と督姫の婚姻","逃げる一益を追って信濃に入り、小諸城を拠点としたが、甲斐へ攻め込んできた徳川家康とぶつかる。若神子で氏直が家康と向き合う間に、真田昌幸が徳川方へ移り、黒駒でも北条勢が敗れて形勢は悪化した。結局、氏直が家康の娘・督姫を妻に迎える形で講和し、甲斐と信濃は徳川、上野は北条が取ることで話がついた",{"date":1709,"event":1710,"description":1711},"1583-01-01","足利義氏の死去と関東の身分秩序","天正11年（1583年）、古河公方の足利義氏が亡くなると、氏政は官途を与える権限を手にして関東の武家の序列の頂点に立つ。江戸周辺と岩付領も押さえ、利根川と常陸川の水運を通じて関東の物流と交通を握った",{"date":1713,"event":1714,"description":1715},"1585-01-01","下野侵攻","天正13年（1585年）、佐竹義重と宇都宮国綱らが那須資晴と壬生義雄らに攻めかかると、那須方と組んで下野へ本格的に攻め込み、国の南半分を手に入れる。常陸南部でも土岐氏・岡見氏を後押しした",{"date":1713,"event":1717,"description":1718},"最大版図240万石を築く","領国は伊豆・相模・武蔵・上総・下総・上野に加え、常陸・下野・駿河の一部まで広がり、石高は約240万石に達して北条氏の歴史で最も大きくなる（数字は、北条氏の旧領に入った家康が慶長3年に行った検地と大名の知行高から見積もったもの）",{"date":1720,"event":1721,"description":1722},"1588-01-01","聚楽第行幸への列席を拒否","天正16年（1588年）、秀吉は聚楽第への行幸に氏政・氏直も列なるよう求めたが、氏政は応じなかった。京で北条攻めの噂が広がり、北条側も戦の備えを始めたが、徳川家康が起請文を送って思いとどまるよう説いた",{"date":1724,"event":1725,"description":1726},"1588-08-01","弟・氏規の上洛","天正16年8月、弟の北条氏規が氏政の代わりに京へ上り、北条と豊臣の関係はひとまず落ち着く。武州文書によれば、氏政はこのころ名実ともに身を引くと表明している",{"date":1728,"event":1729,"description":1730},"1589-01-01","沼田裁定と沼田領の引き渡し","天正17年（1589年）2月、評定衆の板部岡江雪斎が京へ上り、沼田をめぐる争いの決着を秀吉に願い出る。秀吉は沼田領の3分の2を北条に返すと決め、6月には氏政が12月に上洛すると約束する書面を受け取った。沼田領は7月に北条へ渡された",{"date":1732,"event":1733,"description":1734},"1589-10-01","名胡桃城事件","天正17年10月、氏邦の家臣・猪俣邦憲が名胡桃城を奪う事件が起きる。秀吉は津田盛月・富田一白を使者に立て、首謀者を罰したうえですぐに上洛するよう迫ったが、氏直は、京で引き留められる、あるいは国替えを命じられるという噂があるため上洛できないと釈明した",{"date":1736,"event":1737,"description":1738},"1590-01-28","秀吉が諸大名に陣触れ","天正17年12月23日（1590年1月28日）、上洛をずるずると延ばす氏政を豊臣への従属を拒む者と判断した秀吉は、諸大名に北条攻めの出陣を正式に命じる。これより前の17日、氏政・氏直は家臣と従う国衆に、1月15日までに小田原へ集まるよう命じて迎え撃つ構えを取っていた",{"date":1740,"event":1741,"description":1742,"link":269},"1590-05-04","小田原城に籠城","天正18年（1590年）3月から、四方から攻め寄せる豊臣軍と戦う。秀吉が沼津に着陣すると山中城が落ち、4月からはおよそ3か月、小田原城に立てこもった。その間に下田・松井田・玉縄・岩槻・鉢形・八王子・津久井など、領内の城は次々に落とされた",{"date":1744,"event":1745,"description":1746,"link":269},"1590-08-04","氏直の降伏","天正18年7月5日、氏直は自分の命と引き換えに城兵を助けてほしいと願い出て降伏する。22万ともいわれる豊臣の大軍に、北条氏はついに屈した",{"date":1540,"event":1081,"description":1748},"天正18年7月11日、北条攻めを招いた責任を問われ、弟の氏照、重臣の松田憲秀・大道寺政繁とともに切腹を命じられる。「寛政重修諸家譜」に収められた田村安栖家の系譜などは、切腹の場所を侍医の田村長傳（安栖）の屋敷とする。享年53","ZdKFuCw4gein65A9hDA9Wxe8YFFJzKD8-tGz_--C6vo",{"id":1751,"title":1752,"affiliateItems":1753,"aliases":1758,"battles":1762,"birth":1789,"body":1793,"death":1932,"description":1937,"domain":1938,"extension":158,"family":1939,"familyNotes":1987,"faq":1992,"image":11,"kamon":2002,"lastUpdated":2003,"meta":2004,"name":2005,"nameKana":2006,"navigation":212,"path":579,"publishedDate":2003,"representativeTitle":2007,"seo":2008,"sources":2009,"stem":2024,"timeline":2025,"__hash__":2127},"busho/busho/藤堂高虎.md","伊予今治藩主・伊勢津藩初代藩主",[1754,1755,1756,1757],"000259","000261","000263","000260",[1759,1760,1761],"与吉","藤堂与右衛門","藤堂和泉守",[1763,1765,1767,1769,1773,1777,1781,1785],{"slug":18,"date":19,"role":1764},"浅井方で、父・虎高とともに磯野員昌の隊に入る。これが初陣となった",{"slug":353,"date":354,"role":1766},"羽柴秀長の配下で佐久間盛政の隊に鉄砲を浴びせ、退却させる",{"slug":357,"date":358,"role":1768},"峯城と松ヶ島城の攻撃で手柄を立てる",{"slug":1770,"date":1771,"role":1772},"四国攻め","1585-07-13","秀長の軍に加わり、その功で5,400石を加増される",{"slug":1774,"date":1775,"role":1776},"根白坂の戦い","1587-05-24","500の兵を連れて、島津軍に攻められた宮部継潤の砦へ助けに向かう",{"slug":1778,"date":1779,"role":1780},"関ヶ原の戦い","1600-10-21","東軍で大谷吉継の隊とぶつかる。脇坂安治らには東軍へ寝返るよう働きかけた",{"slug":1782,"date":1783,"role":1784},"大坂冬の陣","1614-12-19","徳川方で出陣する",{"slug":1786,"date":1787,"role":1788},"大坂夏の陣","1615-06-03","河内口の先鋒を自ら願い出て、八尾で長宗我部盛親の隊と戦う",{"date":1790,"place":1791,"source":1792},"1556-02-16","近江国犬上郡藤堂村（現・滋賀県犬上郡甲良町在士）","弘治2年1月6日。近江の土豪・藤堂虎高の家に、次男として生まれた",{"type":55,"value":1794,"toc":1920},[1795,1797,1800,1803,1806,1808,1811,1814,1817,1820,1823,1826,1829,1832,1835,1838,1841,1844,1847,1850,1853,1856,1859,1861,1864,1867,1870,1873,1876,1879,1882,1885,1888,1891,1894,1897,1900,1903,1905,1908,1911,1914,1917],[58,1796,60],{"id":60},[62,1798,1799],{},"藤堂高虎は、戦国時代の終わりから江戸時代の初めにかけて活躍した武将で、のちに大名となりました。はじめ伊予今治の藩主となり、その後伊勢津藩に移って初代藩主となります。津藩藤堂家の本家は、この高虎から始まります。",[62,1801,1802],{},"城づくりの名手として知られ、黒田孝高（官兵衛）・加藤清正とともに「築城三名人」と呼ばれます。数多くの城で縄張りを任され、層塔型と呼ばれる新しい形の天守を生み出しました。高い石垣を積む技術や、石垣の上に多聞櫓を連ねる造りも得意としています。豊臣家に仕えた外様の大名でありながら、徳川家康からは側近として扱われ、幕府の重臣に劣らない重みを持っていました。",[62,1804,1805],{},"近江の土豪の家に生まれた高虎は、浅井長政・阿閉貞征・磯野員昌・織田信澄と次々に主君を替えた末、21歳で羽柴秀長に仕えて力を発揮し始めます。秀長の死後は豊臣秀保、ついで秀吉に仕え、秀吉が亡くなると家康に近づいて、関ヶ原の戦いでは東軍につきました。生涯で7度主君を替えたことから、主家を渡り歩く「渡り奉公人」の代表格ともいわれます。",[58,1807,73],{"id":73},[75,1809,1810],{"id":1810},"生まれと主家を渡り歩いた時代",[62,1812,1813],{},"高虎は弘治2年1月6日（1556年2月16日）、近江国犬上郡の藤堂村（いまの滋賀県甲良町在士）に、土豪・藤堂虎高の次男として生まれました。幼い頃の名は与吉です。母の「とら」は多賀良氏の生まれで、のちに藤堂忠高の養女となった人でした。",[62,1815,1816],{},"幼い頃から体が並外れて大きく、乳母一人の乳では足りずに何人もの女性から乳をもらったといいます。気性も荒く、3歳で餅を5つ6つ平らげるのは珍しくなく、けがをしても痛がらなかったと伝わります。13歳のときには兄の高則より背が高く、たくましい体つきでした。『公室年譜略』の永禄11年（1568年）の項には、父と兄が村の家に立てこもった賊を捕らえに向かった際、留守を言いつけられた高虎が後を追って裏口に潜み、逃げ出してきた賊を斬り倒して首を持ち帰ったという話が載っています。兄が戦死した後、若くして家を継ぎました。",[62,1818,1819],{},"最初に仕えたのは近江の戦国大名・浅井長政です。元亀元年（1570年）の姉川の戦いでは、父・虎高とともに磯野員昌の隊に加わって初陣を果たし、手柄を立てました。続く宇佐山城の攻撃でも働き、長政から感状と脇差を与えられています。ところが元亀3年（1572年）、手柄をめぐる言い争いから同僚の山下某を斬り捨て、浅井家を去りました。",[62,1821,1822],{},"天正元年（1573年）、浅井氏が小谷城で織田信長に滅ぼされると、高虎は浅井の旧臣で山本山城主の阿閉貞征のもとで手厚く迎えられます。しかし言うことを聞かない同僚を殺してしまい、ふたたび浪人になりました。次には同じく浅井の旧臣だった小川城主・磯野員昌に80石で仕え、信長の甥・織田信澄が佐和山城に入るとその家臣になります（『諸家深秘録』）。ただ、ここでも禄が増えなかったため長くは続きませんでした。",[75,1824,1825],{"id":1825},"羽柴秀長との出会い",[62,1827,1828],{},"天正4年（1576年）、高虎は羽柴秀吉の弟・秀長に300石で召し抱えられました。秀吉はこのとき信長の重臣です。高虎はこれを機に通称を与右衛門と改めています（『公室年譜略』）。",[62,1830,1831],{},"天正5年（1577年）10月、秀長は3,000の兵で但馬へ攻め入り、岩洲城と竹田城を落としました。高虎は居相政貞に道案内をさせて竹田城への奇襲を成功させ、1,000石を加えられて足軽大将となります。一方で、120騎を率いて尾代谷・古城山の一揆勢を攻めたときは激しく抵抗され、多くの死者を出しながら、最後は高虎がただ一騎で一揆勢と栃谷の兵を打ち破るという苦しい戦いだったと伝わります。",[62,1833,1834],{},"翌年からは播磨の三木合戦に加わりました。天正8年（1580年）正月の鷹の尾城攻めでは、別所友之の家老・加古六郎右衛門と一時間ほど戦い続けた末に討ち取り、その愛馬「加古黒」を自分のものにしています。同じ月の17日に三木城が落ちると、この働きで2,000石を加えられました。",[62,1836,1837],{},"天正9年（1581年）には、秀長の領国・但馬で起きた小代の一揆を鎮めにかかります。小代大膳ら92人を討とうと、栃尾加賀祐善らと示し合わせて攻めましたが、敵に加勢が入って押し返され、高虎は股に傷を負って退きました。苦しい戦いが続いたものの、但馬の土豪を討った功で3,000石を加えられ、鉄砲大将となっています。この年、一色義直の娘を妻に迎えました。",[62,1839,1840],{},"その後も秀長のもとで中国攻めや賤ヶ岳の戦いに加わります。賤ヶ岳では佐久間盛政の隊に鉄砲を浴びせて退かせ、勝利のきっかけをつくる大きな手柄を立てて、1,300石を加増されました。小牧・長久手の戦いでも、峯城と松ヶ島城の攻撃で働いています。",[62,1842,1843],{},"天正13年（1585年）の紀州攻めでは、10月に湯川直晴を降参させ、山本主膳を斬りました。戦後、紀伊国粉河で1万石を与えられ、猿岡山城と和歌山城の普請奉行を任されます。高虎が城づくりに携わったのは、これが最初でした。同じ年の四国攻めでも功を挙げ、秀吉から5,400石を加えられて1万石の大名となっています。秀吉が方広寺に大仏殿を建てたときには、熊野から材木を集める役を命じられました。",[62,1845,1846],{},"関白となった秀吉は天正14年（1586年）、上洛してくる徳川家康のために聚楽第の中へ屋敷を建てるよう秀長に命じ、秀長はその工事の責任者に高虎を選びます。高虎は渡された図面では警備に不安があると考え、自分の判断で造りを変え、費用も自腹でまかないました。のちに家康から図面と違う理由を尋ねられた高虎は、天下の武将である家康にもしものことがあれば主君・秀長の落ち度となり、秀吉の面目にも傷がつくので独断で改めた、お気に召さなければ手討ちにしてほしい、と答えたといいます。家康はこの気配りをありがたく思ったと伝わります。",[62,1848,1849],{},"天正15年（1587年）の九州攻めでは、根白坂の戦いで宮部継潤が島津軍に攻められると、その救援に駆けつけ、2万石に加増されました。この働きが認められ、秀吉の推薦で正五位下・佐渡守に任じられています。天正17年（1589年）には、北山一揆を抑える拠点として、いまの三重県熊野市紀和町に赤木城を築きました。一揆の鎮圧では田平子峠で多くの農民が首をはねられ、土地には「行たら戻らぬ赤木の城へ、身捨てどころは田平子じゃ」という歌が、その厳しさを伝えるものとして残っています。",[75,1851,1852],{"id":1852},"大名としての歩み",[62,1854,1855],{},"天正19年（1591年）に秀長が亡くなると、高虎は秀長の甥で養子の羽柴秀保に仕え、翌年の朝鮮出兵（文禄の役）には秀保の代わりとして出陣しました。文禄4年（1595年）に秀保が若くして亡くなると、高虎は出家して高野山に入ります。けれども高虎の将としての力を惜しんだ秀吉は、生駒親正に説得させて呼び戻しました。高虎は俗世に戻り、5万石を加えられて伊予国板島（いまの宇和島市）で7万石の大名となります。",[62,1857,1858],{},"慶長2年（1597年）に始まる2度目の朝鮮出兵（慶長の役）では水軍を率い、漆川梁海戦で朝鮮の将・元均の水軍を壊滅させました。南原城の戦いや鳴梁海戦にも加わり、帰国後に大洲城1万石を得て8万石となっています。この頃に板島丸串城を大がかりに造り直し、完成後に宇和島城と名を改めました。朝鮮の官人・姜沆を捕らえて日本へ連れてきたのも、この時期のことです。",[75,1860,1778],{"id":1778},[62,1862,1863],{},"慶長3年（1598年）8月に秀吉が亡くなる少し前から、高虎は家康との距離を縮めていきます。もともと家康とは親しい間柄で、豊臣家の家臣たちが武断派と文治派に割れると、家康の側につきました。",[62,1865,1866],{},"慶長5年（1600年）、家康の会津攻めに加わり、続く河渡川の戦いにも出ています。9月15日の関ヶ原の本戦では、朝のうちに大谷吉継の隊と戦い、その後は山中へ移って石田三成の軍とも戦ったとされます。留守にしていた伊予では、毛利輝元の働きかけで一揆が起きましたが、これも鎮めました。高虎は近江時代の人のつながりも生かし、脇坂安治・小川祐忠・朽木元綱・赤座直保に東軍へ寝返るよう働きかけています。戦いの後、脇坂安治は東軍との間を取り持ってくれた礼として、高虎に貞秀の太刀を贈りました。",[62,1868,1869],{},"こうした働きにより、家康は宇和島の8万石をそのまま認めたうえで、今治で12万石を加え、高虎の領地はあわせて20万石となりました。高虎は今治城を新たな居城と定めて造り直し、宇和島城には従弟の藤堂良勝を城代として置いています。",[62,1871,1872],{},"それまでの天守は、望楼型と呼ばれる形が主流でした。無理のある構造のため揺れや風に弱く、必ず屋根裏の階ができてしまうので使いにくいという難点がありました。高虎は今治城で、四角く整えた天守台の上に、寸法をそろえた部材を積み上げていく層塔型の天守を初めて建てます。構造の弱点がなくなったうえ、階ごとに工事を進められるので工期も短くて済みました。高虎が江戸城などの普請でもこの形式を採り入れたことから、層塔型は近世の天守の主流になっていきます。",[75,1874,1875],{"id":1875},"家康の信頼を得て",[62,1877,1878],{},"その後の高虎は徳川家の重臣として働き、江戸城の改築などでも功を挙げました。慶長13年（1608年）、伊賀上野の筒井定次が取り潰され、津の富田信高が伊予宇和島へ移されると、高虎は伊賀の10万石と伊勢安濃郡・一志郡の10万石を与えられて津藩主となります。今治近くの越智郡2万石も飛び地として残り、石高はあわせて22万石でした。今治城には養子の藤堂高吉を城代として置いています。伊賀の領主が筒井氏から藤堂氏に替わったのは、豊臣家の旧臣でありながら家康の腹心でもある高虎を置くことで、大坂方に警戒されずに上方へ徳川の勢力を広げようとした家康の策だったと考えられています。",[62,1880,1881],{},"慶長19年（1614年）の大坂冬の陣には、徳川方として出陣しました。翌年の夏の陣でも徳川方につき、河内口の先鋒を自ら願い出て、八尾で豊臣方の長宗我部盛親の隊と戦います（八尾の戦い）。長宗我部軍の激しい攻めを受け、一族の藤堂良勝・藤堂高刑をはじめ600人あまりが死傷しました。戦後、この功により伊賀と伊勢の鈴鹿・安芸・三重・一志の各郡で5万石を加えられて27万石となり、閏6月には従四位下に位が上がります。ただ、この戦いで勝手な動きをした家臣の渡辺了とはぶつかり、袂を分かっています。",[62,1883,1884],{},"高虎はこの戦いで亡くなった者を弔うため、南禅寺の三門を建て直し、釈迦三尊像と十六羅漢像をつくって納めました。八尾の戦いの首実検は常光寺の居間の縁側で行われたため、その縁側の板はのちに廊下の天井へ張り替えられ、血天井としていまも残っています。",[62,1886,1887],{},"家康が亡くなるときには枕元に付き添うことを許され、家康の死後は2代将軍・秀忠に仕えました。",[75,1889,1890],{"id":1890},"晩年と死",[62,1892,1893],{},"元和3年（1617年）、伊勢度会郡の田丸城5万石を新たに与えられ、弟の正高が下総国に持っていた3,000石も津藩に組み入れて、藩の石高は32万3000石になりました。田丸の5万石は、元和5年（1619年）に徳川頼宣が和歌山城へ移ってくると紀州藩のものとなり、藤堂家には代わりに大和国と山城国で5万石が与えられています。",[62,1895,1896],{},"元和6年（1620年）、秀忠の五女・和子が天皇のもとへ嫁ぐことになると、高虎は自ら願い出て行列の先導役を務めました。入内に反対する公家たちの前では、入内がかなわなければその責めを負って御所で腹を切ると言い切り、強引に話をまとめたといいます（およつ御寮人事件）。また寛永4年（1627年）には、自分の屋敷の敷地に上野東照宮を建てました。",[62,1898,1899],{},"領国の政治にも力を入れ、伊賀上野と津の城下町を整え、農地を切り開き、寺社を建て直して藩の仕組みを固めています。幕府の命令を受けて会津藩・高松藩・熊本藩の後見役も務め、家臣を送り込んでそれぞれの藩の政治を取り仕切りました。",[62,1901,1902],{},"元和9年（1623年）頃から目を患い、寛永7年（1630年）には視力を失います。同じ年の10月5日（1630年11月9日）、江戸の藤堂藩邸で亡くなりました。享年75です。戒名の寒松院殿前伊州林道賢高山権大僧都は天海僧正の命名で、寒風の中でも立ち続ける松になぞらえて寒松院の名を選んだといいます。家督は長男の高次が継ぎました。養子の高吉は高次の家臣となり、のちに伊賀名張へ移って分家の名張藤堂家を立てています。墓は東京・上野恩賜公園の中にある寒松院にあり、三重県津市の高山神社にも祀られています。",[58,1904,128],{"id":128},[62,1906,1907],{},"高虎は身長が6尺2寸（およそ190センチ）もある大男だったといわれます。亡くなった後の体については、「体中疵だらけで、玉疵・鑓疵もあり、右の薬指・小指はちぎりて爪もないし、左の中指も一寸ほど短くなっていて、右足の親指の爪もなかった」という記録が残ります（『平尾留書』）。",[62,1909,1910],{},"政治に対する考え方は、秀長のまわりに集まった一流の文化人から影響を受けていました。その中心にいたのが千利休です。秀長の重臣たちは利休やその弟子たちと付き合う中で、茶の湯など室町時代から続く文化の教養を身につけ、それを政治の力にも生かしていきました。",[62,1912,1913],{},"家臣の扱い方にまつわる話も多く伝わります。よその家へ移りたいと願い出た家臣がいると、翌日に茶会を開いてその席で太刀を与え、移った先が合わなければ戻ってきてよいと伝えました。実際に戻ってきた者には、前と同じ禄を保証したといいます（『古今記聞』）。また、遊びで身を持ち崩した家臣5人のうち、遊女に金をつぎ込んだ者は追放し、博打で失った者は禄を減らして百日の謹慎としたうえで家に残しました。女に溺れる者は役に立たないが、博打を好む者には相手に勝とうとする気概がある、というのがその理由だったと伝わります。",[62,1915,1916],{},"秀忠が二条城を改修する際に設計図を求められた高虎は、あえて2枚の図を差し出しました。理由を問われると、案が一つだけでは将軍が自分の案に従った形になるが、二つ出せばどちらを選んだかは将軍が決めたことになる、と答えたといいます。改修は将軍自身が選んだ案によるもの、という形を整えるための気配りでした。",[62,1918,1919],{},"生涯で7度も主君を替えた高虎は、主家を渡り歩く「渡り奉公人」の典型とされ、一人の主君に一生を捧げるのが武士だとする江戸時代の考え方のもとで、長くよく思われてきませんでした。しかし近年では、渡り奉公人は自分の才覚に自信を持ち、主君とは互いに義務を負い合う対等に近い関係を結ぶ人々で、当時の京都や大坂には大勢いたのだから、高虎が特に変わっていたわけではないと指摘されています。高虎自身、21歳で秀長に仕えてからはその家が絶えるまで尽くし、秀吉にも生きている間はほかの家臣と同じように忠実に仕え、家康に近づいたのは秀吉の死後のことでした。秀長を弔う大光院を大徳寺へ移し、豊臣家が滅んだ後も法要を続けたことも知られており、この支えは高虎の後の藤堂家にも受け継がれています。",{"title":139,"searchDepth":140,"depth":140,"links":1921},[1922,1923,1931],{"id":60,"depth":140,"text":60},{"id":73,"depth":140,"text":73,"children":1924},[1925,1926,1927,1928,1929,1930],{"id":1810,"depth":146,"text":1810},{"id":1825,"depth":146,"text":1825},{"id":1852,"depth":146,"text":1852},{"id":1778,"depth":146,"text":1778},{"id":1875,"depth":146,"text":1875},{"id":1890,"depth":146,"text":1890},{"id":128,"depth":140,"text":128},{"date":1933,"place":1934,"cause":1935,"source":1936},"1630-11-09","江戸の藤堂藩邸","不明（晩年は目を患い、亡くなる年には視力を失っていた）","寛永7年10月5日。享年75","近江の土豪の家から、主君を何度も替えながら大名にのぼりつめた武将。層塔型天守を生み出した築城の名手で、豊臣家の旧臣でありながら徳川家康の側近として重く用いられ、伊勢津藩の初代藩主となった","伊勢・伊賀（津藩32万3000石）",{"father":1940,"mother":1941,"wives":1942,"children":1948,"adoptedChildren":1966},"藤堂虎高","とら",[1943,1946],{"name":1944,"type":165,"note":1945},"久芳院","一色義直の娘",{"name":930,"type":1555,"note":1947},"長連久の娘",[1949,1953,1956,1960,1963],{"name":1950,"rank":1951,"mother":930,"note":1952},"藤堂高次","嫡男","津藩2代藩主",{"name":1954,"rank":175,"mother":930,"note":1955},"藤堂高重","佐兵衛佐",{"name":1957,"rank":1958,"mother":930,"note":1959,"footnoteMarker":520},"亀姫","女","蒲生忠郷に嫁ぐ",{"name":1961,"rank":1958,"mother":930,"note":1962},"藤堂忠季室","藤堂家臣に嫁ぐ",{"name":196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母は藤堂忠高の娘とされる。名は「とら」で、生家は多賀良氏、のちに忠高の養女になったという。多賀良氏の娘で名を盛とする説もある","※1 亀姫（1608-1660）は初め蒲生忠郷の正室となり、のちに専修寺の堯朝に嫁いだ","※ 藤堂高吉（1579-1670）は丹羽長秀の三男。豊臣秀長の養子を経て、高虎の養子に入った","※ 子はいずれも資料の系譜の記載順に並べている",[1993,1996,1999],{"question":1994,"answer":1995},"藤堂高虎は主君を何度も替えていますが、不忠だったのですか？","高虎は生涯で7度主君を替えており、「渡り奉公人」の代表とされてきました。一人の主君に生涯仕えるのが武士の道だとする江戸時代の考え方のもとで、長く低く見られてきたのはそのためです。しかし藤田達生氏は、才覚を頼みに主君と対等に近い関係を結ぶ渡り奉公人は、当時の京都や大坂に大勢いたと指摘し、高虎だけが特別だったわけではないとしています。実際、高虎は21歳で秀長に仕えてからはその家が絶えるまで離れず、秀吉にも生前は忠実に仕え、家康に近づいたのは秀吉の死後のことでした。秀長を弔う大光院も豊臣家の滅亡後まで支え続け、その支援は子孫にも受け継がれています。",{"question":1997,"answer":1998},"築城名人としての藤堂高虎の実績は？","黒田孝高（官兵衛）・加藤清正とともに「築城三名人」に数えられます。初めて城づくりに携わったのは天正13年（1585年）で、猿岡山城と和歌山城の普請奉行を務めました。高い石垣を積む技術と、石垣の上に多聞櫓を連ねる造りを得意とし、今治城では寸法をそろえた部材で組み上げる層塔型天守を初めて建てています。この天守は従来の望楼型より丈夫で工期も短く、江戸城などの普請に取り入れられて、近世の天守の主流になりました。慶長の役で築いた順天の城は、明・朝鮮軍に陸と海から攻められても寄せつけず、守りの固さを実戦で示しました。",{"question":2000,"answer":2001},"外様大名の高虎がなぜ徳川家康に重用されたのですか？","二人の縁は秀長の時代にさかのぼります。高虎は秀長の使いとして家康と直に手紙をやりとりし、家康から高虎個人へ宛てた陣中見舞いも残っています。天正14年（1586年）に聚楽第の家康屋敷を独断で造り替え、家康の身の安全を優先したことも、信頼を得るきっかけになったといわれます。関ヶ原では脇坂安治らを東軍に引き込み、勝利に貢献しました。慶長13年（1608年）に伊賀・伊勢を任されたのも、豊臣家の旧臣でありながら家康の腹心である高虎を置けば、大坂方を刺激せずに上方へ徳川の力を広げられるという、家康のねらいによるものと藤田達生氏はみています。家康は臨終の場にも高虎を呼んでいます。","/kamon/丸に藤.png","2026-08-30",{},"藤堂高虎","とうどう たかとら","従四位下 和泉守",{"title":1752,"description":1937},[2010,2013,2016,2018,2020,2023],{"title":2011,"author":2012,"type":586},"築城の名手 藤堂高虎","福井健二",{"title":2014,"author":2015,"type":586},"江戸時代の設計者―異能の武将・藤堂高虎―","藤田達生",{"title":2017,"author":2015,"type":586},"藤堂高虎論",{"title":2019,"type":592},"高山公実録",{"title":2021,"author":2022,"type":592},"公室年譜略","喜田村矩常",{"title":1273,"author":1274,"type":592},"busho/藤堂高虎",[2026,2028,2031,2034,2037,2040,2044,2047,2050,2052,2054,2058,2062,2065,2068,2071,2075,2079,2083,2087,2090,2094,2098,2102,2105,2109,2113,2117,2121,2125],{"date":1790,"event":599,"description":2027},"近江国犬上郡の藤堂村（いまの滋賀県甲良町在士）で、土豪・藤堂虎高の次男として生まれる。幼い頃の名は与吉。体は並外れて大きく、13歳で兄の高則の背丈を追い越していたと伝わる",{"date":19,"event":2029,"description":2030,"link":241},"姉川の戦いで初陣","浅井長政の家臣として、父・虎高とともに磯野員昌の隊で初めて戦場に立ち、手柄を立てた。続く宇佐山城の攻撃でも働き、長政から感状と脇差を与えられている",{"date":243,"event":2032,"description":2033},"浅井家を去る","元亀3年、手柄をめぐって同僚の山下某と言い争いになり、斬り捨てて逃げた。このとき大きな紋の入った羽織を裏返しに着ていたため、追っ手が大紋の男を尋ね回っても、誰も見分けられなかったという",{"date":313,"event":2035,"description":2036},"主家を転々とする","浅井氏が小谷城で滅びた後、浅井の旧臣で山本山城主の阿閉貞征に手厚く迎えられたが、言うことを聞かない同僚を殺して浪人になる。その後は小川城主・磯野員昌に80石で仕え、佐和山城に入った信長の甥・織田信澄にも仕えたが、禄が増えないため長く続かなかった（『諸家深秘録』）",{"date":325,"event":2038,"description":2039},"羽柴秀長に仕える","天正4年、羽柴秀吉の弟・秀長に300石で召し抱えられ、通称を与右衛門と改めた（『公室年譜略』）。これ以降、秀長の家が絶えるまで仕えることになる",{"date":2041,"event":2042,"description":2043},"1577-10-01","竹田城を奇襲する","天正5年10月、秀長が3,000の兵で但馬へ攻め入り、岩洲城と竹田城を落とした。高虎は居相政貞に道案内をさせて竹田城への奇襲を成功させ、1,000石の加増とともに足軽大将に取り立てられた",{"date":633,"event":2045,"description":2046},"三木合戦","天正8年正月、鷹の尾城の攻撃で別所友之の家老・加古六郎右衛門と一時間ほど渡り合って討ち取り、その愛馬「加古黒」を手に入れた。同月17日に三木城が落ちると、この働きで2,000石を加増された",{"date":33,"event":2048,"description":2049},"但馬の一揆を鎮め、妻を迎える","秀長の領国・但馬で起きた小代の一揆を鎮めにかかる。小代大膳ら92人を討とうとした戦いでは、敵の加勢に押されて股に傷を負い、退くほどの苦戦だった。土豪を討った功で3,000石を加えられ、鉄砲大将となる。この年、一色義直の娘（久芳院）と結婚した",{"date":354,"event":353,"description":2051,"link":674},"佐久間盛政の隊を鉄砲で撃って退かせ、勝利のきっかけをつくった。この大きな手柄で1,300石を加増される",{"date":358,"event":357,"description":2053,"link":681},"峯城・松ヶ島城の攻撃で手柄を立てた",{"date":2055,"event":2056,"description":2057},"1585-03-01","紀州征伐と最初の築城","天正13年の紀州攻めに加わり、10月に湯川直晴を降参させ、山本主膳を討ち取った。戦いの後、紀伊国の粉河で1万石を与えられ、猿岡山城と和歌山城の普請奉行を任される。高虎が城づくりに携わったのはこれが最初だった",{"date":1771,"event":2059,"description":2060,"link":2061},"四国攻めで1万石の大名に","同じ年の四国攻めでも働き、秀吉から5,400石を加えられて1万石の大名となった。秀吉が方広寺に大仏殿を建てる際には、熊野から材木を集める役を命じられている","/battles/四国攻め",{"date":1325,"event":2063,"description":2064},"家康の屋敷を独断で造り替える","天正14年、秀長は聚楽第の中に上洛する徳川家康の屋敷を建てるよう命じられ、工事の責任者に高虎を選んだ。高虎は図面のままでは守りが甘いとみて自分の判断で造りを変え、かかった費用も自腹でまかなった。後で家康にその訳を問われると、家康の身に何かあれば主君の落ち度になるからだと答え、家康はその気配りを喜んだという",{"date":1775,"event":1774,"description":2066,"link":2067},"九州攻めで、島津軍に攻められた宮部継潤を500の兵で助け、2万石に加増された。秀吉の推薦で正五位下・佐渡守にも任じられている","/battles/根白坂の戦い",{"date":1728,"event":2069,"description":2070},"赤木城を築く","天正17年、北山一揆を抑える拠点として、いまの三重県熊野市紀和町に赤木城を築いた。一揆の鎮圧では田平子峠で多くの農民が首をはねられ、その厳しさは「行たら戻らぬ赤木の城へ、身捨てどころは田平子じゃ」という土地の歌に残っている",{"date":2072,"event":2073,"description":2074},"1591-02-15","秀長の死と秀保への奉公","天正19年に秀長が亡くなると、秀長の甥で養子の羽柴秀保に仕えた。翌年（文禄元年）の朝鮮出兵には、秀保の代わりとして海を渡っている",{"date":2076,"event":2077,"description":2078},"1595-01-01","高野山から呼び戻され宇和島7万石に","文禄4年に秀保が若くして亡くなり、高虎は髪を剃って高野山に入った。しかし高虎の力量を惜しんだ秀吉が生駒親正を遣わして説き伏せ、俗世に戻らせる。5万石を加えられ、伊予国板島（いまの宇和島市）で7万石の大名となった",{"date":2080,"event":2081,"description":2082},"1597-01-01","慶長の役と漆川梁海戦","慶長2年からの再出兵では水軍を率い、漆川梁海戦で元均の朝鮮水軍を壊滅させた。南原城の戦いと鳴梁海戦にも加わり、帰国後に大洲城1万石を得て8万石となる。この頃、板島丸串城を大きく造り直し、完成後に宇和島城と名を改めた",{"date":2084,"event":2085,"description":2086},"1598-01-01","徳川家康に近づく","慶長3年8月に秀吉が亡くなる少し前から、家康との距離を縮めていった。もとから家康と親しく、豊臣家の家臣たちが武断派と文治派に割れると、家康の側についた",{"date":1779,"event":1778,"description":2088,"link":2089},"会津攻めに加わり、続く河渡川の戦いにも出た。9月15日の本戦では朝のうちに大谷吉継の隊と戦い、のちに山中へ移って石田三成の軍とも戦ったとされる。近江にいた頃のつながりを使い、脇坂安治・小川祐忠・朽木元綱・赤座直保を東軍へ寝返らせる工作もした","/battles/関ヶ原の戦い",{"date":2091,"event":2092,"description":2093},"1600-11-01","今治20万石と層塔型天守","戦功により、宇和島の8万石はそのままに今治で12万石を加えられ、あわせて20万石となった。今治城を新たな居城として造り直し、宇和島城は従弟の藤堂良勝に預けた。今治城で初めて建てた層塔型天守は、四角い天守台の上に寸法をそろえた部材を積み上げる造りで、それまでの望楼型の弱点をなくし、工事の期間も縮めた。のちの天守の多くがこの形式にならっている",{"date":2095,"event":2096,"description":2097},"1608-01-01","津へ移る（22万石）","慶長13年、伊賀上野の筒井定次が取り潰され、津の富田信高が伊予宇和島へ移されたのを受け、伊賀の10万石と伊勢安濃郡・一志郡の10万石、それに今治近くの越智郡2万石をあわせた22万石で津藩主となった。今治城には養子の高吉を城代として置いた",{"date":2099,"event":2100,"description":2101},"1614-01-01","伊賀の「忍び衆」を召し抱える","慶長19年、伊賀の郷士10人を「忍び衆」として雇い入れ、上野の城下に屋敷を与えた（忍町）。参勤交代の道中の警固や、御殿と城内の見張り、武士・町人・百姓の様子を探ることが役目だったとされる",{"date":1783,"event":1782,"description":2103,"link":2104},"徳川方で出陣した","/battles/大坂冬の陣",{"date":1787,"event":2106,"description":2107,"link":2108},"大坂夏の陣・八尾の戦い","河内口の先鋒を自ら買って出て、八尾で長宗我部盛親の隊とぶつかった。激しい攻めを受け、一族の藤堂良勝・藤堂高刑を含む600人あまりが死傷している。戦後に5万石を加えられて27万石となり、閏6月には従四位下へ位が上がった。一方、この戦いで勝手に動いた家臣の渡辺了とは衝突し、袂を分かった","/battles/大坂夏の陣",{"date":2110,"event":2111,"description":2112},"1616-01-01","家康の最期を看取る","元和2年、家康は亡くなる10日前に高虎を枕元へ呼び、「世話になったが、来世ではそなたと会えぬのがつらい」と涙を流したという。高虎は、自分は日蓮宗だが家康と同じ天台宗に改めるので、あの世でもお仕えできると答えたと伝わる（『西嶋八兵衛留書』）。家康の死後は2代将軍・秀忠に仕えた",{"date":2114,"event":2115,"description":2116},"1617-01-01","田丸5万石を加え32万3000石に","元和3年、伊勢度会郡の田丸城5万石を加えられ、弟・正高が下総国に持っていた3,000石も津藩に組み入れて、藩の石高は32万3000石となった。田丸の5万石は元和5年に紀州藩へ移され、代わりに大和国と山城国で5万石が与えられている",{"date":2118,"event":2119,"description":2120},"1620-01-01","和子の入内で露払いを務める","元和6年、秀忠の五女・和子が天皇のもとへ嫁ぐ際、自分から願い出て行列の先導役を務めた。入内に反対する公家たちには、入内がかなわなければ自分が責めを負って御所で腹を切るとまで迫り、力ずくで話をまとめたという（およつ御寮人事件）",{"date":2122,"event":2123,"description":2124},"1627-01-01","上野東照宮を建てる","寛永4年、自分の屋敷の敷地に上野東照宮を建てた。この頃、幕府の命令で会津藩・高松藩・熊本藩の後見役となり、家臣を送り込んでそれぞれの藩政を取り仕切っている",{"date":1933,"event":691,"description":2126},"寛永7年10月5日、江戸の藤堂藩邸で亡くなった。享年75。天海僧正が寒風の中に立つ松になぞらえて戒名（寒松院殿前伊州林道賢高山権大僧都）を付けたという。家督は長男の高次が継ぎ、養子の高吉はのちに伊賀名張へ移って分家（名張藤堂家）を立てた","OjkaRJ4singak1tiD133h017BuR2-9Tg_gXg0_dRVYY",[2129,2137,2144,2151,2158,2163,2170,2175,2180,2184,2191,2198,2204,2210,2216,2220,2221,2227,2231,2236,2239,2244,2250,2255,2258,2264,2268,2274,2277,2281,2286,2287,2292,2298,2302,2308,2310,2316,2319,2324,2325,2328,2334,2337,2341,2345,2346,2349,2350,2355,2356,2362,2368,2372,2376,2380,2384,2390,2394,2399,2403,2404,2409,2413,2417,2419,2425,2428,2430,2433,2439,2445,2449,2452,2456,2457,2460,2465,2468,2473,2479,2482,2486,2492,2494],{"month":2130,"day":2131,"year":2132,"date":2133,"type":599,"name":2134,"path":2135,"kyureki":2136},1,8,1556,"1556-01-08","上杉景勝","/busho/上杉景勝","弘治元年11月27日",{"month":2130,"day":2138,"year":2139,"date":2140,"type":599,"name":2141,"path":2142,"kyureki":2143},15,1539,"1539-01-15","前田利家","/busho/前田利家","天文7年12月25日",{"month":2130,"day":2138,"year":2145,"date":2146,"type":2147,"name":2148,"path":2149,"kyureki":2150},1643,"1643-01-15","命日","立花宗茂","/busho/立花宗茂","寛永19年11月25日",{"month":2130,"day":2152,"year":2153,"date":2154,"type":2147,"name":2155,"path":2156,"kyureki":2157},23,1620,"1620-01-23","直江兼続","/busho/直江兼続","元和5年12月19日",{"month":2130,"day":2159,"year":2160,"date":22,"type":2161,"name":21,"path":248,"kyureki":2162},25,1573,"合戦","元亀3年12月22日",{"month":2130,"day":2164,"year":2165,"date":2166,"type":599,"name":2167,"path":2168,"kyureki":2169},31,1543,"1543-01-31","徳川家康","/busho/徳川家康","天文11年12月26日",{"month":140,"day":2171,"year":2172,"date":755,"type":599,"name":972,"path":2173,"kyureki":2174},6,1536,"/busho/佐々成政","天文5年1月15日",{"month":140,"day":2138,"year":2176,"date":2072,"type":2147,"name":2177,"path":2178,"kyureki":2179},1591,"豊臣秀長","/busho/豊臣秀長","天正19年1月22日",{"month":140,"day":2181,"year":2132,"date":1790,"type":599,"name":2005,"path":2182,"kyureki":2183},16,"/busho/藤堂高虎","弘治2年1月6日",{"month":140,"day":2185,"year":2186,"date":2187,"type":599,"name":2188,"path":2189,"kyureki":2190},18,1530,"1530-02-18","上杉謙信","/busho/上杉謙信","享禄3年1月21日",{"month":146,"day":2192,"year":2193,"date":2194,"type":599,"name":2195,"path":2196,"kyureki":2197},17,1537,"1537-03-17","豊臣秀吉","/busho/豊臣秀吉","天文6年2月6日",{"month":2199,"day":146,"year":2200,"date":643,"type":2147,"name":2201,"path":2202,"kyureki":2203},4,1582,"武田勝頼","/busho/武田勝頼","天正10年3月11日",{"month":2199,"day":2181,"year":2205,"date":2206,"type":599,"name":2207,"path":2208,"kyureki":2209},1497,"1497-04-16","毛利元就","/busho/毛利元就","明応6年3月14日",{"month":2199,"day":2192,"year":2211,"date":2212,"type":2161,"name":2213,"path":2214,"kyureki":2215},1548,"1548-04-17","第二次小豆坂の戦い","/battles/第二次小豆坂の戦い","天文17年3月19日",{"month":2199,"day":2217,"year":2218,"date":1354,"type":2147,"name":2188,"path":2189,"kyureki":2219},19,1578,"天正6年3月13日",{"month":2199,"day":2217,"year":2218,"date":1354,"type":2161,"name":1353,"path":1687,"kyureki":-1},{"month":2199,"day":2217,"year":2222,"date":2223,"type":2147,"name":2224,"path":2225,"kyureki":2226},1604,"1604-04-19","黒田官兵衛","/busho/黒田官兵衛","慶長9年3月20日",{"month":2199,"day":2217,"year":2228,"date":2229,"type":2147,"name":2134,"path":2135,"kyureki":2230},1623,"1623-04-19","元和9年3月20日",{"month":2199,"day":2232,"year":2233,"date":2234,"type":2147,"name":2141,"path":2142,"kyureki":2235},27,1599,"1599-04-27","慶長4年閏3月3日",{"month":2237,"day":146,"year":2238,"date":44,"type":2161,"name":43,"path":269,"kyureki":-1},5,1590,{"month":2237,"day":2240,"year":2200,"date":2241,"type":2161,"name":2242,"path":2243,"kyureki":-1},7,"1582-05-07","備中高松城の戦い","/battles/備中高松城の戦い",{"month":2237,"day":2245,"year":2160,"date":2246,"type":2147,"name":2247,"path":2248,"kyureki":2249},13,"1573-05-13","武田信玄","/busho/武田信玄","元亀4年4月12日",{"month":2237,"day":2138,"year":2251,"date":2252,"type":2147,"name":1970,"path":2253,"kyureki":2254},1585,"1585-05-15","/busho/丹羽長秀","天正13年4月16日",{"month":2237,"day":2185,"year":2256,"date":358,"type":2161,"name":357,"path":681,"kyureki":2257},1584,"天正12年4月9日",{"month":2237,"day":2217,"year":2259,"date":2260,"type":2161,"name":2261,"path":2262,"kyureki":2263},1546,"1546-05-19","河越城の戦い","/battles/河越城の戦い","天文15年4月20日",{"month":2237,"day":2265,"year":2266,"date":1775,"type":2161,"name":1774,"path":2067,"kyureki":2267},24,1587,"天正15年4月17日",{"month":2237,"day":2269,"year":2132,"date":2270,"type":2147,"name":2271,"path":2272,"kyureki":2273},28,"1556-05-28","斎藤道三","/busho/斎藤道三","弘治2年4月20日",{"month":2237,"day":2269,"year":2132,"date":2270,"type":2161,"name":2275,"path":2276,"kyureki":2273},"長良川の戦い","/battles/長良川の戦い",{"month":2171,"day":2130,"year":2278,"date":2279,"type":2147,"name":2167,"path":2168,"kyureki":2280},1616,"1616-06-01","元和2年4月17日",{"month":2171,"day":146,"year":2282,"date":1787,"ty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6],{},"討ち死にした元忠の鎧「紺糸素懸縅二枚胴具足」は鈴木重朝の手に渡りました。重朝は元忠の子・忠政に返そうとしましたが、忠政は深く心を打たれながらも、そのまま重朝に譲っています。鎧は鈴木家に代々伝わり、2004年に大阪城天守閣へ寄贈されました（兜は幕末に作り直されたものです）。",[62,2558,2559],{},"京都市の養源院や正伝寺などには、伏見城で亡くなった徳川方の血に染まった床板を、供養のため天井板にしたという「血天井」が伝わっています。ただし、その建物が焼け残ったことや床板を移したことを裏付ける記録はなく、どこまで本当かははっきりしていません。伏見城そのものは、戦いの後に家康によって建て直されました。",{"title":139,"searchDepth":140,"depth":140,"links":2561},[2562,2563,2564,2565],{"id":60,"depth":140,"text":60},{"id":2517,"depth":140,"text":2517},{"id":2532,"depth":140,"text":2532},{"id":2547,"depth":140,"text":2547},"慶長5年7月18日〜8月1日（落城は8月1日）",[2568,2571,2574],{"question":2569,"answer":2570},"伏見城の戦いは関ヶ原の戦いとどう関係しますか？","伏見城の戦いは、9月15日の関ヶ原の戦いに先立つ前哨戦です。家康が会津へ向かった留守に、石田三成ら西軍は家康の家臣・鳥居元忠が守る伏見城を攻めました。城は8月1日に落ちましたが、攻め落とすのに10日以上かかったため、その後の西軍の美濃・伊勢方面への進出が大きく遅れたとする説があります。",{"question":2572,"answer":2573},"島津義弘や小早川秀秋は、はじめ徳川方につくつもりだったのですか？","島津義弘と小早川秀秋は、もとは家康に味方するつもりで伏見城に入ろうとしたものの、城側に断られたため、やむなく西軍に加わって城を攻めたとする説があります。島津家の記録では、義弘は家康から援軍を頼まれて千の兵で駆けつけたものの、元忠はそのような話は聞いていないとして入城を拒んだとされます。ただ、この話の出典はどちらも江戸時代にできた記録で、事実だったかどうかは確かめられていません。",{"question":2575,"answer":2576},"伏見城の「血天井」は本当に伏見城の床板なのですか？","京都市の養源院・正伝寺などには、伏見城で討ち死にした徳川方の血に染まった床板を、供養のために天井板として使ったという言い伝えがあり、「血天井」として今も見ることができます。ただし、徳川方の将兵が亡くなった建物が焼け残ったことや、床板を移したことを裏付ける記録はなく、言い伝えがどこまで本当かははっきりしていません。",{"name":2578,"lat":2579,"lng":2580},"山城国伏見城（現在の京都府京都市伏見区桃山町。本丸跡は明治天皇伏見桃山陵）",34.93716667,135.78119444,{},"ふしみじょう の たたかい",{"seigun":2584,"tokugawa":2607},{"name":2585,"commander":2586,"warriors":2590,"troops":2605,"casualties":2606},"西軍",[2587],{"slug":2588,"name":2588,"role":2589},"宇喜多秀家","総大将。7月22日に攻め手に加わる",[2591,2594,2596,2600,2603],{"slug":2592,"name":2592,"role":2593},"小早川秀秋","7月下旬から攻め手に加わる",{"slug":2387,"name":2387,"role":2595},"城に入ろうとして断られ、西軍についたとする説がある",{"slug":2597,"name":2598,"role":2599},"毛利勝永","毛利吉政（勝永）","攻撃で多くの家臣を失う",{"slug":2601,"name":2601,"role":2602},"鈴木重朝","鉄砲頭。鳥居元忠を討ち取る",{"slug":2462,"name":2462,"role":2604},"降伏を勧める使者を送る。7月29日に伏見に着く","約40,000人","毛利勝永の隊が毛利九左衛門・毛利勘左衛門ら多くの家臣を失い、島津義弘の隊にも死傷者が出た",{"name":2608,"commander":2609,"warriors":2612,"troops":2637,"casualties":2638},"徳川軍（伏見城の守備隊）",[2610],{"slug":210,"name":210,"role":2611},"伏見城の守将。鈴木重朝に討たれる",[2613,2616,2619,2622,2625,2627,2630,2632,2634],{"slug":2614,"name":2614,"role":2615},"松平家忠","討ち死に",{"slug":2617,"name":2617,"role":2618},"松平近正","元忠とともに籠城",{"slug":2620,"name":2620,"role":2621},"内藤家長","子の元長とともに討ち死に",{"slug":2623,"name":2623,"role":2624},"内藤元長","家長の子。討ち死に",{"slug":2626,"name":2626,"role":2615},"上林竹庵",{"slug":2628,"name":2628,"role":2629},"篠山資家","守備隊に加わる",{"slug":2631,"name":2631,"role":2629},"佐野綱正",{"slug":2633,"name":2633,"role":2629},"山岡景光",{"slug":2635,"name":2635,"role":2636},"木下勝俊","守備を任されていたが城を去る","約2,300人（城兵1,800人に、大坂城西の丸から移ってきた500人を加えた数。1,800人とする記述もある）","鳥居元忠・内藤家長と元長の父子・松平家忠・上林竹庵ら800人が討ち死にし、城は焼け落ちた","/battles","西軍の勝利。伏見城は落城し、守将の鳥居元忠をはじめ城兵800人が討ち死にした",{"description":139},"関ヶ原の戦いの前哨戦。家康の留守を預かる伏見城が西軍に攻め落とされたが、攻略に10日以上かかったことが、西軍の美濃・伊勢への展開を遅らせたとする説がある",[2644,2645,2647],{"title":217,"type":218},{"title":2646,"type":218},"島津家譜",{"title":2648,"type":218},"島津家代々軍記","battles/伏見城の戦い",[2651,2655,2659,2663,2667,2671,2675],{"time":2652,"event":2653,"description":2654},"慶長5年6月16日〜18日（1600年7月26日〜28日）","家康、伏見城を元忠に託す","会津の上杉景勝を討つため大坂を発った徳川家康は、16日に伏見城に入り、留守を鳥居元忠に任せた。18日、家康は伏見から東へ向かった",{"time":2656,"event":2657,"description":2658},"7月15日（8月23日）","伏見城の籠城が始まる","元忠らは西軍の挙兵に備えて城に籠もる。元忠は降伏を勧めに来た使者を斬り、亡骸を送り返した",{"time":2660,"event":2661,"description":2662},"7月17日（8月25日）","三奉行が家康を弾劾する","大坂城の前田玄以・増田長盛・長束正家が、西の丸にいた家康の留守居を追い出し、家康の非を13か条にまとめた弾劾状を出す",{"time":2664,"event":2665,"description":2666},"7月18日〜19日（8月26日〜27日）","攻撃が始まる","西軍が攻撃を始め、19日から本格的な戦いとなる。城兵は打って出て、前田玄以・長束正家らの屋敷を焼き払った",{"time":2668,"event":2669,"description":2670},"7月22日〜23日（8月30日〜31日）","宇喜多秀家・小早川秀秋が加わる","攻め手に宇喜多秀家の軍が加わり、続いて小早川秀秋の軍も加わる。西軍は昼も夜も鉄砲を撃ちかけ、土を盛った山に大筒・石火矢を据え、堀を埋めて城に迫った",{"time":2672,"event":2673,"description":2674},"7月29日（9月6日）","石田三成が伏見に着く","石田三成が伏見に到着する。城はなおも持ちこたえていた",{"time":2676,"event":2677,"description":2678},"8月1日（9月8日）","落城","昼ごろに城が落ちる。鳥居元忠は鈴木重朝に討たれ、内藤家長・元長父子、松平家忠、上林竹庵ら800人が討ち死にした。近くの村人たちは、小栗栖の山からこの戦いを見物していたという","gQtBAeQcxI4CxCp413HVTTJ62S1yCsgAl9UAAR0SosQ",{"id":2681,"title":349,"affiliateItems":2682,"body":2683,"date":350,"description":139,"era":2753,"extension":158,"faq":2754,"lastUpdated":575,"location":2764,"meta":2768,"name":349,"nameKana":2769,"navigation":212,"participants":2770,"path":2639,"publishedDate":575,"result":2856,"seo":2857,"significance":2858,"sources":2859,"stem":2870,"timeline":2871,"__hash__":2903},"battles/battles/神流川の戦い.md",[1341,299],{"type":55,"value":2684,"toc":2747},[2685,2687,2690,2693,2696,2698,2701,2704,2707,2710,2713,2715,2718,2721,2724,2727,2730,2732,2735,2738,2741,2744],[58,2686,60],{"id":60},[62,2688,2689],{},"神流川の戦いは、本能寺の変から2週間ほど後の天正10年6月16日から19日（1582年7月5日〜8日）にかけて、武蔵国賀美郡のあたりで起きた戦いです。戦ったのは、織田家の関東支配を任されていた滝川一益と、北条氏直・氏邦が率いる北条軍でした。関東で戦国時代最大の野戦ともいわれ、旧武田領をめぐる天正壬午の乱の中の戦いの一つにも数えられます。",[62,2691,2692],{},"信長が死んだと知った北条氏は、一益には友好を保つと伝えながら兵を集め、5万の大軍で上野へ攻め込みました。一益は1万8千の兵で迎え撃ち、18日の戦いでは北条氏邦の軍を破りましたが、翌19日の決戦で北条氏直に敗れます。",[62,2694,2695],{},"一益は上野の国衆に人質を返し、碓氷峠と木曽谷を通って伊勢へ引き揚げました。清洲会議に出られなかった一益は織田家中での立場を失い、勝った北条氏は信濃へ進んで、上杉氏・徳川氏との三つ巴の争いに入っていきます。",[58,2697,2517],{"id":2517},[62,2699,2700],{},"北条氏は天正8年（1580年）ごろから織田氏と手を結び、当主・北条氏直と信長の娘との縁組も話が進んでいました。天正10年（1582年）2月になると、織田信忠を大将とする軍が武田領へ攻め込むと、武田氏は北条軍や信長自身の軍が着く前にあっさり崩れてしまいます。北条氏も駿河東部で武田方を追い払うなどの働きはしましたが、上野方面ではこれといった成果を挙げられないまま、3月11日に武田氏の滅亡を迎えました。",[62,2702,2703],{},"戦後の3月23日、信長は滝川一益に上野一国と信濃の小県・佐久2郡を与え、織田方についた関東の領主たちを一益の配下に付けました。一益は箕輪城、ついで厩橋城に入り、北の沼田城に甥の滝川益重、西の松井田城に津田秀政、信濃の小諸城に道家正栄を置きます。残る武田領も河尻秀隆・森長可・毛利長秀らに分けられ、北条氏の取り分はありませんでした。",[62,2705,2706],{},"一益が元からの領地を保証すると伝えたことで、周りの領主たちは人質を連れて次々に一益のもとへ出向きました。5月に一益が厩橋城で催した能には北条氏も加わっており、表向きは両家の関係は良好でした。しかし一益は、下野の祇園城を元の城主・小山秀綱に返させるなど、北条氏に不利な裁きも下しています。関東の支配者の座を望んできた北条氏にとって、上野が織田家の直轄地のようになり、佐竹氏を頼っていた太田資正・梶原政景父子まで一益のもとへ出向く状況は、焦りと不信を募らせるものでした。",[62,2708,2709],{},"6月2日、信長が本能寺で討たれます。知らせは6月7日（9日とする記述もある）に一益のもとへ届きました。10日、一益は上野の諸将を集めて信長父子の死を明かし、北条氏と一戦を交えてから上方へ戻る、自分の首を手土産に北条へ寝返りたい者は遠慮なくかかってこい、と告げたといいます（『上毛古戦記』）。この混乱の中、沼須城の藤田信吉が上杉景勝と通じて沼田城を攻めましたが、6月13日に一益が2万の兵で駆けつけて追い払いました（沼田城の戦い）。同じころ、信濃の森長可と毛利長秀は領地を捨てて引き揚げ、甲斐の河尻秀隆は武田の旧臣たちに殺されています。",[62,2711,2712],{},"北条氏政は6月11日、深谷の狩野一庵から本能寺の件を聞いたと一益に知らせ、これからも友好を保つと伝えました。ただ、狩野一庵は北条氏照の家老で、氏照の軍がすでに深谷まで来ていることも、この手紙からは読み取れます。北条氏は翌12日に領国へ動員をかけ、信長と信忠の死が確かになると、氏直と氏邦に5万の兵を預けて上野へ攻め込ませました。",[58,2714,2532],{"id":2532},[62,2716,2717],{},"上野を治め始めてまだ3ヶ月の一益は、留守の城に守りを置いて出陣しました。厩橋城は滝川忠征、小諸城は道家正栄に任せ、松井田城には津田秀政・稲田九蔵と兵1,500騎を残しています。率いた兵は1万8千でした。軍勢には尾張以来の家臣のほか、倉賀野秀景・内藤昌月・小幡信貞・和田信業・由良国繁・長尾顕長・北条高広・真田昌幸ら、武田氏の旧臣を中心とする上野・信濃の将が加わっていました。",[62,2719,2720],{},"6月16日、北条氏直の軍が倉賀野方面へ進んできます。18日、滝川勢はまず、北条氏邦の家臣・斎藤光透と弟の基盛が守っていた2つの城、武蔵児玉郡の金窪城と川井城を落としました。続いて金窪原で、上野衆とともに氏邦の鉢形衆5千とぶつかり、石山大学・保坂大炊介を討ち取ります。上野衆の佐伯伊賀守も討たれましたが、北条勢は崩れ、追撃を受けて200人あまりが命を落としました。この戦いには氏直も加わっていたとされ、鉢形衆300人に加えて氏直のそば近くの者も多く討たれたとする記録も残っています（松平義行氏所蔵文書）。",[62,2722,2723],{},"翌19日、北条氏直は2万の兵を、一益は自らの手勢3千を率いて戦いました。はじめは氏直の兵が押し返されましたが、最後は滝川勢が敗れ、上野衆でも木部貞朝や、倉賀野秀景の息子の五郎太・六弥太らが討たれました。",[62,2725,2726],{},"その夜、一益は倉賀野城を経て厩橋城へ引き揚げ、城下の長昌寺で戦死者を弔いました。20日には、北条高広の次男など上野衆から預かっていた人質を返しています。このとき一益が自ら鼓を打って謡曲「羅生門」の一節「武士の交り頼みある仲の酒宴かな」を謡うと、倉賀野秀景が「源氏供養」の「名残今はと鳴く鳥の」で応え、別れを惜しんだと伝わります。一益は太刀・長刀・金銀・秘蔵の掛物などを上野の将たちに贈り、夜更けに箕輪城を出ました。",[62,2728,2729],{},"21日、松井田城で津田秀政らの兵を加えて2千あまりとなった一行は、碓氷峠を越え、その日のうちに道家正栄の守る小諸城へ着きました。木曽谷を通るため、一益は佐久・小県の国衆から預かっていた人質（依田康国や真田昌幸の母など）を木曾義昌に引き渡すことにし、27日に小諸城を発ちます。小諸城は依田信蕃に明け渡すよう、道家正栄に言い置いたといいます。28日に下諏訪で義昌から通行を認める返事を受け取り、木曽谷を抜けて美濃へ入った一益は、尾張の清洲で三法師（織田秀信）に拝謁しました。",[58,2731,2547],{"id":2547},[62,2733,2734],{},"勝った北条氏直は一益を追って碓氷峠を越え、6月26日には佐久郡の領主たちを従えました。7月9日には真田昌幸も北条方につき、氏直は小諸城まで進んで木曾義昌や諏訪頼忠に領地を保証する書状を与えるなど、信濃の大半を押さえるかにみえました。しかし北信濃には上杉景勝が兵を進め、同じ7月9日には徳川家康が甲斐を押さえて南信濃をうかがいます。こうして旧武田領は北条・上杉・徳川の三者による奪い合い（天正壬午の乱）となりました。一益が木曾義昌に渡した佐久・小県の人質は9月17日に家康の手に移り、北条氏はこの2郡の領主たちに背かれることになります。",[62,2736,2737],{},"一方、敗れた一益は6月27日の清洲会議に出られず（もともと呼ばれていなかったとする説もある）、織田家中での立場を大きく落としました。翌天正11年（1583年）には柴田勝家・織田信孝の側について秀吉と戦い、長島城で抵抗を続けたものの7月に降伏して領地を失います。小牧・長久手の戦い（天正12年・1584年）では秀吉方として蟹江城を攻め、その功で大名に返り咲きました。晩年の一益は秀吉の東国外交にも関わり、佐竹義重らへの書状で北条攻めの意向を伝えており、これはのちに北条氏を追い詰める一因になったと考えられています。",[62,2739,2740],{},"置き去りにされた上野の将たちのうち、由良国繁と長尾顕長は、北条高広と同じくすぐに一益と縁を切って北条方につき、ほかの将もみな北条氏に従いました。小泉城の富岡秀高は、この戦いでどちらにも加わらなかったため、北条氏直から疑いの目を向けられています。箕輪城には北条氏邦が入りました。内藤昌月のもとに身を寄せていた保科正俊・正直父子は、北条軍とともに信濃へ入って高遠城を取り戻しています。",[62,2742,2743],{},"その後、北条高広・真田昌幸は上杉景勝と、由良国繁・長尾顕長は佐竹義重らと結んで北条氏から離れましたが、真田昌幸のほかはみな敗れて再び北条氏に下りました。天正18年（1590年）の小田原征伐で北条氏が滅ぶと、真田昌幸・佐野房綱（天徳寺宝衍）・由良国繁を除く上野の諸氏は没落しています。",[62,2745,2746],{},"なお、真田昌幸の娘・於菊は、最初の夫・宇多頼次の家が関ヶ原の戦いで没落した後、一益の孫の滝川一積に嫁ぎました。",{"title":139,"searchDepth":140,"depth":140,"links":2748},[2749,2750,2751,2752],{"id":60,"depth":140,"text":60},{"id":2517,"depth":140,"text":2517},{"id":2532,"depth":140,"text":2532},{"id":2547,"depth":140,"text":2547},"天正10年6月16日〜19日（決戦は6月19日）",[2755,2758,2761],{"question":2756,"answer":2757},"神流川の戦いはなぜ起きたのですか？","天正10年（1582年）3月に武田氏が滅ぶと、信長は上野一国と信濃2郡を滝川一益に与え、関東の諸将をまとめさせました。北条氏は織田氏と手を組んでいたのに領地は増えず、一益から北条氏に不利な裁定を受けることもあって、内心では不満と不信を募らせていました。そこへ6月2日に本能寺の変が起こります。北条氏は一益に友好を保つと伝える一方で兵を集め、上野を取りに動きました。",{"question":2759,"answer":2760},"滝川一益はなぜ敗れたのですか？","一益が上野を治め始めてからまだ3ヶ月しかたっておらず、兵の数も北条軍5万に対して1万8千と、大きく劣っていました。18日には上野衆とともに北条氏邦の軍を破りましたが、19日に北条氏直の2万の軍勢と戦って敗れています。一益の兵の多くは、武田氏の旧臣が中心の上野の国衆でした。戦いの後、由良国繁・長尾顕長・北条高広らはすぐに一益から離れ、北条氏についています。",{"question":2762,"answer":2763},"戦いの後、上野や信濃はどうなりましたか？","勝った北条氏直は一益を追って碓氷峠を越え、佐久郡の領主たちを従え、真田昌幸も味方につけて小諸城まで進みました。しかし北信濃には上杉景勝が、甲斐には徳川家康が入り、旧武田領は三者の奪い合い（天正壬午の乱）になります。一方の一益は清洲会議に出られず、織田家中での立場を失いました。上野の国衆は北条氏に従いましたが、天正18年（1590年）の小田原征伐で北条氏が滅ぶと、真田氏などわずかな家を除いて没落しています。",{"name":2765,"lat":2766,"lng":2767},"武蔵国賀美郡周辺（現在の埼玉県児玉郡上里町・群馬県高崎市新町付近）",36.25,139.14,{},"かんながわ の たたかい",{"hojo":2771,"takigawa":2809},{"name":2772,"commander":2773,"warriors":2779,"troops":2807,"casualties":2808},"北条軍",[2774,2776],{"slug":1561,"name":1561,"role":2775},"総大将。19日の決戦で2万の兵を率いる",{"slug":2777,"name":2777,"role":2778},"北条氏邦","鉢形城主。18日の金窪原での戦いで鉢形衆5千を率いる",[2780,2782,2785,2788,2791,2793,2797,2800,2803],{"slug":1622,"name":1622,"role":2781},"前当主。氏直・氏邦に上野を攻めさせる",{"slug":2783,"name":2783,"role":2784},"斎藤光透","金窪城・川井城を守るが、初日に落とされる",{"slug":2786,"name":2786,"role":2787},"斎藤基盛","光透の弟。兄とともに2城を守る",{"slug":2789,"name":2789,"role":2790},"石山大学","18日の戦いで討たれる",{"slug":2792,"name":2792,"role":2790},"保坂大炊介",{"slug":2794,"name":2795,"role":2796},"大道寺政繁","大道寺駿河守入道","武蔵川越の将",{"slug":2798,"name":2798,"role":2799},"松田尾張守","武蔵岩槻の将",{"slug":2801,"name":2801,"role":2802},"成田左馬助","武蔵忍の将",{"slug":2804,"name":2805,"role":2806},"上田安楽斎","上田入道安楽斎","武蔵松山の将","約50,000人（総勢56,000人とする記述もあり）","18日の戦いで200人あまりが討たれる。鉢形衆300人のほか、氏直の近くに仕える者も多く討たれたとする記録がある（松平義行氏所蔵文書）",{"name":2810,"commander":2811,"warriors":2814,"troops":2854,"casualties":2855},"滝川軍",[2812],{"slug":577,"name":577,"role":2813},"総大将。1万8千の兵を率い、19日の決戦には手勢3千で臨む",[2815,2819,2822,2825,2828,2831,2834,2837,2840,2843,2846,2848,2852],{"slug":2816,"name":2817,"role":2818},"滝川益重","滝川儀太夫","尾張以来の滝川家臣",{"slug":2820,"name":2820,"role":2821},"篠岡平右衛門","滝川家の家老",{"slug":2823,"name":2823,"role":2824},"倉賀野秀景","上野倉賀野城主。19日の決戦で息子の五郎太・六弥太を失う",{"slug":2826,"name":2826,"role":2827},"内藤昌月","上野箕輪の将",{"slug":2829,"name":2829,"role":2830},"小幡信貞","上野小幡の将",{"slug":2832,"name":2832,"role":2833},"和田信業","上野和田の将",{"slug":2835,"name":2835,"role":2836},"木部貞朝","上野木部の将。19日の決戦で討たれる",{"slug":2838,"name":2838,"role":2839},"由良国繁","上野金山の将",{"slug":2841,"name":2841,"role":2842},"長尾顕長","上野館林の将",{"slug":2844,"name":2844,"role":2845},"北条高広","上野厩橋の将",{"slug":2359,"name":2359,"role":2847},"信濃上田の将",{"slug":2849,"name":2850,"role":2851},"依田信蕃","芦田信蕃","信濃依田の将",{"slug":2853,"name":2853,"role":2790},"佐伯伊賀守","約18,000人","佐伯伊賀守・木部貞朝のほか、倉賀野秀景の息子2人など上野の将が討たれる","北条軍の勝利。滝川一益は上野を手放して伊勢へ引き揚げた",{"description":139},"本能寺の変の直後、織田家の関東支配を任されていた滝川一益を北条氏が破った戦い。関東で戦国時代最大の野戦ともいわれ、旧武田領の奪い合い（天正壬午の乱）の口火となった",[2860,2861,2862,2865,2868],{"title":588,"author":589,"type":586},{"title":584,"author":585,"type":586},{"title":2863,"author":2864,"type":586},"戦国時代の終焉","斎藤慎一",{"title":2866,"author":2867,"type":586},"群馬県史 通史編3","群馬県史編さん委員会",{"title":2869,"type":592},"上毛古戦記","battles/神流川の戦い",[2872,2875,2879,2883,2887,2891,2895,2899],{"time":2873,"event":1308,"description":2874},"天正10年6月2日（6月21日）","京都で織田信長が討たれる。上野の厩橋城にいた滝川一益には、6月7日（9日とする記述もある）に知らせが届いた",{"time":2876,"event":2877,"description":2878},"6月10日〜13日（6月29日〜7月2日）","信長の死を明かす・沼田城の戦い","一益は上野の諸将を集めて信長父子の死を明かし、北条氏と一戦してから上方へ戻ると告げたという（『上毛古戦記』）。この混乱に乗じて藤田信吉が沼田城を攻めたが、一益は2万の兵で駆けつけて退けた",{"time":2880,"event":2881,"description":2882},"6月11日〜12日（6月30日〜7月1日）","北条氏が動員をかける","北条氏政は11日、これまでどおり友好を保つと一益に書き送った。ところが翌12日には領国に動員をかけ、信長父子の死を確かめると、北条氏直・氏邦に5万の兵で上野を攻めさせた",{"time":2884,"event":2885,"description":2886},"6月16日（7月5日）","北条軍が倉賀野へ","氏直の軍が倉賀野方面へ進む。一益は厩橋城・松井田城・小諸城に守りの兵を置き、1万8千を率いて迎え撃った",{"time":2888,"event":2889,"description":2890},"6月18日（7月7日）","金窪原の戦い","滝川勢はまず、氏邦の家臣・斎藤光透と弟の基盛が守る金窪城・川井城を落とした。続いて金窪原で上野衆とともに氏邦の鉢形衆5千とぶつかり、石山大学・保坂大炊介を討ち取る。味方も佐伯伊賀守を失ったが、北条勢は崩れ、追撃で200人あまりが討たれた",{"time":2892,"event":2893,"description":2894},"6月19日（7月8日）","神流川の決戦","氏直は2万の兵を、一益は手勢3千を率いて戦った。はじめは氏直の兵が退いたものの、最後は滝川勢が敗れる。上野衆でも木部貞朝や、倉賀野秀景の息子の五郎太・六弥太らが討たれた",{"time":2896,"event":2897,"description":2898},"6月19日夜〜20日（7月8日〜9日）","厩橋城へ引き揚げる","一益は倉賀野城を経て厩橋城へ戻り、長昌寺で戦死者を弔った。翌20日には上野衆の人質を返して太刀や金銀を贈り、謡を交わして別れを惜しんだと伝わる。その夜のうちに箕輪城を発った",{"time":2900,"event":2901,"description":2902},"6月21日〜28日（7月10日〜17日）","伊勢へ帰る","碓氷峠を越えて小諸城に入る。木曽を通るため、佐久・小県の国衆から預かった人質を木曾義昌に引き渡し、美濃へ抜けた。清洲会議には間に合わなかった","shf1Pn-FWfszNpftzbVjnsiqt_oGTlyx6aibpeIHAH4",{"id":2905,"title":739,"affiliateItems":2906,"body":2907,"date":740,"description":139,"era":2429,"extension":158,"faq":2965,"lastUpdated":970,"location":2975,"meta":2979,"name":739,"nameKana":2980,"navigation":212,"participants":2981,"path":2639,"publishedDate":970,"result":3023,"seo":3024,"significance":3025,"sources":3026,"stem":3037,"timeline":3038,"__hash__":3074},"battles/battles/末森城の戦い.md",[698,700],{"type":55,"value":2908,"toc":2959},[2909,2911,2914,2917,2920,2922,2925,2928,2931,2933,2936,2939,2942,2944,2947,2950,2953,2956],[58,2910,60],{"id":60},[62,2912,2913],{},"末森城の戦いは、能登国の末森城（現在の石川県羽咋郡宝達志水町）をめぐって、天正12年9月9日（1584年10月12日）に起きた城攻めの戦いである。「末森の合戦」の名でも呼ばれる。",[62,2915,2916],{},"この年、羽柴秀吉と、織田信雄・徳川家康の連合軍とが小牧・長久手で争っていた。越中の佐々成政はその途中で秀吉を見限って信雄・家康の側に移り、秀吉方の前田利家が治める加賀と能登を切り離そうと動いた。成政が1万5千の兵で末森城を囲むと、奥村永福・千秋範昌らが守る城はあと一歩で落ちるところまで追い詰められた。そこへ金沢城から駆けつけた利家が、海沿いの道を進んで佐々軍の後ろに回り込み、これを打ち破った。",[62,2918,2919],{},"敗れた成政は越中に戻って守りに徹し、利家は領国を守り抜いた。小牧・長久手の戦いを政治の面で有利にまとめた秀吉は利家とともに越中へ迫り、翌年の富山の役で成政は降伏する。",[58,2921,2517],{"id":2517},[62,2923,2924],{},"末森城は、標高138.8mの末森山に築かれた山城で、いくつもの曲輪を連ねた造りだった。『信長公記』などには「末守」「末盛」と書かれている。山のあちこちに置かれた曲輪を合わせると、広さは30,000m²にもなる。築いたのは能登畠山氏の家臣で地頭職にあった土肥親真と伝わるが、はっきりしたことは分かっていない。天正5年（1577年）には越後から攻め込んだ上杉謙信に、天正8年（1580年）には加賀の一向一揆を平らげた柴田勝家らに、それぞれ降っている。その後、親真は前田利家に付けられる形となり、城も前田家のものとなった。加賀と能登を行き来する道の要を押さえる城である。",[62,2926,2927],{},"天正12年（1584年）、小牧・長久手で秀吉と信雄・家康がにらみ合いを始めた。越中の佐々成政は、はじめ丹羽長秀を通じて届いた秀吉の出陣の求めに従い、佐々平左衛門を小牧の羽柴方へ送っていた。ところが7月、羽柴方に加わっていた北陸の軍勢が国へ戻ると、成政は一転して信雄・家康の側に立つ。一緒に戻ってきた平左衛門から、羽柴軍が思うように戦えていないと聞いたことが、寝返りを決めるきっかけになったと考えられている。",[62,2929,2930],{},"最初に狙われたのは、前田利家の朝日山城（現在の石川県金沢市加賀朝日町）である。8月28日、成政は不意打ちをかけたが、前田家の家臣・村井長頼に追い返された。",[58,2932,2532],{"id":2532},[62,2934,2935],{},"9月9日、成政は利家の領国を加賀と能登の2つに切り離そうと、宝達山を越えて坪山砦に陣を取り、1万5千の兵で末森城を囲んだ。利家が助けに来るのに備え、北川尻には神保氏張を置いて見張らせている。",[62,2937,2938],{},"翌10日に攻撃が始まった。城では奥村永福・千秋範昌らが300人（500人とする説もある）で立てこもって防いだが、戦いは佐々方の有利に進む。城代を務めていた土肥次茂（土肥親真の弟）も討たれ、城は今にも落ちそうなありさまだった。",[62,2940,2941],{},"危急の知らせは金沢城の利家に届き、利家は2,500人を連れてただちに出陣した。道案内に立ったのは、高松村（現在のかほく市）の農民・桜井三郎左衛門である。一行は佐々方の備えが薄い海沿いの道を選んで北川尻を抜け、今浜にたどり着いた。9月11日の夜明け、利家は城に攻めかかっている佐々軍に後ろから襲いかかり、これを打ち破った。この戦いで命を落とした者は、両軍それぞれ750人あまりに上ったといわれる。",[58,2943,2547],{"id":2547},[62,2945,2946],{},"越中へ引き揚げる成政は、道中にあった鳥越城（石川県河北郡津幡町七黒）が空になっているのを見て、これを手に入れた。城を守っていた目賀田右衛門と丹羽源太郎が、利家が末森で負けたという誤った知らせを信じ、城を捨てて逃げていたためである。とはいえ、これ以後の成政は守りを固めるほかなかった。越後の上杉景勝とも争っていた成政は、東と西の両方に敵を抱え、苦しい立場に置かれた。",[62,2948,2949],{},"勝った利家は手を緩めず、加賀と越中の境にある荒山・勝山の砦を落として、越中にも兵を入れた（奥村氏文書）。9月19日には秀吉から、これら一連の勝ちを祝われている。こうして領国を守り切った利家は、小牧・長久手の戦いを政治の面で有利にまとめた秀吉と足並みをそろえ、成政への圧力を強めていった。",[62,2951,2952],{},"やがて秀吉と信雄が和睦し、家康も兵を引くと、成政は真冬の北アルプスを越えて浜松の家康のもとへ赴き、再び立ち上がるよう説いたとされる（さらさら越え）。しかし家康を動かすことはできなかった。翌天正13年（1585年）、秀吉はみずから大軍を率いて越中へ攻め入り、富山城を囲まれた成政は織田信雄の取りなしで降伏した（富山の役）。",[62,2954,2955],{},"利家が能登と加賀をしっかり治めていく土台は、この勝利によって固まったとみることもできる。末森城はその後、元和元年（1615年）の一国一城令で城としての役目を終えた。本丸の正門は金沢城に移されて鶴の丸南門となったが、宝暦9年（1759年）の火事で焼けている。昭和60年（1985年）からは押水町が大がかりな発掘を行い、15世紀後半から16世紀後半にかけての暮らしの道具や鉄砲玉が数多く見つかった。城跡は平成3年（1991年）に石川県の史跡となり、利家の道案内を務めた桜井三郎左衛門の像や、大河ドラマ「利家とまつ」にちなむ末森山古戦場碑が立っている。",[62,2957,2958],{},"この戦いは、司馬遼太郎の小説『俺は権現』や、原哲夫の漫画『花の慶次』にも取り上げられている。",{"title":139,"searchDepth":140,"depth":140,"links":2960},[2961,2962,2963,2964],{"id":60,"depth":140,"text":60},{"id":2517,"depth":140,"text":2517},{"id":2532,"depth":140,"text":2532},{"id":2547,"depth":140,"text":2547},[2966,2969,2972],{"question":2967,"answer":2968},"末森城の戦いはなぜ起きたのですか？","天正12年（1584年）の小牧・長久手の戦いの途中で、越中の佐々成政が羽柴秀吉の側を離れ、織田信雄・徳川家康の側についたからです。成政ははじめ秀吉の求めに応じて佐々平左衛門を送り出していましたが、7月に北陸の軍勢が戻ってくると、羽柴方の戦いぶりが思わしくないと聞き、信雄・家康の誘いに乗ったとみられています。そこで成政は、秀吉方の前田利家の領国を加賀と能登に切り離そうと考え、2つの国を結ぶ道の要にあった末森城を1万5千の兵で囲みました。",{"question":2970,"answer":2971},"前田利家はどうやって末森城を救ったのですか？","末森城では奥村永福・千秋範昌らが300人で守りましたが、城代の土肥次茂が討たれ、落城は目前でした。知らせを受けた利家は金沢城から2,500人を連れて出陣し、高松村の農民・桜井三郎左衛門の案内で、佐々方の手が回っていない海沿いの道をたどって北川尻を抜け、今浜まで進みます。そして9月11日の夜明け、城に群がる佐々軍の背後を突いて打ち破りました。成政は援軍に備えて北川尻に神保氏張を置いていましたが、利家はその見張りをかわしたことになります。末森城跡には、道案内をした桜井三郎左衛門の像が立っています。",{"question":2973,"answer":2974},"戦いの後、佐々成政と前田利家はどうなりましたか？","成政は越中へ戻る途中、守将が誤った知らせを信じて捨てていた鳥越城を押さえましたが、その後は守りに回るしかありませんでした。越後の上杉景勝とも争っていたため、東西の両方に敵を抱えることになったのです。秀吉と信雄が和睦すると、成政は真冬の北アルプスを越えて浜松の家康に会い、もう一度兵を挙げるよう説いたとされますが（さらさら越え）、家康は動きませんでした。これに対し利家は領国を守り抜き、秀吉と手を組んで越中への圧力を強めていきます。翌天正13年（1585年）、秀吉がみずから大軍を率いた富山の役で、成政は降伏しました。能登・加賀を治める利家の足場は、この勝利によって固まったとみる見方もあります。",{"name":2976,"lat":2977,"lng":2978},"能登国末森城（現在の石川県羽咋郡宝達志水町）",36.8339,136.7785,{},"すえもりじょう の たたかい",{"maeda":2982,"sassa":3009},{"name":2983,"commander":2984,"warriors":2987,"troops":3007,"casualties":3008},"前田軍",[2985],{"slug":2141,"name":2141,"role":2986},"金沢城で知らせを受け、2,500人を連れて出陣。城を攻める佐々軍を後ろから突いて破る",[2988,2991,2994,2997,3000,3002,3004],{"slug":2989,"name":2989,"role":2990},"奥村永福","城将。わずかな兵で城に立てこもり、落城を防ぐ",{"slug":2992,"name":2992,"role":2993},"千秋範昌","城将。奥村永福とともに城を守る",{"slug":2995,"name":2995,"role":2996},"土肥次茂","城代。籠城のさなかに討たれる",{"slug":2998,"name":2998,"role":2999},"前田利長","前田方の将",{"slug":3001,"name":3001,"role":2999},"前田秀継",{"slug":3003,"name":3003,"role":2999},"不破勝光",{"slug":3005,"name":3005,"role":3006},"村井長頼","戦いに先立ち、朝日山城に攻め寄せた佐々軍を追い返す","約2,800人（末森城の籠城軍300人〔500人とする説もあり〕、前田利家の援軍2,500人）","死者は750人あまりとされる。城代の土肥次茂も命を落とした",{"name":3010,"commander":3011,"warriors":3014,"troops":3021,"casualties":3022},"佐々軍",[3012],{"slug":972,"name":972,"role":3013},"総大将。宝達山を越えて坪山砦に陣を置き、末森城を取り囲む",[3015,3018],{"slug":3016,"name":3016,"role":3017},"神保氏張","北川尻に置かれ、前田方の援軍に目を光らせる",{"slug":3019,"name":3019,"role":3020},"佐々平左衛門","佐々方の将","15,000人","死者は750人あまりとされる","前田利家側が勝った。敗れた佐々成政は越中へ引き揚げ、その後は守りに徹した",{"description":139},"小牧・長久手の戦いに合わせて兵を挙げ、加賀と能登を切り離そうとした佐々成政を、前田利家が退けた戦い。利家は自分の領国を守り切り、この勝利が翌年の富山の役へと続いていく",[3027,3030,3034,3035],{"title":3028,"author":3029,"type":586},"図説 前田利家","図説前田利家編纂委員会",{"title":3031,"author":3032,"type":3033},"小牧・長久手の戦いと越中―秀吉陣立書と成政の蜂起―（『富山史壇』第183号）","高岡徹","論文",{"title":981,"author":982,"type":586},{"title":3036,"type":592},"奥村氏文書","battles/末森城の戦い",[3039,3043,3047,3051,3055,3059,3063,3067,3071],{"time":3040,"event":3041,"description":3042},"天正12年3月〜7月","成政、徳川方へ転じる","小牧・長久手で、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康の連合軍がにらみ合う。越中の佐々成政ははじめ、丹羽長秀を通じて届いた秀吉の求めに従い、佐々平左衛門を羽柴方へ送っていた。ところが7月、羽柴方に出ていた北陸の軍勢が国へ戻ると、成政は急に信雄・家康の側についた。戻ってきた平左衛門から羽柴軍が苦しい戦いをしていると聞き、心を決めたとみられている",{"time":3044,"event":3045,"description":3046},"8月28日（10月1日）","朝日山城の急襲","成政は、秀吉方についた前田利家の朝日山城（現在の石川県金沢市加賀朝日町）に不意打ちをかけた。これは前田家の家臣・村井長頼に追い返された",{"time":3048,"event":3049,"description":3050},"9月9日（10月12日）","末森城の包囲","成政は利家の領国を加賀と能登に切り離そうと、宝達山を越えて坪山砦に陣を取り、1万5千の兵で末森城を囲んだ。利家が助けに来ることを見越して、神保氏張を北川尻に置いて見張らせた",{"time":3052,"event":3053,"description":3054},"9月10日（10月13日）","籠城戦","攻撃が始まると、城将の奥村永福・千秋範昌らが300人で城にこもって防いだ。戦いは佐々方の優勢で進み、土肥親真の弟で城代を務めていた土肥次茂が討たれるなど、城はいつ落ちてもおかしくない状況に陥った",{"time":3056,"event":3057,"description":3058},"9月10日〜11日（10月13日〜14日）","前田利家の出陣","金沢城で危急を知った利家は、2,500人を連れて出陣した。高松村（現在のかほく市）の農民・桜井三郎左衛門に道案内をさせ、佐々方の守りが薄い海沿いの道を進み、北川尻を抜けて今浜に至った",{"time":3060,"event":3061,"description":3062},"9月11日明け方（10月14日）","前田軍の後詰","夜明けとともに利家は、城に攻めかかっている佐々軍を後ろから襲い、打ち破った。死者は両軍それぞれ750人あまりに上ったとされる",{"time":3064,"event":3065,"description":3066},"戦後","成政の退却と鳥越城の占領","越中へ引き揚げる成政は、道中で空になっていた鳥越城（現在の石川県河北郡津幡町七黒）を手に入れた。守っていた目賀田右衛門と丹羽源太郎が、利家が末森で負けたという誤った知らせを信じて城を捨てていたのである。以後の成政は守りを固めることに専念した",{"time":3068,"event":3069,"description":3070},"9月19日（10月22日）","秀吉、利家の勝利を賀す","勢いに乗った利家は、加賀と越中の境にある荒山・勝山の砦を落とし、越中にも兵を入れた（奥村氏文書）。9月19日、秀吉はこれら一連の勝ちを祝った",{"time":3072,"event":743,"description":3073},"天正13年8月","小牧・長久手の戦いを政治の面で有利に終えた秀吉は、利家と歩調を合わせて越中への圧力を強めた。やがて秀吉みずから大軍を率いて越中へ入り、富山城を囲まれた成政は8月26日、織田信雄の取りなしで降った","cPY8okaOMaHtiun-Pjc2F1gRRqVJcskwuyHRaIIy1bg",{"id":3076,"title":725,"affiliateItems":3077,"body":3080,"date":726,"description":139,"era":2459,"extension":158,"faq":3170,"lastUpdated":1250,"location":3180,"meta":3184,"name":725,"nameKana":3185,"navigation":212,"participants":3186,"path":2639,"publishedDate":1250,"result":3250,"seo":3251,"significance":3252,"sources":3253,"stem":3269,"timeline":3270,"__hash__":3315},"battles/battles/手取川の戦い.md",[3078,700,3079],"000270","000272",{"type":55,"value":3081,"toc":3162},[3082,3084,3087,3090,3093,3095,3098,3101,3104,3107,3110,3113,3116,3118,3121,3124,3127,3130,3132,3135,3138,3141,3144,3147,3150,3153,3156,3159],[58,3083,60],{"id":60},[62,3085,3086],{},"手取川の戦いは、天正5年9月23日（西暦1577年11月3日）、加賀国の手取川のあたりで上杉謙信の軍が織田信長の軍を破ったと伝わる合戦である。",[62,3088,3089],{},"謙信が能登の七尾城を攻めると、城を守る長続連は織田信長に助けを求めた。信長は柴田勝家を総大将とする4万の軍を送り出したが、その軍が加賀を進んでいる間に、七尾城は城内の寝返りで落ちてしまう。それを知らずに手取川を越えた織田軍は、謙信が後詰に来ると聞いて退きはじめ、夜のうちに追いつかれた。謙信の書状によれば、千人あまりが討ち取られ、水かさの増した手取川で多くの兵が溺れたという。",[62,3091,3092],{},"とはいえ『信長公記』はこの合戦を記しておらず、記録も少ないため、上杉軍が大勝したという結末や戦いの大きさには異論がある。確かなのは、この一連の戦いで謙信が能登を平定し、加賀から越前の一部まで力を広げたことで、これは書状や文書から裏づけられる。武田信玄の死後に押されていた信長包囲網は、謙信が死ぬまでの間、いくらか勢いを取り戻した。",[58,3094,2517],{"id":2517},[62,3096,3097],{},"能登の七尾城では、守護の畠山義隆が天正2年（1574年）7月に亡くなり、幼い畠山春王丸が跡を継いで城主となっていた。その2年後の天正4年（1576年）、越後の上杉謙信が能登を自分の支配下に置こうと、2万余の兵を率いて攻め込んでくる。当主が幼く、重臣の長続連・綱連父子が実権を握っていた能登畠山家は、七尾城に籠もって守った。城が堅固だったため、戦いは翌年まで長引いた。",[62,3099,3100],{},"天正5年（1577年）、関東では北条氏政が攻勢を強め、関東の諸将から助けを求められた謙信は、いったん春日山城へ引き揚げた。そのすきに畠山軍は5月、前年に上杉軍に奪われていた冨木城・熊木城を取り返す。7月18日に長綱連が穴水城を攻めた際には、上杉氏の重臣で能登甲山城にいた平子和泉が、轡田肥後・唐人式部を救援に送った。しかし長連龍が水軍でこれを迎え撃ち、乙ヶ崎合戦で大勝する。轡田肥後・唐人式部・板倉伝右衛門は船に乗りそこね、泳いで穴水城に逃げ込んだと伝わる。長綱連はさらに穴水城を攻め続けたが、謙信がここで引き返すと決め、閏7月に再び能登へ攻め入ったため、綱連は七尾城へ退いた。",[62,3102,3103],{},"閏7月23日には、信長が奥州の伊達輝宗とその家臣・遠藤基信に向けて、越後の本庄繁長と手を組んで謙信を討とうと働きかけていたともいう。",[62,3105,3106],{},"七尾城では、長続連が上杉軍に備えて百姓や町人まで城に入れていた。そのため排泄物の始末が追いつかず、城のあちこちに汚物が放置されてひどく不潔になり、疫病がはやる。当主の春王丸まで病で亡くなり、畠山軍は追い詰められた。続連は、前から親しくしていた信長に助けを求めることにし、長連龍を安土城へ使いに出した。信長にとっても謙信の勢力が広がるのは好ましくなく、すぐに援軍を出すと決めた。",[62,3108,3109],{},"援軍は柴田勝家を総大将とし、滝川一益・丹羽長秀・羽柴秀吉・前田利家・佐々成政・不破光治・原長頼・金森長近・稲葉良通・安藤守就・氏家直昌・斎藤利治・堀秀政・長谷川秀一・徳山則秀と若狭衆からなる4万の大軍で、8月8日に北国へ向けて出発したとされる。",[62,3111,3112],{},"しかし、謙信が動きを隠したことや大雨のために、行軍ははかどらなかった。それでも9月11日には、前衛が津幡のあたりまで進む。謙信はこれに対し、越中・越後の兵で別働隊を仕立てて差し向け、800人ほどを討ち取って退けた。この戦いは手取川の本戦に劣らない規模だったとみられている。11日に謙信が勝ったという知らせは、大坂本願寺の下間頼廉が丹波の荻野悪右衛門に送った書状に記されている。",[62,3114,3115],{},"9月15日、謙信は富山湾から船で1万余の兵を運び、能登半島の三崎に上陸させたと伝わる。上杉の水軍は海と陸の両方から七尾城を囲んだ。城内では、長続連が実権を握っていることに以前から不満を持っていた遊佐続光・温井景隆ら上杉寄りの者たちが寝返って兵を挙げ、続連をはじめ長一族を皆殺しにした。こうして七尾城は落ちた。上杉方は9月17日、加賀と能登の境目にある末森城も攻め落とし、山浦国清と斎藤朝信に守らせた。",[58,3117,2532],{"id":2532},[62,3119,3120],{},"柴田勝家の率いる織田軍は、七尾城がすでに落ちたことを知らないまま進み、梯川と手取川を渡って、能美郡の小松村・本折村・阿多賀と、石川郡の富樫を焼き払った。この間に羽柴秀吉が勝手に陣を離れている。その理由として『武功夜話』は、勝家が秀吉をわざと後ろの部隊に回して手柄を立てさせまいとしたこと、畿内で松永久秀の動きが怪しいと見た秀吉が引き揚げを勧めたのに勝家が聞かなかったこと、の二つを挙げている。",[62,3122,3123],{},"織田軍が近づいていると知った謙信は、すぐに七尾城を出て、手取川に近い加賀郡の松任城に入った。",[62,3125,3126],{},"その後の成り行きは、謙信が9月19日付で書いた書状（『歴代古案』）に記されている。謙信は18日に加賀の湊川まで出て陣を構え、越中・越後・能登の軍勢を先に送り出し、自らも馬を進めた。すると織田方は謙信の後詰を知ったのか、23日の夜中に退却をはじめる。書状はその先を「乗押付、千余人討捕、残者共悉河へ追籠候ケル、折節洪水、無瀬、人馬不抄押流侯」と記す。追いついた上杉軍が千人あまりを討ち取り、残りを川へ追い込んだところ、ちょうど洪水で渡れる浅瀬がなく、人も馬も流されたというのである。謙信はこの勝利を長年の信心が報われた喜びだと書いている。信長が自ら出てくるならひと勝負になると考えていたが、思いのほか手ごたえがなく、この調子なら天下を取るまでの先行きも安心だ、というのが謙信の見立てであった。",[62,3128,3129],{},"こうして織田軍は、本戦で千人あまりの死傷者を出したうえ、増水した手取川で多くの溺死者を出して大敗したとされる。",[58,3131,2547],{"id":2547},[62,3133,3134],{},"上杉軍は越前の丸岡城下、坂井郡まで兵を進めたとされ、九頭竜川の船橋から北を焼き払った。9月26日に七尾城へ戻ると、城の普請に取りかかる。このとき城に上った謙信は、評判どおりのすばらしい眺めで、加賀・能登・越中の要となる位置にあり、海と一つになった守りの固い地で、島々の姿は絵にも描けないほどだ、と書き残している。続いて奥能登の松波城も攻め落とし、能登の大半を押さえた。『満願寺所蔵松波義親肖像賛』には、松波城を守っていた松波義親が天正5年9月25日に謙信と戦って死んだと記されている。",[62,3136,3137],{},"柴田勝家らは10月3日、御幸塚の城塞に佐久間盛政を、大聖寺城に自分の手勢を残して、加賀から引き揚げた。",[62,3139,3140],{},"10月25日、謙信は能登の城々に、鰺坂長実と遊佐盛光が連名で出した十三か条の制札を立てた。七尾城には鰺坂長実を置き、能登には遊佐盛光と上条政繁を配した。上条政繁は能登畠山家の出身で、謙信の養子となって上杉一門の上条家を継いだ人物である。越中の増山城には吉江景資を入れた。さらに能登珠洲郡の知行を家臣に与え、国内の知行を調べ直して整えている。",[62,3142,3143],{},"この戦いを詠んだ落首に「上杉に 逢うては織田も 手取川 はねる謙信 逃げるとぶ長（信長）」がある。「はねる」は勢いに乗って追う上杉勢を、「とぶ」は飛ぶように逃げ帰る織田勢を表したものと解されている。信長がその場にいたかのような詠みぶりだが、信長本人はこの合戦に出ていない。",[62,3145,3146],{},"より大きな流れで見ると、この時期には松永久秀が信貴山城で信長に背いている（信貴山城の戦い）。武田信玄が死んでから押され気味だった信長包囲網は、謙信が死ぬまでの間、いくぶん勢いを盛り返した。天正5年10月になっても、越前で上杉方についた一向一揆と織田方の間に争いがあったと指摘されており、上杉方の勢力は加賀南部から越前にまで及んでいたとみられている。",[62,3148,3149],{},"年が明けた天正6年（1578年）の1月19日、謙信は関東へ出陣するための陣触れを出した。下総の結城晴朝から何度も関東へ出てくるよう求められていたことと、能登・越中・加賀と越前の半分が上杉方についたことが背景にある。謙信が天正5年12月23日付で作った『動員名簿』（『歴代古案』）には加賀衆の藤丸新介の名が見え、『中条家文書』からは、柴田勝家が魚津城を攻めた際に若林九郎左衛門ら加賀衆が城に籠もって奮戦したことがわかる。ここから、この時期の上杉方が能登と加賀を押さえ、その地の国人や一揆衆を家臣として組み込んでいたことが確かめられる。ただし、加賀の富塚荘を治めた柴山氏がのちに溝口秀勝の配下として越後の新発田へ移っていることから、加賀の国侍の中にはなお織田方につく者もいた。天正6年4月23日付の『光明寺文書』には、吉川元春と小早川隆景が加賀の一向一揆に対し、謙信と手を結んで信長に立ち向かうよう勧めたことが記されている。",[62,3151,3152],{},"しかし謙信は、大がかりな遠征を控えた天正6年3月13日、春日山城で急死した。",[75,3154,3155],{"id":3155},"戦いの規模をめぐる議論",[62,3157,3158],{},"記録が乏しく実際の姿がつかみにくいため、上杉軍が大勝したという結末や戦いの規模には異論がある。『信長公記』は、柴田勝家らの出陣と羽柴秀吉が陣を離れたことは記しているが、合戦そのものには触れていない。『長家家譜』も、七尾城を救うために4万の織田勢が出たものの、落城の知らせを受けて秀吉は戦わずに帰陣した、としている。明治から編さんが続く『大日本史料』も、手取川で合戦があって織田軍が大敗したという話は採っておらず、「天正5年9月23日、上杉謙信、加賀湊川に出陣す、仍りて、信長の將柴田勝家等、兵を班す、是日、謙信、之を追撃す」（『歴代古案』『笹生文書』『原本信長記』『北越軍記』『越登賀三州志』『常山紀談』）と記すにとどまる。",[62,3160,3161],{},"これに対して井上鋭夫は『一向一揆の研究』で、謙信方についた本願寺の下間頼廉が天正5年9月25日に、能美郡の旗本・宇津呂丹波に仕えていた堀才助へ夜討ちの手柄をたたえる感状を出していることを根拠に、織田方と上杉方の間で夜の戦いがあったと論じた。ただ、この書状（『北徴遺文』）の日付は「5月25日」となっている。井上はこれを9月の書き誤りとみて天正5年9月25日のものとしたが、書き誤りとする根拠は示していない。",{"title":139,"searchDepth":140,"depth":140,"links":3163},[3164,3165,3166,3167],{"id":60,"depth":140,"text":60},{"id":2517,"depth":140,"text":2517},{"id":2532,"depth":140,"text":2532},{"id":2547,"depth":140,"text":2547,"children":3168},[3169],{"id":3155,"depth":146,"text":3155},[3171,3174,3177],{"question":3172,"answer":3173},"手取川の戦いは本当にあったのですか？","手取川の戦いは記録が乏しく、実際の姿がよくわかっていません。そのため、上杉軍が大勝したという結末や戦いの規模には異論があります。『信長公記』は柴田勝家らの出陣と羽柴秀吉が陣を離れたことは書いていますが、合戦には触れていません。『長家家譜』も、4万の織田勢が出たものの七尾城落城の知らせを受けて秀吉は戦わずに帰陣したとしています。明治から編さんが続く『大日本史料』も、手取川で合戦があり織田軍が大敗したとは書かず、謙信が追撃したという記述にとどめています。これに対し、謙信自身が9月19日付で書いた書状（『歴代古案』）は、23日の夜中に退く織田軍を追って千人あまりを討ち取り、残りを洪水の川へ追い込んだと伝えています。また井上鋭夫は、本願寺の下間頼廉が夜討ちの手柄をほめる感状を出していることから、織田方と上杉方の間で夜の戦いがあったと考えました。",{"question":3175,"answer":3176},"羽柴秀吉はなぜ戦線を離脱したのですか？","秀吉が勝手に陣を離れた理由として、『武功夜話』は二つのことを挙げています。一つは、勝家が秀吉をわざと後ろの部隊に回し、手柄を立てられないようにしたこと。もう一つは、畿内で松永久秀の様子がおかしいと気づいた秀吉が引き揚げを勧めたのに、勝家が取り合わなかったことです。実際、久秀はこのすぐ後に信貴山城で信長に背きました。この一件は勝家と秀吉の対立の始まりとなり、本能寺の変の後の賤ヶ岳の戦いへとつながっていきます。",{"question":3178,"answer":3179},"「上杉に逢うては織田も手取川」という落首は何を表していますか？","「上杉に 逢うては織田も 手取川 はねる謙信 逃げるとぶ長（信長）」という落首が伝わっています。「はねる」は勢いに乗って追いかける上杉勢を、「とぶ」は飛ぶように逃げ帰る織田勢を表していると読まれています。この落首は信長がその場にいたかのような詠みぶりですが、信長本人はこの合戦に出ておらず、織田軍を率いていたのは柴田勝家でした。",{"name":3181,"lat":3182,"lng":3183},"加賀国手取川（現在の石川県白山市・能美郡川北町付近）",36.485,136.53,{},"てどりがわ の たたかい",{"oda":3187,"uesugi":3225},{"name":3188,"commander":3189,"warriors":3192,"troops":3223,"casualties":3224},"織田軍",[3190],{"slug":2317,"name":2317,"role":3191},"総大将。七尾城が落ちたと知らないまま手取川を渡って進む",[3193,3196,3198,3199,3201,3203,3205,3207,3209,3210,3211,3213,3215,3217,3219,3220],{"slug":2195,"name":3194,"role":3195},"羽柴秀吉","軍議で勝家と対立し、断りなく陣を離れる",{"slug":577,"name":577,"role":3197},"援軍として出陣",{"slug":1970,"name":1970,"role":3197},{"slug":3200,"name":3200,"role":3197},"斎藤利治",{"slug":3202,"name":3202,"role":3197},"氏家直昌",{"slug":3204,"name":3204,"role":3197},"安藤守就",{"slug":3206,"name":3206,"role":3197},"稲葉良通",{"slug":3208,"name":3208,"role":3197},"不破光治",{"slug":2141,"name":2141,"role":3197},{"slug":972,"name":972,"role":3197},{"slug":3212,"name":3212,"role":3197},"原長頼",{"slug":3214,"name":3214,"role":3197},"金森長近",{"slug":3216,"name":3216,"role":3197},"長谷川秀一",{"slug":3218,"name":3218,"role":3197},"徳山則秀",{"slug":1252,"name":1252,"role":3197},{"slug":3221,"name":3221,"role":3222},"佐久間盛政","引き揚げのあとも御幸塚の城塞に残される","約40,000人（『長家家譜』等が伝える数。若狭衆を含む）","謙信の書状（『歴代古案』）によれば、本戦で千人あまりが討たれ、水かさの増した手取川でも多くが溺れ死んだ",{"name":3226,"commander":3227,"warriors":3230,"troops":3248,"casualties":3249},"上杉軍",[3228],{"slug":2188,"name":2188,"role":3229},"総大将。七尾城を攻め落としたのち松任城に入り、退く織田軍を追う",[3231,3234,3236,3239,3242,3245],{"slug":3232,"name":3232,"role":3233},"山浦国清","攻め落とした末森城の守りに置かれる",{"slug":3235,"name":3235,"role":3233},"斎藤朝信",{"slug":3237,"name":3237,"role":3238},"鰺坂長実","戦いのあと七尾城代として能登に置かれる",{"slug":3240,"name":3240,"role":3241},"上条政繁","能登畠山家の出で謙信の養子。戦いのあと能登に置かれる",{"slug":3243,"name":3243,"role":3244},"吉江景資","戦いのあと越中の増山城に置かれる",{"slug":3246,"name":3246,"role":3247},"平子和泉","能登甲山城主。轡田肥後・唐人式部を穴水城の救援に送る","資料に本戦の兵力の記載はない（前年の能登侵攻時は2万余、9月15日の三崎上陸時は1万余）","資料に記載なし","上杉軍が勝ったとされる。ただし『信長公記』は合戦そのものに触れておらず、規模については見方が分かれる",{"description":139},"上杉謙信が北陸へ出てきた織田軍を退け、能登と加賀を手に入れた戦い。押され気味だった信長包囲網は、謙信が死ぬまでの間いくらか持ち直した",[3254,3256,3257,3259,3261,3264,3267],{"title":3255,"type":592},"歴代古案（上杉謙信書状）",{"title":591,"type":592},{"title":3258,"type":592},"長家家譜",{"title":3260,"type":592},"北徴遺文（下間頼廉書状）",{"title":3262,"type":3263},"大日本史料","史料集",{"title":3265,"author":3266,"type":586},"一向一揆の研究","井上鋭夫",{"title":2188,"author":3268,"type":586},"矢田俊文","battles/手取川の戦い",[3271,3275,3279,3283,3287,3291,3295,3299,3303,3307,3311],{"time":3272,"event":3273,"description":3274},"天正4年（1576年）","上杉謙信の能登侵攻","謙信は能登を手に入れようと2万余の兵で攻め込んだ。幼い当主を抱える能登畠山家では長続連・綱連父子が実権を握っており、七尾城に立てこもって守る。城の守りは固く、戦いは翌年まで長引いた",{"time":3276,"event":3277,"description":3278},"天正5年5月〜7月","畠山方の反撃と乙ヶ崎合戦","関東で北条氏政が攻勢に出たため、謙信はいったん春日山城へ戻った。そのすきに畠山方は上杉方の冨木城・熊木城を取り返す。7月18日には、穴水城の救援に向かった上杉方の轡田肥後・唐人式部を長連龍が水軍で迎え撃ち、乙ヶ崎合戦で大勝した",{"time":3280,"event":3281,"description":3282},"閏7月","謙信、能登へ再侵攻","謙信が引き返して再び能登へ攻め入ると、長綱連は七尾城へ退いた。城には百姓や町人まで入れていたため汚物の始末が追いつかず、疫病が広がって、当主の畠山春王丸までが病で亡くなった",{"time":3284,"event":3285,"description":3286},"8月8日","織田信長の援軍出陣","長続連は長連龍を安土城へ送り、信長に助けを求めた。信長はすぐに援軍を出すと決める。柴田勝家を総大将に、滝川一益・丹羽長秀・羽柴秀吉・前田利家・佐々成政・堀秀政らと若狭衆を加えた4万の軍が、北国へ向けて発ったとされる",{"time":3288,"event":3289,"description":3290},"9月11日","織田軍の前衛が津幡へ進出","謙信が動きを隠したことや大雨もあって、織田軍の歩みは遅かった。それでも前衛は津幡のあたりまで進んだが、謙信が越中・越後の兵で仕立てた別働隊に800人ほどを討たれる。この戦いは手取川の本戦と同じくらいの規模だったとみられている",{"time":3292,"event":3293,"description":3294},"9月15日","七尾城落城","謙信は富山湾から船で1万余の兵を能登半島の三崎に上げ、海と陸の両方から七尾城を囲んだ。長続連が権力を握ることを快く思っていなかった遊佐続光・温井景隆ら上杉寄りの者たちが城内で寝返り、長一族は皆殺しにされて七尾城は落ちた",{"time":3296,"event":3297,"description":3298},"9月17日","末森城攻略","上杉方は加賀と能登の境目にある末森城も攻め落とし、山浦国清と斎藤朝信を守りに置いた",{"time":3300,"event":3301,"description":3302},"9月18日〜23日","織田軍の加賀進軍と羽柴秀吉の離陣","柴田勝家の織田軍は七尾城が落ちたことを知らずに進み続け、梯川と手取川を渡って小松村・本折村・阿多賀・富樫を焼いた。その途中、軍議で勝家とぶつかった羽柴秀吉は、断りなく陣を離れている。一方、織田軍が近づいたと聞いた謙信はすぐに七尾城を出て、手取川に近い松任城へ入った",{"time":3304,"event":3305,"description":3306},"9月23日夜","手取川の追撃戦","謙信自身の書状によると、謙信が後詰に来たと知った織田軍は23日の夜中に退き始めた。上杉軍はこれに追いついて千人あまりを討ち取り、残りを川へ追い落とす。ちょうど洪水で浅瀬がなくなっており、人も馬も流されたという",{"time":3308,"event":3309,"description":3310},"9月26日〜10月3日","両軍の帰陣","上杉軍は越前丸岡城下の坂井郡まで進み、九頭竜川の船橋から北を焼き払ったうえで、9月26日に七尾城へ戻った。柴田勝家らは10月3日、御幸塚の城塞に佐久間盛政を、大聖寺城に自分の手勢を残して、加賀から引き揚げた",{"time":3312,"event":3313,"description":3314},"10月25日","謙信の能登・加賀支配","謙信は能登の城々に十三か条の制札を立て、七尾城に鰺坂長実、能登に遊佐盛光と上条政繁、越中の増山城に吉江景資を置いた。国内の知行を調べて整え、奥能登の松波城も落として、能登をほぼ手中に収めた","i9xaGMLFD9H7B_e72PmShn-7DHLYHYlVi3PcVQlvIFQ",[3317,3323,3328,3333,3338,3343,3348,3353,3357,3362,3367,3372,3377,3382,3387,3392,3397,3402,3407,3412,3417,3422,3427,3432,3437,3442,3447,3452,3456,3460,3465,3470,3475,3480,3485,3490,3494,3498,3502,3506,3510,3514,3518],{"title":3318,"date":3319,"tags":3320,"stem":3322},"合戦ページを公開しました","2026-02-07",[3321,2161],"お知らせ","articles/2026-02-07-合戦ページを公開しました",{"title":3324,"date":3319,"tags":3325,"stem":3327},"戦国史の杜サイトをオープンしました",[3321,3326],"サイト","articles/2026-02-07-戦国史の杜サイトをオープンしました",{"title":3329,"date":3319,"tags":3330,"stem":3332},"武将ページを公開しました",[3321,3331],"武将","articles/2026-02-07-武将ページを公開しました",{"title":3334,"date":3335,"tags":3336,"stem":3337},"武田信玄と三方ヶ原の戦いのページを公開しました","2026-02-14",[3321,3331,2161],"articles/2026-02-14-武田信玄と三方ヶ原の戦いのページを公開しました",{"title":3339,"date":3340,"tags":3341,"stem":3342},"上杉謙信と第四次川中島の戦いのページを公開しました","2026-02-22",[3321,3331,2161],"articles/2026-02-22-上杉謙信と第四次川中島の戦いのページを公開しました",{"title":3344,"date":3345,"tags":3346,"stem":3347},"記載内容を訂正しました","2026-02-23",[3321],"articles/2026-02-23-記載内容を訂正しました",{"title":3349,"date":3350,"tags":3351,"stem":3352},"真田幸隆と砥石城の戦いのページを公開しました","2026-02-28",[3321,3331,2161],"articles/2026-02-28-真田幸隆と砥石城の戦いのページを公開しました",{"title":3354,"date":3350,"tags":3355,"stem":3356},"表示の不具合を修正しました",[3321],"articles/2026-02-28-表示の不具合を修正しました",{"title":3358,"date":3359,"tags":3360,"stem":3361},"今川義元と第二次小豆坂の戦いのページを公開しました","2026-03-08",[3321,3331,2161],"articles/2026-03-08-今川義元と第二次小豆坂の戦いのページを公開しました",{"title":3363,"date":3364,"tags":3365,"stem":3366},"伊達政宗と摺上原の戦いのページを公開しました","2026-03-15",[3321,3331,2161],"articles/2026-03-15-伊達政宗と摺上原の戦いのページを公開しました",{"title":3368,"date":3369,"tags":3370,"stem":3371},"毛利元就と厳島の戦いのページを公開しました","2026-03-22",[3321,3331,2161],"articles/2026-03-22-毛利元就と厳島の戦いのページを公開しました",{"title":3373,"date":3374,"tags":3375,"stem":3376},"北条氏康と河越城の戦いのページを公開しました","2026-03-29",[3321,3331,2161],"articles/2026-03-29-北条氏康と河越城の戦いのページを公開しました",{"title":3378,"date":3379,"tags":3380,"stem":3381},"明智光秀と本能寺の変のページを公開しました","2026-04-05",[3321,3331,2161],"articles/2026-04-05-明智光秀と本能寺の変のページを公開しました",{"title":3383,"date":3384,"tags":3385,"stem":3386},"島津義弘と耳川の戦いのページを公開しました","2026-04-12",[3321,3331,2161],"articles/2026-04-12-島津義弘と耳川の戦いのページを公開しました",{"title":3388,"date":3389,"tags":3390,"stem":3391},"石田三成と忍城の戦いのページを公開しました","2026-04-19",[3321,3331,2161],"articles/2026-04-19-石田三成と忍城の戦いのページを公開しました",{"title":3393,"date":3394,"tags":3395,"stem":3396},"サイトデザインをリニューアルしました","2026-04-25",[3321,3326],"articles/2026-04-25-サイトデザインをリニューアルしました",{"title":3398,"date":3399,"tags":3400,"stem":3401},"長宗我部元親と中富川の戦いのページを公開しました","2026-04-26",[3321,3331,2161],"articles/2026-04-26-長宗我部元親と中富川の戦いのページを公開しました",{"title":3403,"date":3404,"tags":3405,"stem":3406},"前田利家と賤ヶ岳の戦いのページを公開しました","2026-05-03",[3321,3331,2161],"articles/2026-05-03-前田利家と賤ヶ岳の戦いのページを公開しました",{"title":3408,"date":3409,"tags":3410,"stem":3411},"本多忠勝と小牧・長久手の戦いのページを公開しました","2026-05-10",[3321,3331,2161],"articles/2026-05-10-本多忠勝と小牧・長久手の戦いのページを公開しました",{"title":3413,"date":3414,"tags":3415,"stem":3416},"直江兼続と長谷堂城の戦いのページを公開しました","2026-05-17",[3321,3331,2161],"articles/2026-05-17-直江兼続と長谷堂城の戦いのページを公開しました",{"title":3418,"date":3419,"tags":3420,"stem":3421},"黒田官兵衛と備中高松城の戦いのページを公開しました","2026-05-24",[3321,3331,2161],"articles/2026-05-24-黒田官兵衛と備中高松城の戦いのページを公開しました",{"title":3423,"date":3424,"tags":3425,"stem":3426},"浅井長政と姉川の戦いのページを公開しました","2026-05-31",[3321,3331,2161],"articles/2026-05-31-浅井長政と姉川の戦いのページを公開しました",{"title":3428,"date":3429,"tags":3430,"stem":3431},"斎藤道三と長良川の戦いのページを公開しました","2026-06-07",[3321,3331,2161],"articles/2026-06-07-斎藤道三と長良川の戦いのページを公開しました",{"title":3433,"date":3434,"tags":3435,"stem":3436},"真田昌幸と第一次上田合戦のページを公開しました","2026-06-14",[3321,3331,2161],"articles/2026-06-14-真田昌幸と第一次上田合戦のページを公開しました",{"title":3438,"date":3439,"tags":3440,"stem":3441},"上杉景勝と御館の乱のページを公開しました","2026-06-21",[3321,3331,2161],"articles/2026-06-21-上杉景勝と御館の乱のページを公開しました",{"title":3443,"date":3444,"tags":3445,"stem":3446},"立花宗茂と大津城の戦いのページを公開しました","2026-06-28",[3321,3331,2161],"articles/2026-06-28-立花宗茂と大津城の戦いのページを公開しました",{"title":3448,"date":3449,"tags":3450,"stem":3451},"「今日はなんの日」機能を追加しました","2026-07-05",[3321,3326],"articles/2026-07-05-今日はなんの日機能を追加しました",{"title":3453,"date":3449,"tags":3454,"stem":3455},"全国合戦マップとよくある質問ページを追加しました",[3321,3326],"articles/2026-07-05-全国合戦マップとよくある質問ページを追加しました",{"title":3457,"date":3449,"tags":3458,"stem":3459},"武田勝頼と長篠の戦いのページを公開しました",[3321,3331,2161],"articles/2026-07-05-武田勝頼と長篠の戦いのページを公開しました",{"title":3461,"date":3462,"tags":3463,"stem":3464},"真田信繁（幸村）と大坂の陣のページを公開しました","2026-07-12",[3321,3331,2161],"articles/2026-07-12-真田信繁と大坂の陣公開告知",{"title":3466,"date":3467,"tags":3468,"stem":3469},"豊臣秀長と四国攻めのページを公開しました","2026-07-19",[3321,3331,2161],"articles/2026-07-19-豊臣秀長と四国攻めのページを公開しました",{"title":3471,"date":3472,"tags":3473,"stem":3474},"柴田勝家のページを公開しました","2026-07-26",[3321,3331],"articles/2026-07-26-柴田勝家のページを公開しました",{"title":3476,"date":3477,"tags":3478,"stem":3479},"お市の方のページを公開しました","2026-08-02",[3321,3331],"articles/2026-08-02-お市の方のページを公開しました",{"title":3481,"date":3482,"tags":3483,"stem":3484},"淀殿と小谷城の戦いのページを公開しました","2026-08-09",[3321,3331,2161],"articles/2026-08-09-淀殿と小谷城の戦いのページを公開しました",{"title":3486,"date":3487,"tags":3488,"stem":3489},"丹羽長秀と山崎の戦いのページを公開しました","2026-08-23",[3321,3331,2161],"articles/2026-08-23-丹羽長秀と山崎の戦いのページを公開しました",{"title":3491,"date":2003,"tags":3492,"stem":3493},"藤堂高虎と根白坂の戦いのページを公開しました",[3321,3331,2161],"articles/2026-08-30-藤堂高虎と根白坂の戦いのページを公開しました",{"title":3495,"date":1620,"tags":3496,"stem":3497},"北条氏政と小田原征伐のページを公開しました",[3321,3331,2161],"articles/2026-09-06-北条氏政と小田原征伐のページを公開しました",{"title":3499,"date":1620,"tags":3500,"stem":3501},"織田信長のページの家系図を訂正しました",[3321,3331],"articles/2026-09-06-織田信長のページの家系図を訂正しました",{"title":3503,"date":1250,"tags":3504,"stem":3505},"堀秀政と手取川の戦いのページを公開しました",[3321,3331,2161],"articles/2026-09-13-堀秀政と手取川の戦いのページを公開しました",{"title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